無銘刀

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■1598 / 親階層)  7月の読書余論<その2>
□投稿者/ 武道通信編集部 -(2018/07/25(Wed) 06:48:39)
     大正の末年、日本の戦車隊の創設にあたり購買団がルノー社と交渉した。未だ戦後型の戦車は開発に着手されていなかった。そこで、日本の購買団が示した仕様条件に基づいて製作されたのが、NC型なのだ。
     当初はしかたなく在庫品のFTを日本は最小限に輸入した。後年、NCを1個中隊分、輸入して、第一次上海戦に、重見独立中隊が89式と併用。しかし遺憾ながらNCは性能が悪く、故障も多くて、戦列から退いた(p.62)。

     S5-10-9、スナイダーの10榴の射撃検査を見学。自緊法の設備も初めて見学した。

     1935にヒトラーが再軍備宣言。
     それを具体的にどうするのか視察しよう、とベルリンの武官・大島浩少将が呼びかけ、内地から、菅、藤室、原中佐と宮野少佐を派遣した。
     内地での発令は9月初め。ソ連がビザを渋ったので10月10日の出発となる。
     敦賀からウラジオ。ウスリー線経由のシベリア横断。
     ウラジオで、日本語の分かる女の税関吏が、『ヂーゼルエンジン』の原書を見て感心し、たちまち検査中止。とにかく技術者は外国人でも尊重されたのである。

     沿線で目についた、スタハノフ運動のポスター。「スタハノフ」は実在の人ではないようだ(p.70)。

     極東地区では飛行場に重爆撃機が沢山並んでいた。
     ウラジオからモスクワまでは10日。

     ウランウデは、前はウェルフネチェンスクと言ったが、ブリヤート語に改められていた。

     ウラル山中のスウェルドロスクは、旧名エカテリンブルグ。
     ソ連の30トンくらいの「T28」と称する戦車は、ドイツのVollmer技師の指導で設計したものだろう(p.72)。

     ポーランドは英国製の7トンのビッカース戦車に国産のディーゼルエンジンを搭載していた。排煙も少なかった。

     ベルサイユ条約は、ドイツ軍の機関銃装備を禁じたが、ドイツメーカーが機関銃の量産用工作機械一式を輸出することを禁じなかった。それを国内に据えればたちまちMG量産ができたのだ。

     ポツダムの軍事博物館は、原の見立てでは、隠された陸軍大学校だった。そこで一次史料を蒐集保存し、館員は実は参謀で、戦略戦術を研究していたのだ。

     ヒトラーのドイツは陸海空軍をどう統制したか。総統(兼首相)の下に、国防省と国防軍総司令部がある。国防大臣は、総司令官兼任である。三軍の省と司令部は、その下に位置した。

     ドイツには国営の兵器工場は無い! すべて民間企業である。英仏なら国有化してしまうだろう。

     無用の重複を避けるために、独空軍の高射砲は陸軍兵器局が審査し制式決定し調達し補給する。海軍の中小火器も同じ。ただ、独軍艦の巨砲だけは、陸軍は干渉しない。自動車類も、陸軍が、三軍すべての面倒を見る。

     航空技術研究所は官立にしない。政府も出資する財団法人としておく。さすれば年度毎の予算に縛られないし、民間もいつでも利用できる。服務時間なども無いから徹夜研究もできる。

     グデリアンはどうやって機械化部隊を立ち上げたか。まず工場を先に完成した。ついで、幹部に車両取扱教育を施した。それが成ってから、部隊を実設した。部隊の最初の装備品も、軽戦車一種に絞って、まずは大規模な訓練ができるように配慮した。
     日本では、兵隊の操縦能力の心配ばかりしたものだが、蓋を開けてみると、上級のエリート参謀と指揮官が機械に無知すぎて、戦車を上手に運用することができなかった。好対照。
     ※今のUAV導入も同じだね。

     日本軍のオートバイはいかにして失敗したか。悪路走破性を重視して、地上高を大きくさせた。エンジンも高い位置に置かせた。そのため重心高であり、不安定。ついに全廃されてしまった。
     ところが問題は資材ではなかった。路外を高重心のオートバイで疾走できるまでに兵隊を訓練することが必要だったのだ。ドイツではモトクロスのプロ級の腕前にまで乗り手を鍛えていた。

     デベリッツの歩兵学校では校長が中佐だった。WWIで片腕をうしなっていたが、自動車も運転できるし、乗馬も馭す。ドイツでは職権が階級に優越する。また軍学校長は実戦経験が重視される。この学校には中佐より先任者や上級者も召集されてくるけれども、校長の識見と経歴がそれを圧倒するので問題がない。

     ユタボーグの砲兵学校では校長は古参中将。これもWWIの経験が貴重だというので、長年その地位にある人。

     ドイツでは師団砲兵の7.5cmは廃止してしまった。10榴から、時限短延期の複働信管または時計信管で擲射する。榴霰弾は廃止。

     爆撃機の学校で電気信管を見る。
     カッセルの兵器廠では、歩兵銃の照尺の最小目盛を400mから100mに改修していた。

     ドイツでは、砲弾の諸素材の製造は民間にさせるが、装薬を以て弾薬を調整する火工作業はすべて軍の弾薬廠が行なう。これは日本との相違点。

     土地が広いので弾薬庫の周囲に土手がない。庫内には温度計も湿度計もなかった。

     エッセンのクルップ工場で、戦車および6輪自動車用の空冷60馬力ユンカース・エンジンを一手に生産していた。

     キールの造船所をクルップが引き取って、船だけでなく6輪重装甲車も製造していた。バックするとき、後尾の2輪を操舵できるので、前進と同じスピードで後退機動できる。

     ドイツの最初の鉄道はニュルンベルグ起点だった。その車両工場が橋梁架設のためにマインツに工場を新設し、さらにアウグスブルグの分工場を併せ、頭文字をとってMANとした。

     量産型軽戦車は車体の正面と側面が13ミリ。それを溶接している。
     全員で報告書をまとめたが帰朝と2.26事件が重なり、長く放置されてしまった。

     S15にドイツの快進撃を視察しようと派遣されたのが、山下独伊視察団。
     綾部少将と原が副団長。
     海軍の、野村直邦中将の一行も合流した。

     陸軍班はS15-12-22に東京発。23日正午に神戸を発して26日朝に大連上陸。
     ハルビンから国際列車に乗り、S16-1-8ベルリン着。
     同地の武官は岡本清福。技術駐在官は木原友二。
     ヒトラーにもグデリアンにもムッソリニーにも面謁した。
     5月はじめ、それとなくドイツ側から帰還を促される感触があった。6-10にベルリンに戻った。
     どうやら山下団長だけが、対ソ開戦が近いと知らされ、引き上げ準備。海軍にも退去を勧告したが、まったく信ぜず。
     ドイツ側協力がきわめて迅速で、6-19に国境を通過。
     ところがモスクワの駐在武官はまったく独ソ開戦なんて信じない。その二日後、開戦。
     一行はなんとか満州に戻ったが、同乗していたドイツの外交官は途中で抑留された。

     置き去りの海軍一行は、中立国船を頼って、荷物を全部捨てて帰朝した由。

     すぐに関特演になったので、原が中心になってまとめたこの報告書も、何の役にも立てられなかった。
     視察中の記念写真には、銅金義一、菅晴次も一緒に写っている。

     グデリアンは、自分は戦車師団の生みの親であって、戦車隊の生みの親ではないと言った。
     グデリアンは若い将校のときから自動車運転が好きだった。

     エベンエメールは何がまずかったか。守兵に野戦の素養がなく、要塞にも出撃口がなく、要するに逆襲を考えていない陣地だった。守兵には軽機関銃も少なかった。

     マジノ線も、反撃のための前方出口が皆無だった。これがドイツ側のイニシアチブを許した。

     ナチスは大学生に徴兵猶予を与えなかった。2年間の兵役を終えた後に大学に進学させた。戦時でも、大学生は一応は召集を受ける。一戦がおわったあとに、休暇の形で帰して、軍服のまま学問を続けさせた。専門工場の工員でも兵役義務者は召集して、実戦のタマの下をくぐらせてからでないと工場に帰さなかった。
     SS師団は全員が前線経験を持つべきであるとしてローテーションで戦場に出した。

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