無銘刀

HOME HELP 新規作成 新着記事 ツリー表示 スレッド表示 トピック表示 ファイル一覧 検索

ツリー一括表示

Nomal 8月の読書余論<その4> /武道通信 編集部 (18/08/25(Sat) 07:08) #1606


親記事 / 返信無し
■1606 / 親階層)  8月の読書余論<その4>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:08:10)
    ▼『折口信夫全集 第十巻』S31-3
     宮廷の女房たちは、みこともち。仕えた女貴族のために、歌も代作した。それらがすべて代作であることは、みんな、知っていた。そもそも貴い人はみずから語を発したりしないのだ。

     伊勢物語の「ならの京」。この京は「きやう」と読むべし。「みやこ」と読むのは×。
     西院は「さいゐ」と訓む。

     蜑[あま] という字。もともとシナ南方の異民族。「タン」と発音された。地の果てという意味があり、そのまま民族名にされた。折口は日本の海人の意味で用いる。

    ▼『折口信夫全集 第廿八巻』S32-2
     大正3年に書いた、伊勢清志記。この時点で28歳だが、過去、死にかけたことは四度あった。「一度は木の上から堕ちて、切り株で睾丸を裂いた。幸に一箇月ばかり、小學校を休んで、静養した位のことで、癒著してしまつた。唯すこし性欲に異状のあることを感ずるだけが豫後として残つた。」
     二度目は真っ暗な崖から事故で転落したが、それほど高くなかったために助かった。
     自殺未遂が二度。数えで16歳の年の暮れ26日と、翌年三月の初旬。
     実家の両親は愛情に淡白。
     世相は、日清戦争で、死がたやすい、軽いものになっていた。

     大島紬の大島は、奄美大島。その文様は、「やまのくち」すなわち毒蛇のハブの鱗の印象から来たものだ(p.30)。

     ○○の器量に関する折口の記憶や見聞(pp.77-9)。
     それは現在の中村歌右衛門の娘役の容貌の型と同じだと。

     実家は生薬屋で、夏の夕方には藍畠に生まれた細かい藍の虫が燈火の下に飛来した。
     実兄は、医者になった。

     折口は、恣に心を放つことの妨げになりそうなことは皆さけてきた。それでとうとう家庭なども持たずに年寄りになった(S23寄稿)。
     「私が後に口舌をまじへて争ふことのある報道少将何某と言ふ人」。こいつを信じて硫黄島はなんとかなると思っていた。

     自用車。私有の人力車のこと。父が出かけるときにこれを使う。朝早く出て、晩に戻る。

     昔の大阪では、月見団子を他家の少年が夜、棹の先の釘で突いて盗み食いをする悪戯を、許容する風習があった。

     夏から秋に変わる頃が、古代の村が遠い海から神を迎える時期だった。

     今日(S24)でも、馬にかぎって、あを といわれる毛色のものは黒馬。平安時代だけ、あをうま=白馬だった。しかし奈良町以前は黒馬を指した。

     古代日本人は、輝くような黒と、瑠璃色、深緑は、グラデーションとしてひとつづきに把握されていた。
     眉描きに使った青丹[あをに]が関係するかもしれない。

     折口は、青と聞くと緑色をすぐ思い浮かべる。青山、青葉 という語は適切に感ずる。

     日本の国学者(戦国期〜江戸時代)というものは、奈良朝より前を絶対視してきた。
     そんななか、帝大の国文学科だけが江戸時代までを研究したのである。

     万葉集は難解ながらも繰り返し読むうちに理解できる気になれる。源氏はそうはいかない。だから森鴎外すら匙を投げて、源氏は悪文だと言い放った。鴎外には、単に国文を読む素養がなかっただけ(pp.219-20)。

     馬琴は、江戸に多い病的な精神を持った作者の誰よりも、根強い病気を包蔵して、一生押しとほした人(p.262)。
     『八犬伝』は第九輯だけが、バランスを破って超大部。しかも内容は、八犬士の「その後」譚まで書き及ぶ。
     これは、鴎外の『渋江抽齋』などのスタイルと同じだ。そこまでを書いてくれないと、昔の読者たちは、何とも物足りないと感じたのだ。

     S20-7の『週刊朝日』への寄稿。
     6月25日にラジオで牛島満中将の遺詠が発表された。すなわち「秋待たで枯れゆく島の青草は、皇國の春によみがへらなむ」と「矢玉盡き天地染めて散るとても、魂がへり魂がへりつつ皇國護らむ」。

     S21-1-14『時事新報』への寄稿。
     南北戦争の南軍の幹部に対して寛典が適用されたというニュースを、西郷隆盛は39歳で聞いたはず。そのとき福沢諭吉は32歳だった。
     M5-4-12に西郷吉之助は、鹿児島の桂四郎に手紙を与えた。「亞米利加抔は、戦争落着後に處置を施し候美談も有之」なので榎本などもそうしてやりたかったが、木戸一人だけが反対するので困っていたこと。米国軍艦総督も榎本のことを政府に嘆願してやっても可いと言っていること。この4日にようやく全員特赦になってめでたい。黒田了介ががんばらなかったら、榎本らの命はなかっただろう、と書かれている。

     福沢は癇癖の強かった人。しかしその文章は、言いたいことを自由に表現していながら、しかも毫も悪い後味を残さず、矩も超えない。これは長い修練を経た境地にちがいない。

     平明な用字を言いつけたのは、師匠の緒方洪庵だった。たとえばオランダ人ペルの築城書を和訳するとき、諭吉はまず「応用の材料」と書いたが、これではまずいと自省し、「有合の品」と直した。こんなことが無数にあった。
     緒方先生のおかげで、余(諭吉)は著書も訳書も平易であるという評判を取ったのである、と。

     榎本の助命に奔走したのは、薩摩人だけではない。じつは福沢も動いていた(p.413)。

     石河幹明の『福澤諭吉傅』。婦人に変装した南部連邦大統領の写真があった。その写真は福澤が入手したもので、榎本助命に奔走した当時に、黒田清隆に与えたのだという。末松謙澄がM21頃に、黒田家でその写真を貰い、交詢社にもってきて福澤に確認した。そういうエピソード。

     ※これから東京裁判が始まるというときに、折口はこんな女々しい訴えをしているのである。

     古来、田舎の礼儀では、神=客に、料理の質よりも分量で満足していただく。歩けなくなるほど食べさせないといけないと考えていた(p.424)。

     日本の相撲のルーツ。村の外から、田作を督励する神がやってくる。それに対して地元の田の霊は抵抗する。その霊を神が力でねじ伏せる。
     あるいは土地の女神が来訪した神と争った上で降伏して結婚して孕む。
     このように相撲は最初から八百長試合でなくてはならなかった。もし田の神が勝ったら、怠けるだけで、豊作にはなりようがない。田の神は常に負けなくてはならなかったのである。

     このフィジカルな相撲を、知的な歌に替えたのが、宮廷の御歌合わせ。ただし歌のスポーツでは、女が男に勝ってもよい。才能次第で。しかし、女側が勝ち続けると、単純に結婚はできない。これを一人のキャラクターに昇華させたのが、小野小町。

    ▼『折口信夫全集 第十一巻』S31-6
     短歌を独立させたのは、柿本人麻呂。あまりに偉い人だったので、その死後まもなくから、善い歌であればそれは人麻呂作だとまで、人々は考えた。万葉集の中にもそういうのが混じっている。

     てざわりが粗い着物。それが「あらたへ」。大昔には山の藤の繊維で織っていた。だから「ふぢ」の枕詞。

     領地のことを「シマ」といった。それで、畿内は天皇にとっての「やまとしま」だった。

     他人の評論の影響力について中国の人は「耳食」といった。人がおいしいと言っているものは自分もおいしいと感じてしまう。それは口で食べておらず、耳で食べているからだ、と(p.86)。

     万葉で すみれ と言っているのは今日の げんげ のこと。それを摘みに来てほんとうに野に寝る人がいるか? しかし赤人は、じっさいにはしない風流を意図的に詠んだ。それが芸術だというわけだ。平安朝の古今集は、この赤人式の風流をもてはやし、手本にしていた。

     古今集の四人の編者のひとり、紀貫之。下手といふよりしかたのない文人であった(p.90)。

     古今時代には「朝」と言ったらそれは夜明け前の時間。

     木のまより漏り来る月の かげ見れば、心づくしの秋は 来にけり。
     これについての折口の説明。木立の間から、漏れてさして来る月の光が、色が変わって感じられる(p.97)。
     ※そうではなく、立木の葉がすけてきたために下から月をよく見通せるようになったという情景ではないのか? 紅葉したところで月の光の色が変わるか? この「かげ」は「色」ではなく「シェイプ」でしょう。

     さいしょの勅撰集、その「春」の項目の筆頭に挙げられた作、すなわち『古今集』で最高位とみとめられた一首は、在原元方による「年のうちに、春は来にけり。一年を、こぞとやいはむ。今年とやいはむ」である。
     これを明治の正岡子規が、どこがすぐれているのかさっぱり理解ができず、嘲罵した。
     折口の解説〔昭和5年の「歌の話」〕。
     昔の暦では年の明けないうちに、立春の節という暦の上の時期がやって来ることもあった。「考へればなんでもないところに、わづかな興味を起したにすぎません。だからけつしてよい歌ではありません……《中略》……一種とぼけた歌といはなければなりません」(p.99)。
     ※そうなのか? 『古今和歌集』の成立を仮に914年とすると、900年頃に日本列島はガックリと寒冷化したから、その編纂中に、人々が春を待ち望む心はことのほかに強烈だった。毎冬、一日でも早く次の春が来て欲しいものだという、全国民の祈るような気持ちがあったはずだ。農耕祭祀主たる天皇、およびその廷臣が、その感情を共有していなかったはずがあるか? 折口氏はわが国の歴史的な季節に関してチト鈍感すぎるのではないか。

     鎌倉時代に近くなると、京都の貴族たちの歌が、目に立って変わる。
     新古今集のときが、日本の歌の歴史上、名人・上手がたくさん揃ったとき。 ※『古今』と『新古今』の「春の部」を比較して読めば、その当時の気候変動が反映されていることが偲ばれるはずだ。新古今を編んで、わざわざ山部赤人らの万葉歌人までをたくさん引っ張り出して来る必要が感じられた。現役の優れた読み手が足りぬということはないのに、何故? おそらくは、古今成立前後から新古今までの数十年の間にも、実景と想念上の季節感とのアンマッチな変乱がいちじるしすぎたので、人々が混乱してしまっており、ここで一度、クラシカルでオーソドクスな昔の名詠を呼び戻す必要が痛感されたのではあるまいか。つまり季節感の標準を、万葉時代に見出さんとした。

     西行法師の歌。
     吉野山。櫻の枝に雪散りて、花おそげなる年にもあるかな。
     ※兵頭解説す。この時期は列島が温暖化の最中にあったが、ときどき揺り戻しのように寒冷年が来た。それに驚き、心配している情景。

     しずかな歌を詠みたいとき、内容を濃くしすぎてはいかん。そこで、本人的には無意味・無内容な言葉をさしはさんで水増しするということはよくある。
     永福門院は、南北朝のはじめ頃の伏見天皇の皇后。
     ※ということは玉葉集や風雅集には寒冷化期の人民の気持ちが反映されていなければならぬはず。特に冬と春の境目の変化について敏感でなくてはならぬはず。昔、高田馬場の古本屋で500円にオマケしてもらった八代集のぶあつい上下巻を、いよいよ読み込まねばなるまいて……。


[ □ Tree ] 返信 削除キー/


Mode/  Pass/

HOME HELP 新規作成 新着記事 ツリー表示 スレッド表示 トピック表示 ファイル一覧 検索

- Child Tree -