無銘刀

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■1596 / 親階層)  6月の読書余論
□投稿者/ 武道通信編集部 -(2018/06/23(Sat) 05:03:43)

          ■読書余論 2018-6-25 配信号 / 兵頭 二十八


    ▼『ベルツの日記』第一部・上巻 つゞき

    M22-2-16。
     この日、葬儀のあった森有礼暗殺の消息。森は伊勢神宮において不敬行為があったといわれ、それを大学生たちが怒っていた。暗殺者西野は、学生連の暗殺計画を森本人に話したいと秘書官を通じて申し入れた。そして11日に出刃包丁で下腹部を刺した。文相の護衛役の私服警官が、仕込み杖の日本刀で西野の頭を割った。森は12日の払暁に死亡した。

     3-2。
     青木外務次官は大のドイツ贔屓だが、まさにその理由から、同胞の間に多数の敵を作っている。

     3-11。
     夜、鹿鳴館で東京の商工業者の大舞踏会。皇族や大臣、公使らも招かれた。日本で始めて商工業者がその地位の向上を誇示するイベントだった。

     4-20〜22。
     真鶴あたりを高田氏と視察。ここは一流の冬期療養所や海水浴場になるはずだと納得させた。

     8-9。
     箱根から東京への車中で、吉井宮内次官に、箱根大温泉計画を説明する。

     10-18。
     大隈が爆弾にやられたというので、外務省にすっとんでいく。右足内側のくるぶしの上。そこで脛骨が完全に粉砕されていた。その上に第二の傷。膝関節の内側下方。
     上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことが明白だった。佐藤氏が執刀。
     爆弾はダイナマイト。犯人来島恒喜は、その場で頚部をかき切って自殺した。

     M24-3-7。
     首相山縣の別荘へ。駅から果てしないほど遠い。議会閉院式は天皇が出る。なのに自分は発熱。なんとか出られないかという相談。やめるように勧めた。
     3-8。
     新任の清国公使は、李鴻章の養子で、教養があり、堂々の美丈夫。英語をよく話す。

     5-11。
     大津事件。露太子[ツァレヴィッチ]に警察官が切り付けた。数年前、ロシアが、ロシア平民が一人もいない東京の駿河台に、大教会堂を建てた。その土地は、日本政府がロシア公使館の建設用に提供したものである。これで日本人は非常に怒っていた。ロシア正教信者となった者は国賊視された。

     5-18。
     天皇は、露帝に特に遺憾の意を表されるため、皇族一名と榎本子爵をペテルブルグに派遣される意向である。

     5-29。
     外相青木は事件の責任をとって当然に辞任しなければならない。後任は、ロシア側に多少、気受けのよい唯一の人である榎本。旧幕臣だが、正直で誠意がある。西郷内相も、警官の不祥事だから、辞めなくてはなるまい。

     6-6。
     明治天皇は玉座が皇后の座と同じ高さにあることを、どうしてもがまんできない。しかし井上伯が、西欧風を強制させていた。

     M25-3-2。
     日に百名の新患者が出ている天然痘。今こそ種痘を強制的に実施せよ、と会議で意見具申した。1回の接種ではダメなことは立証されている。以前に自分が提案したように、学校入学時にファーストショット。卒業および徴兵検査の際に再種痘するようにしていたら、とっくに根絶に近づいていたはず。

     3-16。
     外相の榎本邸で豪華な宴会。燕尾服ではなくフロックコート着用と招待状に書いてあったので英人たちは驚く。榎本の七歳の令嬢も日本の踊りを見せた。
     M26-10-28。
     天皇の実母である二位局を往診。胃病診察。天皇の方から実母の家の敷居をまたぐことは決してない。実母の方からは、あらかじめ許可を願い出れば、天皇のもとに伺候することは可能。別に皇太后(先帝の正妻)も生きている。通例「コウダイコウゴウ」と発音する。天皇は年に数回、皇太后を儀式的に訪問する。

     M27-3-19。
     井上文相と夜、サシで懇談。清廉な人格。

     6-22。
     大地震。
     日本式と半洋式の家屋は被害が少なかったが、石造、煉瓦造の建物は、たいがい崩れた。公使館は全滅。

     7-25。
     号外。鎮台の一部に出動命令が下り、予後備召集の準備が進められていると。

     8-27。
     信じられないほど日本にとって一方的に有利に、日英条約が改正された。

     9-5。
     清国側の報道。8-20に平壌付近で大戦闘があって日本軍が完全に撃破されたと。
     日本政府からは何の公表もない。「清國側は作りごとがうまいから、萬事はまだよくわからない」。

     9-21。
     日本軍は海陸で勝利したことが判明。
     16日には平壌を占領していた。17日には鴨緑江河口で清国軍艦4隻を沈めた。

     9-22。
     捷報を聞いても日本人は有頂天になっていない。
     いまや第二軍が編制中である。
     新聞だけが過激。敵を完全に粉砕するまではどんな条件でも媾和するなと。

     11-30。
     新聞各紙は、台湾、満州、くわえて清国の一州を併合せねばならぬと主張している。「これに対して、ロシアが何というだろう」。

     M29-2-28。
     実子のウタ(満2歳)が急死。一昨日の昼に風邪。夜には腹膜炎。
     今朝、東宮武官の黒川将軍が弔問。

     3-2。
     妻のハナの態度をみるにつけ、純日本人社会の考え方や気質が多くの点において、古代ローマ人のそれと似ていると思う。

      ※ここまでで、第一部・上 おわり。次回は、第一部の下から。

    ▼『袖ヶ浦市史研究』第16号(H25-1 pub.)
     戦中の、佐貫地下工場。
     内部は湿気が多く、機械は1日でも動かさないと錆びてしまった。図面もグニャグニャになる。

     トンネル倉庫は排水を考えてないと床が深さ15センチくらいの水溜りになる。

     木更津空の掩体壕の中で、機首のプロペラが二重反転する、見たことのない飛行機を見た、という地元の人の手記あり。解説者は、これは試作機「景雲」の、知られていないタイプではないかとする(pp.22-3)。
     ※「強風」の試作一号機という可能性は排除しているようである。

     木更津中学から動員された学徒が、基地で「後方にプロペラ六枚をつけた局地戦闘機」を見かけたという。これは「震電」の木製モーターグライダー第2号機だったろう(p.31)。
     ※中共のUAVでCH-3というのがあるんだが、これを設計した者はプラモデルで震電を作ったことがあったに違いないと思う。

     当時の回顧。勤労動員された中学生たちは、エンジンや機体をガソリンで拭いた。それはいろいろな添加物がまじっていたので手が白くなった。よっぽど石鹸で洗わないとその白い色は落ちなかった。
     ※オクタン価を高める添加剤は有毒。よく健康被害が無かったものだ。

     バッター制裁を受けたことを「バットを背負わされた」と表現する(p.45)。
     ※動員学徒も精神捧でやられていたと分かる。基地整備員も同然だった。

     零式練習戦闘機は「ゼロレンセン」と呼んだ。千葉の近くの日立の工場で製造していた(p.47)。

     「零練戦一一型」というのがあった。古い「一一型」を改造して練習機にしていた(pp.47-8)。

     橘花のジェットエンジンは後ろから黒い煙を吐いていた(p.56)。
     桜花のキャノピーは、風防を閉めてしまうと、内側からは開けられなかった(p.57)。

     硫黄島が陥落してP-51が護衛につくようになって、はじめてB-29が精密爆撃できるようになった。そこから、木更津の空気も切迫した(p.64)。
     「神風」は皆「カミカゼ」と読んでいた。

     短波の受信機を聴ける立場の者は、米軍による日本語放送を聴いていた。
     旧制中学は、2年までは英語必修だが、3年になると、英語を勉強しなくてよいクラスがあった。

     房総半島では地下壕を掘りまくった。君津から大佐和へかけての内房線の沿線の山の中は、壕にしたトンネルだらけである(p.78)。


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