無銘刀

HOME HELP 新規作成 新着記事 ツリー表示 スレッド表示 トピック表示 ファイル一覧 検索

■1620 / 親階層)  NO TITLE
□投稿者/ 9月期の読書余論<4> -(2018/09/25(Tue) 07:06:15)
     以下、下巻。
     3拠点への参集刻限は、深夜の2時。
     山&川の合言葉は、突入後の室内で互いに相手がロクに見えないときの同士討ちを避けるために決められた。

     用意したものの一部。
     槍×12。弓×4張(うち2張は半弓)。竹梯子×2(大小)。カスガイ×60本。鉞×2。大鋸×2。鉄梃子×2。大槌[かけや]×6。げんのう×2。鉄槌×2。がんどう×1。小笳[こぶえ]×数十個。ドラ×1。玉火たいまつ×数十。

     ガンドウは、首級をあげたあとの吉良の面相を改めるために用意した。
     陣太鼓は用意していない。攻めるときに太鼓を叩くのがシナ兵法だが、このたびは奇襲なので、敵に音を聞かせることはないのだ。

     堀部彌兵衛は76歳で参加した。最年長。
     鎖は、股引にも包んだ。つまり下半身まで装甲していた。
     帯の上にも鎖入りの上帯。
     襷の中にも鎖が入っている。それを縮緬で包む。
     兜頭巾と頭頂の間には、香を焚き込んだ袋を入れる。

     白布にひらがな一文字を書いて胸に付け、同グループ同士を識別しやすくした。
     大小両刀の柄は、平打ちの木綿糸で巻きかえ、巻ききり柄とし、絶対に手の内がすべらないようにした。

     知らざるを知らずとなす。これ、知る也。
     矢田五郎右衛門は新刀の太刀を火鉢にまで当ててまんなかから折ってしまったので、倒した敵の脇差を貰って持ち替えた。

     不破数右衛門は四五人と切り結んで、小手も着物もズタズタに裂かれたが、着込み(鎖)のために傷は負わず。しかし刀身の刃はボロボロに。これは原惣右衛門の証言。

     十内秀和は、不破の次に多い、ひとりで3人を斬り殺した。そのうちの1人は倒れるときに「南無阿弥陀仏」と叫んだという。

     刃向かう者がいなくなったので、捜索の方法を変えた。全員で声を殺し、足音もさせないようにした。すると、物置部屋から声が聞こえた。

     額上の傷痕は、浅すぎて、見分けることはできなかった。
     肩を調べたところ、疵がある。
     ここで早くも味方に慟哭する者がおり、その声は隣の土屋邸にまで聞こえた。
     大石が、喉元から大地にかけて太刀を串刺しにしてとどめを刺し、首を掻き切る役は、初槍をつけた間十次郎に譲った。

     撤収前に、蝋燭をすべて除去し、囲炉裏や火鉢には水をかけた。失火させないため。
     戦闘は、午前四時から六時までかかったことになる。

     首をあげた部隊はさいしょ、回向院(旧国技館近く)に入ろうとしたのだが、拒絶されたので、泉岳寺へ向かった。

     行進途中で駕籠を雇い、負傷者と老人を乗せた。
     コースはことさらに浅野家旧邸の前を通過。
     泉岳寺も俗和尚が主管していて、いったんは断ろうとした。またこの和尚は、切腹後に四大名家から納められた義徒の異物を、おおむね売り飛ばした(pp.84-5)。

     不虞に備えずば、以て軍[いくさ]すべからず。上杉家の襲撃に備えて、一党は、ねた刃を合わせた。

     寺坂が内蔵助から受けた使命は、瑤泉院への会計報告と残金始末であったことを筆写は疑わない。

     吉良邸では、何の反撃もしなかったと思われると聞こえが悪いので、ニ尺三寸の無名の刀に血を塗り、柄に一箇所の切り込みを入れて、十分に反撃したという証拠を捏造して、首なし遺骸の傍らに転がしておいた。ただし、脇差はどこにもないのである。

     表長屋は、2箇所に梯子をかけて乗り越えた。
     裏門は、かけやで打ち破った。その程度の門だということは事前偵察で分かっていた。

     吉良側の兵隊の戦死者は16人だった。重傷者は10人。
     軽傷者は12人。ただしその中に家老が3人いるのは、ただの言い訳。「かすり疵」だと自分でも申告しており、事実上、防戦に加わっていない。下水溝から這い出し、静まってから邸内に戻った。

     闘わず逃亡した兵隊が4人。名前が記録されてしまった。
     この他、邸内におりながら、終始、出合わなかった兵隊たちが104人もいた。
     婦女子以外で148人も兵隊を飼っていたのだからすごい。ふつうの旗本にはそんな資力はない。実の息子の入り婿先が上杉家であったからこそ、可能だった。

     見逃した隣の土屋家の処置は正しかったのだろうか? 新井白石はそこを問われて、一党が引き上げる際に6人ほどは、現場へ留め置くべきであったろう、と評した。
     禮、恭しうして、色、氏mはげ]し。

     細川家では、随意に書信を発するにまかせ、膳部はいつも2汁5菜の盛饌をきわめ、昼餐と晩餐とには御酒(薬酒と称す)さへ添え、お八ツには結構なお菓子。日々、水風呂を沸かす。

     怪我人を乗せる駕籠を雇ったのは、御船蔵の先。

     毛利家では、預かりの10人を運ぶ駕籠に鍵をかけ、青網までかけた。長屋の往来に向いた窓は板を打ち付けた。
     待遇は、細川家>久松家>水野家>毛利家 の順であった。

     生きながらえては、万一晩節を誤るかもしれず、あたら英名に傷がついてしまうから、と言ったのは、日光の法親王・公弁。

     四家とも首実検は最初の1人だけ。1回ごとに畳等をとりかえた。

     細川家は17人の介錯に17人の斬り手をすぐに揃えられた。
     久松家では10人を介錯するのに5人をかろうじて集めた。しかも唯の足軽からも腕の立つのを抜擢しなければならず、臨時に徒歩目付格ということにしてやった。

     毛利邸でも10人の介錯に5人のみ。そして武林唯七の首を一太刀では落とせなかった。斬り手は榊正右衛門――と室鳩巣の『義人録』が書いたものだから幕末までそれが信じられていた。ところが筆者が毛利資料を得て確認したところ、武林の介錯人は鵜飼宗右衛門であると判明した。

     間新六だけが、リアルに腹をかききった。肌脱ぎになってから三方を押し戴くのが順番だったが、その順番を逆にして急に切った。介錯人を出し抜いたのである。
     この間の遺骸のみは、脱藩いらい世話になっていた秋元但馬守の家臣・中堂又助がひきとり、築地本願寺の塔中に葬った。だから、泉岳寺の彼の墓石の下には何もない。

     まっさきに義人と書いたのが室鳩巣。義士と書いたのは浅見【糸冏】斎、烈士と書いたのは三宅観瀾。
     事件を扱った刊本は、享保4年、つまり一党切腹の17年後に最初のものが出た。『赤穂義臣伝』。書いたのは片島深淵で、綿密に取材したもの。幕府から絶版命令が出るのは必至なので、たくさん刷り溜めておき、江戸、京都、大坂、諸州に配っておいて、同じ日に一斉発売した。書林はおおいに儲けた。
     以後の諸本はことごとくこの刊本に勝手な書き加えを施したようなものである。
削除キー/

前の記事(元になった記事) 次の記事(この記事の返信)
親記事 返信無し
 
上記関連ツリー

Nomal NO TITLE / 9月期の読書余論<4> (18/09/25(Tue) 07:06) #1620 ←Now

All 上記ツリーを一括表示 / 上記ツリーをトピック表示
 
上記の記事へ返信

Mode/  Pass/

HOME HELP 新規作成 新着記事 ツリー表示 スレッド表示 トピック表示 ファイル一覧 検索

- Child Tree -