無銘刀

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■1619 / 親階層)  NO TITLE
□投稿者/ 9月期の読書余論<3> -(2018/09/25(Tue) 07:04:38)

    ▼福本日南『元禄快擧録』イワブン上・中・下 S15
     初出はM45の『九日』の連載。著者入朱本をもとにした。

     勅旨東下は毎年の行事だった。正月に幕府から天朝に金幣を献上。これに対して勅旨が差遣される。
     もてなしとして四座の能役者を悉く招集して観能。
     「幕府は斯くも天朝を尊敬し奉るといふ事を天下に示し、且つは京都の公卿の心を収攬するのである」。

     足利いらいの名家の子孫にして封国を失った者は旗本に収録し、その官位だけを貴くして優遇し、もっぱら典礼のことを掌らしめた。これを高家衆と称する。

     浅野家の三太夫どもがケチで、まさに「庸人國を誤る」となった。
     一夜のうちに宿坊普光院の青畳二百余畳を取易へさせた。
     新井白石は、幕府から朝鮮へ送る公書に、将軍を日本國王と称させた。
     室鳩巣は『義人録』の中で「朝廷、天使を饗す」と書いているが、この朝廷とは江戸幕府のことなのだ。

     さすがに、長裃か、烏帽子大紋かで騙す、なんてことはありえない。年中行事だから、調べればわかることなのだ。

     白書院は血に汚れてしまったので、式場は黒書院に改められた。
     烏帽子には鉄の輪がある。そこに太刀先が当たった(p.49)。

     今日御預、直ちに切腹とは、余りにお手軽いお仕置き。

     赤垣源蔵ではなく、赤埴[あかばね]源蔵だ(p.67)。
     城中備え付けの武具一式そのままに差し出さねばならんが、其の家に属する武具家財は、構いなし。

     士分以上の早籠は制度化されていた。宿場に準備があり、次々にリレーする。乗る者は胴に固く晒布を巻き、吊り紐にしがみつく。維新の頃までまったく同じであった。
     3月14日の午前11時に江戸をスタート。18日の午後10時に赤穂城に到着した。
     道程155里あり、ふつうは1日に40kmくらい。したがって15日か16日は要するところだ。

     塩硝蔵は、赤穂から1里余のところにあった。
     理義に明らかなる者に、明快な決断がある。平生の作法に拘って緩急に応じ得なかったならば、千悔すとも甲斐なし。

     夫れ緩急命を辱めざるは、唯大節ある者にして之を能くするのみ。
     曾國藩は呉子を墨守し、「【ちょう】斗」を鳴らした。これは近世の銅鑼のこと。

     浄瑠璃で「お石」というのは、香林院の姓「石束」にちなむ。力彌は、主税をちからと読むところから考え付いたのだろう。

     近藤三郎左衛門は、小幡勘兵衛に兵法を学び、浅野侯から1000石の重禄で招かれ、赤穂城を縄張りした。その子が源八(p.158)。大野と進退をともにす。

     吉良には、9月に屋敷がえを申し渡し、同月2日に本所へ。前邸は丸の内なので、討ち入れば城内に乱入したことになる。本所の屋敷はきわめて粗末で、防備は隙だらけだった。

     小野寺十内が内室におくった手紙に、主税は15歳で5尺7寸、と証言されている。※満14歳で172cmはあり得ないような気がする。

     首級をあげた者も警備に身を委ねた者もその功に厚薄はないとあらかじめ約した。

     前日の夜から三拠点に集中すること。
     敵吉良の首(しるし)をあげた者は、屍骸の上着で首を包め。
     吉良の息子の首は持参する必要がないので、打ち捨てる。
     吉良父子を討ち取ったときは、合図の笛を吹く。その笛を逓伝すること。
     総人数が引き取る合図には、鉦[どら]を打つ。
     もし追っ手が来た場合には、総人数で踏みとどまって、勝負する。
     味方の負傷者は扶けて去れ。それができぬときは、首を斬って出よ。
     退くのは、後門から。
     吉良の首を獲らぬうちにもし幕府の使いが来たら、門を開けないで待たせる。

     口上書は文箱に入れて、退くときに竹に挿んで立てておく。

     以下、中巻。
     矢頭[やたう]右衛門七[えもしち]の父は、長助。

     吉田忠左衛門は200石取りの世臣。足軽頭・郡奉行というところ。とても町人に化けられる風体ではなかったので、浪人の兵学師範を標榜して裏店に落ち着いた。この看板ならば、浪人多数が出入りし止宿しても、住民の物議にはのぼらない。
     吉田は人数を手配して夜間に上野介が米沢に逃亡しないように見張らせてもいた。

     白須賀と浜松のあいだにある「赤坂」。この近く、夜、太鼓のような音が一定リズムで響く。これは山の小川に水車をしかけ、それが土中に埋めた瓶の上を連打して音を出す、鹿や猿を驚かす装置だという(p.67)。

     千鈞の弩は鼠のためには発しない。

     維新のとき、有名になり中央で立身した人は、もとの藩では二流三流だった場合が多い。もとの藩ですでに仕事を任せられていた一流人は、維新では縁の下の力持ちに終わるしかなかった。これは運・不運である。

     文禄の役で得た明軍の捕虜の中に、孟二寛あり。浙江省の杭州府の武林の人。医者だったので帰化して武林治庵を名乗った。その子が渡辺と改姓して浅野家へ仕官。その子が武林唯七。じぶんで姓を旧に戻した。

     高田馬場では安兵衛は、倒した敵の全員に念のため止めを刺してまわった。
     あかばね という地名は大和の初瀬越にある。赤土を赤埴と言っていたのが転じたのだろう。東京の赤羽も同じ。
     赤埴を御家流でくずして書くと、赤垣に見える。

     本所の吉良邸は総平屋づくりで、竹の腰板を打ち、壁は中塗り。そのため屋内の火が透いて見える。
     槍は短い方がいいだろうと、9尺ばかりに切り縮めた。

     5万3500石の小藩・赤穂では、100石以上の士といえば、大藩の500石以上に匹敵。47人のうち29人までが、100石以上。
     一党の三分の二までは、歴々の上士だったのだ(p.205)。
     ※そこから一挙にホームレスの失業者となるのが忍び得たはずがない。やるしかなかったのだ。さすれば息子はどこかに再就職できるかもしれないので。

     維新ではこの逆。上士はわずかであった。西郷吉之助は茶坊主よりおこり、大村益次郎は藪医者からふるひ、半島帝國の副王殿下も、もとをただせば、桂小五郎家来の者ではおはさぬ歟(p.206)。

     「昔から他人に切腹の相談をする奴に限り、腹切つた例が無い」(p.223)。

     大野九郎兵衛父子は、さいごは青森の蟹田に隠れて寺子屋をしていたとの説もある(p.244)。
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