無銘刀

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Nomal 8月の読書余論<その7> /武道通信 編集部 (18/08/25(Sat) 07:28) #1609


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■1609 / 親階層)  8月の読書余論<その7>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:28:15)

    ▼『折口信夫全集 第十七巻』S31-9
     付録の月報にいわく。大阪市浪速区鴎町は、明治20年には西成郡木津村。
     能舞台の鏡板にはどうして松が描かれているのか。室町時代に存在した「松拍」(マツバヤシ)という芸能人たちが、松の枝を多用していたのだろう。
     しかしその芸能じたいは早く滅びたのだろう。
     神が降りてくる目標の樹木は松であると信ずる人たちが多かった。これが儀式になったのが、門松。

     田楽は、家まではやってこない。田にやってくる。
     田楽の中心役者は「田主」という翁。
     人間から考へると、気持ちの悪い妖怪のようなものだが、それが、田の精霊なのだ。※つまりは後世の泥田坊。

     神楽は、屋敷の庭でおこなわれた。それも、御簾から天覧があるという形式である。
     昔は村の結界が厳重なものだったから、そこを自由に通過する旅行者は、それだけで神に似ていた。

     古代の相撲の形。まず相手の手をとらえて、力比べをする。これを「手を乞ふ」という。次に相手も、こちらの手を乞う。
     手を通して発動する霊魂が相手の霊魂より強ければ、こちらが勝つ。

     里神楽に使われるひょっとこの面は、うそぶく者、まじめな神に対抗して、もどく精霊を顕す。

     べしみ は逆に、沈黙の面。口を固くまげて結んでいることを へしぐち と言った。

     恥をかく と今は言うが、古代には「恥をすつ」と言った。

     無頼のパワーが芸能を活性化させる。その典型が元禄時代。かぶき(反秩序)と官憲の意向が拮抗して熱を発していた。しかし官憲が勝利したので、江戸文化は以後は下り坂である。
     西鶴は無頼だったから味がある。人が顔をしかめるようなことを平気で書いた。

     神の座を「かむぐら」と呼び、そこから神楽ができた。
     鎌倉時代以降、日本には旅の傭兵集団が存在した。たいていは地方の有力豪族の家に寄食すると、そのまま家臣化してしまうのだが、逆にその主人から土地を奪ったり、主人を何度も変える集団もあった。後北條早雲を見よ。宇治から少数の兵力を連れて、まず今川氏に寄食。さらに東国浪人を吸収して、小田原まで出て行った。

     外から来る神は威力があって大きく、土地の精霊は小さい。土地の精霊は征服されなければならない。だから相撲はもともと大きいのと小さいので取り組み、小さい方が負けることになっていた。

    ▼『折口信夫全集 第六巻』S31-4
     遣唐使船は常に4艘だった。だから万葉では「よつのふね」と歌う。
     男子が女子に結婚を申し入れるのに、古くは男子がまづ、女子を訪れて、自分の名を呼ばった。ここから、求婚を「よばふ」と言うたのである。「名のる」というのも、これである。女子の方に応ずる意があれば、また、自分の名を言ふ。

    ▼『折口信夫全集 第八巻』S30-10
     出石人は大陸系。出雲人は半島系。

     S18の寄稿。
     折口は、師匠の金田一がアイヌを調べつくしたので北方のことはやらず、沖縄を探査し、次は台湾を研究しようと思っていた。

     40年くらい前に、喜田貞吉博士が、隠岐島へ行った。そして「わにを喰べて来た」と言った。鱶のことをわにと呼ぶことを、初めて知った。だったら神代の巻に出てくる「わに」は鱶のことかと。

     栲[たへ]とは何か。ポリネシアの原住民が木の皮を槌で叩いて、布のようにする。これを「タバ」と呼ぶそうだ。

     沖縄では抽象的な霊威として「すぢ」「せぢ」がある。たぶん「さち」「さき」と類縁である。

     シナでは、天子が公ならば、皇后は私であるという自覚があった。後漢書。
     日本の天子には私有財産もないし、義務が多すぎる。そこで、生きているうちに現世を楽しみたいと思った天皇たちが、上皇の制度を発明した。壮年にして上皇となれば、私有財産を自由にして、人生の享楽に専心できた。だから、信心などとは無関係。いやいやながら位を譲ったのでもない。その逆なのである(p.82)。

     後世の帰化人たちは、村ごとまるごとの移住者集団だった。

     漢人はアヤヒト。韓人はカラヒト。



    ▼『折口信夫全集 第一巻』S29-10
     うたげ は「拍ち上げ」が転じた。手拍子ではない。宴にさきだって礼拝したのだ。

     蓑笠姿は、古代人にとっては、変装に通じた。神の仮装に、そのままなった。
     八重山には、「まや」という神がおとづれる。海のあなたの「まや」という国から来る。台湾の阿里山蕃人もこの楽土を信じている。
     沖縄本島に近い伊平屋列島でも、この楽土の名を伝えていた。

     大東島はウフアガリジマである。東のことをあがりという。
     託宣は、ささやかれる。大声ではない。

     おめでたう という詞は現に在るハピネスについては言わぬ。ハピネスをこれから招致しようという祝言。

     神饌としてのコメは、くま と称した。コメの原型だろう(p.37)。
     さば(産飯)は、お初穂と同義だった。その音の連想から、鯖が進物になった地方がある。

     日本人の祖先は南方人である。彼らの地では二期作が可能である。だから栽えつけの春が二度あった。刈りあげの秋も二度あった。だから12月の新嘗祭だけでは足らずに、その半年前にも祭を設定したのだ。

     原初には、鵠[くぐい]がとこよの鳥だと思われていた。クグイの数が少なくなると、白い翼の他の鳥類が、白鳥と呼ばれて代役にされた。

     S2のテキスト。
     「尖閣列島にも、〔沖縄の〕舊王朝時代には神の島と眺められて居たものがあつた」(p.58)。

     奇術は、占いの芸道化したもの(p.90)。

     乞食の意味だった「傍居[かたい]」からカッタイという言葉ができた。さらに癩病患者の意味になった。別に「ものよし」という呼び方も300年前からある。ものよし も単に乞食の意味でも通用した(p.93)のだが、明治の国語辞典編集者はすでに癩病の方言だとしか認識していない。忘れ去られたのである。

     『江家次第』には「物吉」と書かれている。
     門跡につかえた「候人」。こうにん と読む。舎人を模した、私設の随身[ずいじん]。寺奴から出た職業で、殺生は平気でする。
     「山法師」とか「南部大衆」と呼ばれたのは、この「候人」の示威団体だった(p.95)。

     万葉集の巻十六に2首の長歌があり、「乞食者詠」と注記されている。これは今の乞食のような無宿の浮浪人とは違う。住居はある。が、農業はせず、他者のチップで生活しているので、蔑視された。巡遊伶人とでも呼ぶべき、後代の千秋漫歳[センズマンザイ]のような門づけ芸の専門集団。それには動物を模倣するパフォーミングが伴った。
     伊勢神宮の鳥名子[となご]舞は、鶏の雛の姿を模する。

     『更科日記』によると、足柄山で上総前司の一行に芸能をみせた「うかれ女」は、まず大傘を立てた下に座を構えた。『大鏡』によると、田舞も、田の中にたてた傘を中心とする。
     近世芸術は、から傘の下から発達したのだ。

     疫病が流行したら、巨大な神の姿を造って道に据えて祀った。これは『続日本紀』に見える。

     稗史のことを小説と言う。官の大に対して市井は小とまず位置づけられる。その庶民の説話、民間の伝説だから「小説」なのだ。

     S2の寄稿。
     文学は信仰に起源があると主張しているのは、折口だけ。
     字を知らず、音声しかない社会で、どうやって文学が消滅しないで保存されたか。
     神授の呪言[じゅごん]をなんとしても伝えて行かなくてはならないという意識が出発点にあるのだ。

     おもひかね の神は、ことどむすび の人格化した名だ(p.127)。呪言の創製者と考えられた。
     延喜式祝詞は、大部分、宣命だ。神授の呪言を宣[の]り降す形式を保存した。

     ことあげ は、ことどあげ の音脱である。対抗者の種姓を暴露してやれば、屈服させることができると考えられた。

     まち は卜象のこと。亀の甲羅や、鹿の肩甲骨を灼くと、ヒビが這入る。これを「町形」と呼んだ。

     「さとり」は四国の山の中にいた怪物。精霊に呪言を悟られてはまずかった。それをこっちに向けて唱えかけられたら、精霊に征服されてしまうからだ。
     延喜式祝詞の「天つのりと」は文字化されていない。そこが最も重要部分だったので、文字化させずに、口伝として秘密化した。だから後代に残らず、かんぜんにうしなわれてしまった。

     うたう は、訴う と同語源。ただし訴訟とは限らない。
     神前裁判のうけひ(誓約)の場(には)で人が誦したのが「うた」だった。
     猿女一族は、代々、女を戸主とする。これが平安宮廷の「女房」にもなる。
     阿禮舎人は、稗田氏。稗田氏は猿女ノ君の支族。だから稗田阿礼は女だった。それが暗誦した宮廷叙事詩を文字に起こして『古事記』に仕立てた。

     生死を判定できない状態の身体に、生魂(いきみたま)を固著[フラ]しめようと、あれこれ1年ぐらい試みたのが、純日本式の喪。


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