無銘刀

HOME HELP 新規作成 新着記事 ツリー表示 スレッド表示 トピック表示 ファイル一覧 検索

ツリー一括表示

Nomal 8月の読書余論<その10> /武道通信 編集部 (18/08/25(Sat) 07:51) #1612


親記事 / 返信無し
■1612 / 親階層)  8月の読書余論<その10>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:51:44)


     藤原良経の詩的天才を妬んだ定家は、闇討ちしたといわれている(p.210)。
     南北朝時代には、たくさんの勅撰集が出た。
     折口いわく。21代集のなかで最もすぐれているのは、玉葉集と風雅集なり。
     その後、戦国争乱の世となり、朝廷は衰微し、しかも、短歌に対抗した連歌が起こってきた。勅撰はおこなわれなくなった。

     鴨長明のような人を隠者という。半僧・半俗。自由なインテリ商売であった。貴族にも武家にも出入りした。手紙の代筆も頼まれた。
     太平記が、兼好法師が高師直の艶書を代書したと伝えるのは、当時としてはふつうにあり得たことなのだ。
     平安時代だったら、女房がこういう代筆をした。(女官は俗事にはかかわらない。神事のみ。)
     隠者は、セックス指南までした。英一蝶や榎本其角。ここから、後世の幇間に至る。

     連歌の発句は、脇句との連続を意図的に断ち切るように、切れ字をやかましく言う。

     男の萬歳に対して、女が出張して祝言を申すのを「桂女」といった。
     室町時代に琉球と交通が開けていたことは、「おもさうし」が傍証。

     我々の歴史上、「近世」の限界点は、室町時代に打つべし。室町からこっちはすべて「近世」。
     江戸時代に新しく生まれ出たものなどないのだ。すべて、室町時代に源流しているから。

     宮廷と同様に、貴族の家でも、巫女が女房化して、主人の言葉を書きとめていた。これが「日記」。
     当時は、目上の者に口で説諭することはできない。言葉の魂で相手を征服することになっちまうから。そこで日記の中に意見を書き込み、それを読んでもらう。さらには、ミニ知識を書き入れて、主人を教育。

     その知識部分だけを書き抜いたのが「枕冊子」。たくさんあったが、清少納言のものだけが残った。
     日記は巻物なのだが、それでは不便なので、和綴じにした。「枕」とは「日常の知識」の意味である。

     むかしの姫君たちは、絵も巧みだった。手習いには、絵画も含まれていた。
     内親王は、むかしは結婚できなかった。のちには非公式に可能になった。
     倭名抄は、字引ではない。読本であり、また、手習いの手本であった。

     清少納言日記は残っていない。おそらく、おそろしく大部なものだったろう。
     なになに家集というのも、女房の日記から抜粋したもの。日記は人に見せるのが大前提なので、じつは誇張や嘘だらけである。

     西鶴は連想が飛躍する人。俳諧の連想なので、わかりにくい。しかし、わかったところで、中味などないのである。

     『日本霊異記』は『今昔物語』より200年早い。
     物語には絵がなくてはならないが、今昔物語では脱落しているので、もはや、逸話集である。

     『宇治拾遺物語』は、口語脈が多い。今昔物語がうけつがれているうちに変化したのだ。この註釈は南方熊楠さんしかできないだろう。

     『栄華物語』はおそらく男の書いたものだろう。辛い批評がまじっているから。

     批評としての歴史が書かれた最初は『大鏡』である。
     源平盛衰記は、目明きが問答の形式で語った。講談に近づいた。
     太平記は、琵琶伴奏を使わなかったようだ。

     にぎはやひ とは魂の名前。大和を統治する者は、この魂を持たねばならなかった。最初は長髄彦がそれを保持していたわけ。

     すさのをの尊が天上から追われる話、そしていざなぎの尊が黄泉国から還ってきてする禊。これらには歌がなければおかしいのだが、最も神秘なものであるとして文字からは除かれ、口頭伝承に任せられた。そして、消失した。

     天子が生まれたときから世話をする人を壬生という。その家は壬生部である。たとえば反正天皇の一代記は、その壬生部が伝えていたのだ。

     山上憶良の発想は漢文から出ている。よって教訓的に響く。
     万葉集の名高い歌は、漢学の素養のある者による代作だ。

     古代では、恋愛も戦争も、名のりかけから始めた。
     挽歌は、べつに悲しんでいるわけではない。死人の魂を鎮めることがだいじであった。
     白鳥が飛び立つことは、人の魂が永久に身体から去ってしまうことだとも考えられた。

     神楽歌のなかにサイバリ(前張)という曲がある。ここから分かれたのが、催馬楽。
     催馬楽は神様を相手にしない。人間だけの宴席の歌。

     天子のことばを女房が万葉仮名で書いたのがひらがなになった。
     カタカナは、寺で発明された。

     やまとだましひ は、儒教の道徳観念とは常に衝突する。
     光源氏と葵の上の縦軸物語と関係ない傍流エピソードはすべて、それを読んだ人々が物足りなくて書き加えていったのかもしれない。

     ひと はヒューマンのことではなく、神とその後継者の意味だった。

     出雲でも沖縄でも、簡略な水葬をする場所が海岸にあった。
     齋部の「いむ」とは、魂が遊離しないように清浄を保って禁欲すること。「いはふ」はその再活用。

     古代にも徳政令があった。「あきかへし」という。商変。
     撰 には作るという意味もあった。

     古代には天子には父母なしと考えた。太上天皇や皇太后を天子が公式に敬ってはいけなかった(p.372)。

     宣命の研究で筋が通っているのは宣長の『歴朝詔詞解』だけ。

     猿女君の家は、天鈿女命から出て、代々女系相続。比叡山の東の麓に土地をもっていた。「きみ」は元来、女を指す。
     また、猿女の養田は「小野」にあった。小野小町が出たとされる村。
     サルの語源はわからない。

     大和からみて、山の背、山の向こう側だから、やましろ と言った。
     近江=淡海国。

     とねり は、女でもいい。とね から出ている。
     紫式部日記の中に「とねあらそひ」という女房のゲームがあった由。

     古代の酒は女がつくった。だから酒造司を刀自(とじ)。女主人を意味した。

     壽詞(よごと)は間違うと大変。禍が起きる。それを神格化したのが「おほまがつひのかみ」。
     その言い間違いをただちに修正して禍を未然に防いでくれるのが、大直毘神。なほらひ である。

     酒の力を借りて、神が示す真実を見ようとする。そういう神事もあった。すなわち、神がかり。これが劇化されたのが、謡曲の「狂ひ物」。注文に応じて狂うことができたわけである。酒だから。

     八幡の神は、奈良時代に九州に上陸して、しだいに京都までやってきた。海人や海賊と関係が深い。

     常陸風土記は異常に高水準に完成している。これは漢文知識人がさんざん編集してしまったことを意味している。

     ちはやぶる神 とは、現実の現住蕃人に他ならぬ。
     海からやってきた人々は平地を占領。蕃人は山中へ退いた。
     常陸国も、「遠の御門」だった。もじどおりの防衛最前線。そこに、ヤマト政権権威の境界があった。


[ □ Tree ] 返信 削除キー/


Mode/  Pass/

HOME HELP 新規作成 新着記事 ツリー表示 スレッド表示 トピック表示 ファイル一覧 検索

- Child Tree -