無銘刀

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■1614 / 親記事)  8月の読書余論<その12>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:57:52)
    ▼大野晋ed.『本居宣長全集 第九巻』S51、初版S43
     巻頭解題。
     古事記伝は宣長が没してから21年して、全冊の出版が完了した。
     宣長22歳のとき、商人の義兄が病死。その遺産400両を相続。その資本が年に1割〜1割5分の利息を生んだ。おかげで小児科医となる前に、京都留学ができた。
     京都で儒学をおそわった堀景山は、荻生徂徠と交渉があった。徂徠学の中心思想は、「言[コト]=事[コト]」。言葉を究めれば、事柄が明らかになると考える。
     宝暦17年に、賀茂真淵と運命の遭遇。33歳。師67歳。それまでは古今集や源氏物語が興味の中心だったが、古事記を解明してやろうと志す。
     明和元年から研究がスタートしたが、古事記冒頭の700文字を読解するのに3年半かかった。さらに次のパラグラフの註のためには4年半。
     明和8年には、古代の係り結びの法則を『紐鏡』にまとめた。
     古事記の最も古い写本は、「眞福寺本」。
     宣長いわく、天暦(950年前後)より以前の古書には、い/ゐ、え/ゑ、お/を の仮名が誤用されることがない。それはすなわち人々の口頭の発音に区別があったからだと。
     奈良時代には母音が8種、区別されていた。上代特殊かなづかい。これは明治時代に確定したが、宣長はその発見の端緒に到達していた。
     国学が徂徠学から出たと言われることは事実なのだがくやしいので、宣長は『直毘霊』で儒学を徹底攻撃した。智ふかく、人をなつけ、國を奪ったものが漢國の聖人である。聖人の道など儒者のさえずりごとである。
     大野いわく、モノには時間的展開の要素がない。コトは、時間的に展開するできごと、行為を意味する。そして できごとは、しぜんになりゆくものであると日本人は考えてきた。だとすれば古事記の内容を疑ってはならない。
     これに対して津田左右吉は、人の行為には意図目的があり、記紀のような文書事業にも政治的な意図(天皇家の統治権力が正統であると示す)があったと考える。宣長にはこの視点は絶無である。
     宣長の時代には、比較神話学は微塵も無かった。これも時代の限界。
     大野は、編集方針として、補足はしない。明白に誤りといえるところだけを注記する。補足には、かぎりがないからである。

     以下、本文。
     そもそも「意[ココロ]と事[コト]と言[コトバ]とは、みな相称[かな]えるもの。それなのに『書紀』は、後代の意をもって上代の事を記し、漢國の言をもって皇國の意を記しているから、あひかなはざることが多いのである(p.6)。

     そもそも『日本書紀』という題号が気にくわぬ。漢國は、国名が次々に変わるから、漢書とか晋書とかの命名をせねばわからぬ。しかし日本国はむかしからずっと日本国で、これからもずっと変わりはしない。並ぶものがないのに、どうして国名を記す必要がある。それは漢國にへつらう意味しかないではないか。

     人の智[サトリ]は限りのありて、実[マコト]の理は、得はかりしるものにあらざれば……(p.9)。

     天命とか天心とか天意とか、ぜんぶ漢ごころ。わがくにのいにしへには無いのである。

     またいにしへの天皇が将軍に斧鉞など賜ったりはしない。日本では矛剣[ほこたち]を賜うものである。古事記はその点でも潤色が無い。

     仮名/仮字 とは。もともと「かりな」と言ったのが縮んで「かな」になった。「な」は「字」ということ。

     あしびき は、昔は あしひき と言っていた。
     用の字は、呉音はユウ。漢音はヨウ。

     然而は「シカシテ」と読むのが正式。「シカウシテ」は漢籍を読むのに音便のウが添えられたもので、いわば俗言だ(p.46)。

     カムナガラと神道を結びつけて解説したのは書紀(p.50)。
     道のことは太古は「チ」と言った。そこに「御」がついて「ミチ」。

     漢國に道というものがあるのだから日本にもあるべきだという発想は、たとえるなら、猿どもの人を見て、毛なきぞとわらふを、人の恥じて、おのれも毛はある物をといひて、こまかなるをしひて求め出でて見せて、あらそふが如し。毛はなきが貴きをえしらぬ、痴れ者なり(p.52)。

     もしも天に理とか心があるのなら、どうして始皇帝みたいな悪人に、暫くにても國をあたえるものか。何が天命だ(p.54)。

     人欲もすなわち天理ならずや。
     さだめのきびしきは、すなわち法を犯す者の多きがゆゑぞかし。
     日本の古代にも同母の男女のまぐわひは禁忌である。異母なら江戸時代の今でも忌まない。

     ひこ/ひめ に彦・姫の字をあてたのは書紀であって、古事記ではない。

     「いも(妹)」の意味は現代とは違う。他人同士・きょうだい・夫婦のどの場合でも、男から見て女のことは「いも」と言うたのだ。
     もし、姉と妹が並んでいた場合、姉から見た妹は「おと(弟)」と呼ばれた。
     姉と弟が並んでいた場合、弟から見た姉もやはり「いも(妹)」と呼ばれた。

     男女にかかわらず、2名を比べて年長者を「え(兄)」という。年長でしかも男性の場合は「せ」という。

     あもり は、天降(あまおり)の縮まったもの。
     峡谷を カヒ という。

     神道が数字の8を貴ぶということはない。たとえば ヤヒロ は イヤヒロ が縮まったものにすぎない。

     中心の柱を江戸時代には大黒柱と呼んでいるが、これは漢籍の「大極」が意識されたのだろう。

     水蛭子は「ヒルゴ」と濁って読む。※細胞分裂が始まってじきに流産してしまえば、まさに人体というよりは蛭の形である。女の初産では、これは普通にあり得る。二度目から、万全になるのだ。宣長は小児科医だったが産科の知識はなかったのか。

     姉妹を並べたとき、姉は「えひめ」、妹は「おとひめ」である。

     書紀は、韓国のことを「むかつくに(向津國)」と書く。
     船が停泊することを「はつる」という。
     弓は みとらし、太刀は、みはかし。

     わがそでに あられたばしる……は、万葉に出てくる。
     弓の弦は、「つら」という。草の蔓で製作していたらしい。かづら と通じる。手綱のことは、くつわづら。

     古代には、たたかひ を 「いくさ」とは呼ばない。

     なぜ千人といわずに千頭[チカシラ]なのか? ※柱の上に安置してのニューギニア式鳥葬だから。サレコウベだけよく残るのだろう。

     チ(道)がわかれるから、チマタ。

     みずこり の こり は「(川降)カハオリ」が縮まったもの。
     道祖神の祖は 漢國では旅の神の意味。

     弓を射るときに左腕につける小手。これを上代では「たまき」といい、弓を射ないときにも着装していた。

     江戸時代、犬猫の首に結う紐を「くびたま」という(p.288)。
     田を植える技をすべて「さ」という。それをする月を「さつき」という。

     鞆に弓弦が当たる音は増幅されるような仕掛けがあった。

     井は、井戸に限定されない。泉だろうが川だろうが、飲用水を汲む場所は「井」なのである(p.318)。

     武蔵は、太古は「ムザシ」と言った(p.329)。
     茨城は、ウバラキ。

     地方の支配者が世襲になっているのは封建制。中央から次々と派遣されるのは、郡県制。

     古代の日本語で、語頭が濁ることはない(p.349)。
     日本の占いは、鹿の肩甲骨を焼く方法のみ。ところが漢文の知識で、あちらでは亀卜をすると知ったインテリは、つい書紀にもそのように書かざるを得なかった。じっさいには鹿骨である。

     名詞のササ(笹)の語源は、枝をふりまわしたときに鳴る「サァサァ」という音であることは、証拠がある(p.374)。

     ツルギは、正しくはツルギノタチなのだが、うしろが略された。
     『書紀』は寸斬と書いて「ツダツダニキル」と読ませている(p.404)。
     書紀は、匕首と書いて「カタナ」と読ませる。語源は、カタバ か カタナギ だろう。

     ワニが四足であることは『和名抄』で解説されている。
     がまのほわた ではない。「カマ」である。語頭がにごることはない。

     キサカタという地名はキサガヒという貝が採れるから。今の赤貝である。

     柱と柱のあいだを「ま(間)」と言った(p.454)。
     古代の戸は、引き戸ではなく、開き戸。だから開閉時に音がする。

     かわせみのことは、「ソニ」と言った。これが訛ってショウビンになったり「セミ」になったりした。

     以下、巻末の編者補注。
     カタカナは800年代初めに成立した。奈良の僧たちがつくった。
     ひらがなは弘法大師の時代よりずっと遅いことは確実。というのは弘法大師の時代には49音が区別されていたのに、いろは歌は47音しかないから。

     平安朝の初期よりも前の漢文訓読をどうしていたかは、誰にもまったく分からない。

     憶良や旅人は老人だったから、彼らは大昔の発音の体系を維持していた。
     二つ揃っていることで日本人は完全なものとみなした。

     床岩(トコイハ)がトキワになった。

     おのごろじま の慮の字を盧と書写してあったら、それは室町以降のものである。価値は低い。

     タニという日本語があるところに朝鮮語のコルが入って来て、合成されて「クラタニ」になった。
     朝鮮語で矢のことをsalという。日本語ではヤという。これが複合して、サツヤになった。

     オホヒルメの「ル」は助詞の「の」と同じである。
    平安時代まで「ユキ」だった靫。それ以後ユギと濁る。


引用返信



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■1613 / 親記事)  8月の読書余論<その11>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:56:47)
    ▼大野晋ed.『本居宣長全集 第十巻』S51、初版S43
     くさかんむりのことはサウカウという。
     蛙全般を グク という。

     小さいことも スクナシ という。
     出雲と、紀国国と、共通のことが多い。
     常陸には昔から大洗磯があった。

     常世國は、海を渡って徃く國のすべて。日本は島国だから、外国はすべて常世國だ(p.10)。

     ソホド は、案山子かもしれない。
     鳴鏑神=カブラニナリマセルカミ

     和の字は、倭を後に写しまちがえたのである。書紀には和の字は使わなかった。

     竈はカマと読む。かまどのこと。釜はカマとは読まない。カナエ/マロガナエである。

     いにしえには「ひよし」などない。日吉と書いてあっても「ひえ」と読むのだ。住吉も、太古は「すみよし」とは読まない。かならず「すみのえ」と読んだ。

     場と書いて、ニハと読ませることあり。
     上代の家作は、材木の結合は縄葛を用いた。

     豊葦原のトヨは、その次の國にかかる祝辞。葦にはかかっていない。
     キギシ は雉。

     カコ は鹿の仔ではなく、鹿。馬をコマ、いのししをヰノコと呼んだのも同じ。
     カコユミは、大きな弓のこと。カコヤも同じ。
     鏃のことはヤサキと言った。マカコノヤサキとは、鹿の角材からこしらえた鏃なのである。

     はたばり=幅を略して「はば」と言った。
     古代人は、魚鳥によく、なになにメという名をつけた。これは雌のことを意味しない。

     古事記には「和平」も「平和」も出てくる。
     死ぬことは、まがまがしいことなので、マガルという。

     ※下界から天上へ矢を射掛けたというのは、ニューギニア式の樹上ハウスを射撃したのだろう。

     鼓吹とあるのは横笛のことではない。角笛である。
     身体つきも「カホ」だった。

     信濃の木曽のあたりは、いにしえは、美濃に属していた。
     棚機と書いて、タナバタ。はたおりマシーンは、材木を棚状に組んでいたので棚という字を使う(p.83)。

     あるひといわく。剣の総名を「尾張」というのだと。諸刃。先端の鋒を「ヲ」という。そこがふくらんでいたからだと。

     剣のするどいことを「はしる」と言った。
     刀で撃つことを「かく」と言った。

     熊野の諸手船とは何か。天の鳥船とは何か。
     ※アウトリガー艇のことじゃね?

     手を高く伸ばして物を持つことを「さす」という。
     しなののくに の語源は、繊維を得られた植物の「シナ」の木からだろう。地名にも、保科、仁科、蓼科、更級などが多い。

     「すでに」には「ことごとく」の意味がある。 ex.皆既日食。

     水戸は、「ミナト」と読んでいた。
     燧臼、燧杵。ひきりうす と ひきりぎね。火は「切る」ものだった。
     キル は キシル と同じ。摩擦によって発火させる。
     後に「きりをもむ」という表現も。

     膳夫は、カシハデ と読む。
     海藻には、にぎめ、あらめ、ひろめ がある。昆布はヒロメ。

     まないた の語源の まな は魚のこと。「な」だけだと、魚と野菜の両方を意味する。しかし、食料としては魚の方が上なので「真」をつけてもちあげた。

     猿田彦は、古事記では「さるたびこのかみ」。
     神の みたま はオムニプレゼンスである。たとい千分割したとしても、減ることはなく、ここでもあそこでもいずこでも、ことごとく備わり、その用が欠けることはないのだ(p.159)。

     釧とは、臂のあたりに巻きつけた多数の小さい鈴。
     宣長は、半島を【けものへんに百】と書いて「こま」と呼び、大陸を唐と書いて「もろこし」と呼ぶ。

     ※日向には、ウキジマ と ソ の2種の土着民族が居て、その両グループを道案内にしたのではないか。

     宣長の聞いた話では、霧島に登山すると、ときどき噴煙で闇のようになり、その煙のために死ぬ人もいる。

     佐伯氏は、垂仁期に、大伴から分かれた。
     ※弓矢は支配者が持ち、靫[ゆげ]は被支配民が負うて随行したのか。

     なかまるこ氏も大伴から出た。

     九州の地名のカラクニは韓国ではない。火山礫の地面ゆえに不毛の土地、空の国という意味なのだ(p.199)。

     メノカガヤク → マカガヤク → マカガ → マガ。よって まがたま とは曲がった宝石の意味ではない。
     ※宣長は、大きな野獣の牙には、他の動物をじっさいに怖がらせる力があることを知らなかった。だから曲がった宝石などに何の価値があるのか、と書いている。牙の形を模していることに、意味があったのだ。

     古事記でも段落の頭に「故[カレ]」という字を、特に意味もなく、軽く置くことがある(p.207)。

     50人をイヒトという。40人をヨソヒトという。20人をハタヒトという。

     あるひといわく。脇差は古代には6〜7寸で、外からは見えないように懐中し、護身用の守刀としていた。東山殿のころから、下人がこれを顕して腰に差すようになったのである、と(p.213)。

     ニヘ は ニヒアヘ が短縮されたもの。
     志摩 は地域としてもともと伊勢国の一部。島が多いため、そのまま国名になった。

     食卓を つくゑ と言った。
     唐の高宗も「天皇」号を唱えたことがあるが、後に続かなかった。

     勇猛であることを「はやし」とも「とし」とも言った。ハヤトには勇猛の意味がある。

     上古には、薩摩までも日向ノ國だった。
     越ノ国の立山は、上古には タチヤマ と言った。

     古事記にある「得物矢」を「サツヤ」と読んだのは賀茂真淵。
     薩摩の さつ も、そこに住んでいた 幸取彦 たちにちなむのだ。

     海幸彦と山幸彦のどちらが先に交換をもちかけたかは、記と紀で一致しない。※新来の山民族が土着の海民族の不興を買って、ぎゃくに平らげた歴史だと考えると、弟から乞うたとする古事記が最も合う。ところが宣長はそれでは不満らしい。兄から乞うたことにした方が整合すると主張している。それだったら古事記教信者じゃなくて異端だよね。

     「龍宮」というのは仏教の用語である。「水神宮」はシナ文献に出る。日本では、ワタツミノカミノミヤ。

     井上という地名は、もともとは ゐのべ。井のほとり。
     海獣の皮を敷くものも「畳」であった。皮畳。

     古事記の今夜[コヨヒ]は、昨晩のことを言う。

     喉のことは ノミト と言った。
     海の神はみな、まことの形は、魚なのである。人にまじわるとき、仮に人の形になるだけ。

     神代15之巻に出る「あかだま」。契沖は珊瑚のことかと考えた。宣長いわく、ただの赤玉だと。※アクエリアスの Aqua でしょうね。

     高千穂とは、霧島山のことである(p.287)。
     祖父・祖母のことは「オヂ」「オバ」と発音する。父母のきょうだいのことは「ヲヂ」「ヲバ」と発音した。

     寛政3年に宣長いわく。なんでも理屈っぽければ正しいといえるか? 西洋人は、地球が丸く、しかも虚空に浮かんでいることをつきとめたではないか。古代の漢人の宇宙理解は間違っていたのである(p.298)。

     御宇 は、名詞ではない。統治なさる という意味の連体語で、かならず、それが係る体言がある。つまり ××天皇の御宇 という言い方は間違いである。××天皇の御宇の時 とまで言わねばならない(p.319)。

     宣長の時代、奈良人は京都方向を「シモ」と呼び、京都に行くことを「クダル」と言っている。

     宣長いわく、現在、快晴の空のことを「青雲」という。雲がないのに。
     夢のことは イメ と言った。

     サジフツノカミ のサジは何なのか、宣長は見当がつかない(p.351)。※アングロサクソンのSAX=剣 だったと分かれば矛盾は無い。出雲まではアーリア語が入っているのだ。インド海民とともに。そもそも筑摩版編者の大野晋は古代インド言語には詳しいはずなのに、どうして古事記の各所に頻出する「さひ」がインドの刀剣の意味に通じていることを適宜に補説してやらないのか。宣長は「さひ」の解明にも苦しんでいるではないか。

     古代、刀を振ることを フク と言った(p.354)。
     吉野 は、えしぬ と言った。

     もうしこす という言い方は、申し起こす を縮めたものなのだ。ところが誰かがこれに 申し越すという漢字を当てたものだから、げんざい、人々の誤用が甚だしい(p.358)。

     「オレ」は、古代には、他人をいやしめて呼称したものだった。それが今日では、じぶんのことを指すようになった。

     前妻のことは コナミ という。後妻は ウハナリ。
     前夫は シタヲ。後夫は ウハヲ。
     日本書紀では、嫉妬 と書いて ウハナリネタミ と読ませている。

     ミツミツシ は久米の枕詞だが、目玉が大きかったことを表す。
     いしつつぃ =石刀。ツツィに槌の字を当てることも。

     女軍 メイクサ とは主力部隊ではない弱い部隊のこと。
     敵を驚かせるため、炭火に注水することがあった(p.400)。

     島つ鳥 は、鵜のこと。野つ鳥 は、雉のこと。庭つ鳥 は、鶏[カケ]。

     垂仁天皇の頃から、石上の神宝は物部氏が管掌する。
     書紀の欽明巻に「火箭[ヒノヤ]」が出る。

     畝傍山は古事記では「畝火」と書いている。ただし ビ と濁る。
     応神天皇は、うまれたときに腕に鞆[とも]のような肉があったので、おおとものわけのみこと と呼ばれたと。

     「某仁」という天皇の命名法は清和天皇(惟仁)から始まる。例外が4人ある。後鳥羽(尊成)、順徳(守成)、後二条(邦治)、後醐醍(尊治)。

     之大人[ノウシ]が縮まって、主(ヌシ)になった。
     すべて男女のマグハヒのことわりにたがえるを タハク という。

     鐔[つば]は、古くは ツミハ といい、このミがぬけて ツハ となり、後代にツバに変わった。

     闘鶏を「ツケ」という。
     口の反対が奥。また、後[シリ]ともいう。

     安那 アナ。この発音が不吉だというので、地名が「ヤスナ」に変えられたところがある。

     トマル は、もともとは トドマル。同音連続は省略されるのだ。
     鳥網は トナミ。

     続日本紀よりこなた、蘇我氏は見えない。これは石川と改名したからである。
     丹波は もとは タニハ だった。言い難いので音が転じた。

     孫のことは大昔は ヒコ と言った。

     以下、巻末の大野の解説。
     音韻学からしてトコヨは常世ではあり得るけれども、常夜では絶対にありえない。
     サルタビコ/サルメ の サ は稲のこと。それも、神に奉る稲。ルは 助詞の ノ と同じである。すなわち「神の稲の田の男」「神の稲の女」。奉納用の神田に奉仕する芸能人だったか。
     朝鮮語に、多いことを意味するヨロがあり、それに助数詞がついたのが「ヨロヅ(萬)」だろう。「宣し」は、「寄ろし」が語源である。
     つくゑ は、つきうゑ の約されたことばである。つきすゑ ではない。
     古代のアヲというのは今の灰色のこと。シロのようにハッキリとしていないことを強調した。緑とも青とも無関係であった。


引用返信



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■1612 / 親記事)  8月の読書余論<その10>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:51:44)


     藤原良経の詩的天才を妬んだ定家は、闇討ちしたといわれている(p.210)。
     南北朝時代には、たくさんの勅撰集が出た。
     折口いわく。21代集のなかで最もすぐれているのは、玉葉集と風雅集なり。
     その後、戦国争乱の世となり、朝廷は衰微し、しかも、短歌に対抗した連歌が起こってきた。勅撰はおこなわれなくなった。

     鴨長明のような人を隠者という。半僧・半俗。自由なインテリ商売であった。貴族にも武家にも出入りした。手紙の代筆も頼まれた。
     太平記が、兼好法師が高師直の艶書を代書したと伝えるのは、当時としてはふつうにあり得たことなのだ。
     平安時代だったら、女房がこういう代筆をした。(女官は俗事にはかかわらない。神事のみ。)
     隠者は、セックス指南までした。英一蝶や榎本其角。ここから、後世の幇間に至る。

     連歌の発句は、脇句との連続を意図的に断ち切るように、切れ字をやかましく言う。

     男の萬歳に対して、女が出張して祝言を申すのを「桂女」といった。
     室町時代に琉球と交通が開けていたことは、「おもさうし」が傍証。

     我々の歴史上、「近世」の限界点は、室町時代に打つべし。室町からこっちはすべて「近世」。
     江戸時代に新しく生まれ出たものなどないのだ。すべて、室町時代に源流しているから。

     宮廷と同様に、貴族の家でも、巫女が女房化して、主人の言葉を書きとめていた。これが「日記」。
     当時は、目上の者に口で説諭することはできない。言葉の魂で相手を征服することになっちまうから。そこで日記の中に意見を書き込み、それを読んでもらう。さらには、ミニ知識を書き入れて、主人を教育。

     その知識部分だけを書き抜いたのが「枕冊子」。たくさんあったが、清少納言のものだけが残った。
     日記は巻物なのだが、それでは不便なので、和綴じにした。「枕」とは「日常の知識」の意味である。

     むかしの姫君たちは、絵も巧みだった。手習いには、絵画も含まれていた。
     内親王は、むかしは結婚できなかった。のちには非公式に可能になった。
     倭名抄は、字引ではない。読本であり、また、手習いの手本であった。

     清少納言日記は残っていない。おそらく、おそろしく大部なものだったろう。
     なになに家集というのも、女房の日記から抜粋したもの。日記は人に見せるのが大前提なので、じつは誇張や嘘だらけである。

     西鶴は連想が飛躍する人。俳諧の連想なので、わかりにくい。しかし、わかったところで、中味などないのである。

     『日本霊異記』は『今昔物語』より200年早い。
     物語には絵がなくてはならないが、今昔物語では脱落しているので、もはや、逸話集である。

     『宇治拾遺物語』は、口語脈が多い。今昔物語がうけつがれているうちに変化したのだ。この註釈は南方熊楠さんしかできないだろう。

     『栄華物語』はおそらく男の書いたものだろう。辛い批評がまじっているから。

     批評としての歴史が書かれた最初は『大鏡』である。
     源平盛衰記は、目明きが問答の形式で語った。講談に近づいた。
     太平記は、琵琶伴奏を使わなかったようだ。

     にぎはやひ とは魂の名前。大和を統治する者は、この魂を持たねばならなかった。最初は長髄彦がそれを保持していたわけ。

     すさのをの尊が天上から追われる話、そしていざなぎの尊が黄泉国から還ってきてする禊。これらには歌がなければおかしいのだが、最も神秘なものであるとして文字からは除かれ、口頭伝承に任せられた。そして、消失した。

     天子が生まれたときから世話をする人を壬生という。その家は壬生部である。たとえば反正天皇の一代記は、その壬生部が伝えていたのだ。

     山上憶良の発想は漢文から出ている。よって教訓的に響く。
     万葉集の名高い歌は、漢学の素養のある者による代作だ。

     古代では、恋愛も戦争も、名のりかけから始めた。
     挽歌は、べつに悲しんでいるわけではない。死人の魂を鎮めることがだいじであった。
     白鳥が飛び立つことは、人の魂が永久に身体から去ってしまうことだとも考えられた。

     神楽歌のなかにサイバリ(前張)という曲がある。ここから分かれたのが、催馬楽。
     催馬楽は神様を相手にしない。人間だけの宴席の歌。

     天子のことばを女房が万葉仮名で書いたのがひらがなになった。
     カタカナは、寺で発明された。

     やまとだましひ は、儒教の道徳観念とは常に衝突する。
     光源氏と葵の上の縦軸物語と関係ない傍流エピソードはすべて、それを読んだ人々が物足りなくて書き加えていったのかもしれない。

     ひと はヒューマンのことではなく、神とその後継者の意味だった。

     出雲でも沖縄でも、簡略な水葬をする場所が海岸にあった。
     齋部の「いむ」とは、魂が遊離しないように清浄を保って禁欲すること。「いはふ」はその再活用。

     古代にも徳政令があった。「あきかへし」という。商変。
     撰 には作るという意味もあった。

     古代には天子には父母なしと考えた。太上天皇や皇太后を天子が公式に敬ってはいけなかった(p.372)。

     宣命の研究で筋が通っているのは宣長の『歴朝詔詞解』だけ。

     猿女君の家は、天鈿女命から出て、代々女系相続。比叡山の東の麓に土地をもっていた。「きみ」は元来、女を指す。
     また、猿女の養田は「小野」にあった。小野小町が出たとされる村。
     サルの語源はわからない。

     大和からみて、山の背、山の向こう側だから、やましろ と言った。
     近江=淡海国。

     とねり は、女でもいい。とね から出ている。
     紫式部日記の中に「とねあらそひ」という女房のゲームがあった由。

     古代の酒は女がつくった。だから酒造司を刀自(とじ)。女主人を意味した。

     壽詞(よごと)は間違うと大変。禍が起きる。それを神格化したのが「おほまがつひのかみ」。
     その言い間違いをただちに修正して禍を未然に防いでくれるのが、大直毘神。なほらひ である。

     酒の力を借りて、神が示す真実を見ようとする。そういう神事もあった。すなわち、神がかり。これが劇化されたのが、謡曲の「狂ひ物」。注文に応じて狂うことができたわけである。酒だから。

     八幡の神は、奈良時代に九州に上陸して、しだいに京都までやってきた。海人や海賊と関係が深い。

     常陸風土記は異常に高水準に完成している。これは漢文知識人がさんざん編集してしまったことを意味している。

     ちはやぶる神 とは、現実の現住蕃人に他ならぬ。
     海からやってきた人々は平地を占領。蕃人は山中へ退いた。
     常陸国も、「遠の御門」だった。もじどおりの防衛最前線。そこに、ヤマト政権権威の境界があった。


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■1611 / 親記事)  8月の読書余論<その9>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:47:02)
    ▼『折口信夫全集 第十二巻』S30-8
     上方には家元制度がなかった。
     三味線はさいしょ、盲法師が使った。按摩はもとからの本職ではない。琵琶語りがほんらいのプロフェッションなのだ。それが三味線になり、琴になった。

     江戸の歌舞伎と上方の文楽は、文化・文政期より前は没交渉。
     浄瑠璃の台本に傍点が打ってある。これが「ちょぼ」。

     阿国が認められたのは、早くから京へ上ったから。類似の運動が多にもいろいろあった。
     女歌舞伎では、女が主役格の男に扮し、その相手役は、若衆が扮している遊女、なのである。女が扮した男が色町通いをするところを演劇にした。これが大ウケした。

     若衆が前髪を落とせば、それが野郎。
     なになに座というのは、社寺の祭礼や法会のときの、村の一団の者の控え場所。

     思ふに鶴屋南北は、尾上松緑・菊五郎がなければ、あらわれなかった。尾上は怪談物に優れていた。だから脚本家として、その方面へ進んだ。

     芝居の約束。二枚目役者は、間の抜けたシーンを必ず少し見せるようにしなければいけない。

     江戸のことは鎌倉だということにし、隅田川のことは稲瀬川とする。
     大阪の事件であれば、京都か近江に舞台を変える。

     「江戸の町人は、活溌で、人を冷笑する様な處はあるが、決して勇氣を持つてゐたのではない」(p.118)。

     白浪狂言は、明治の観客には、恥だと思われた。それで廃れ、福地櫻痴が、史実を正す狂言を工夫した。

     絵巻物の土佐派が、浮世絵に変化した。土佐絵は、公家の生活を描いた。平安末期から武家の生活、高僧の伝記も描く。そこに民間風俗も取り入れた。
     室町時代に、九州から西洋画(油絵)の影響が及び、それも江戸時代の浮世絵に反映されている。

     江戸歌舞伎の看板絵は、絵馬が発達したものではないか。
     河原で芝居したから河原者とよぶのではない。古いさんかの生活の印象から、そう言われる(p.122)。

     蜀山人は、旗本としては微々たる家柄だったが、学問ゆえに破格に出世した。
     蕪村は天明期に出た。芭蕉時代はまだ和歌の気分が多すぎたが、蕪村で俳諧も一流に仕上がった。
     蕪村の三十年後に一茶が出た。しかしどうしてこの人が世に出たかは、謎。俳人は、地方で宣伝し、江戸に出ようと狙った。一茶も江戸に来ているが、ひきつづいて貧乏だった。
     江戸人の悪態を、一茶は俳句に反映させた。

     安永・天明となれば、文学の中心は完全に江戸。
     宣長の傑出していたのはその読書量ではない。その読書の深さ。
     国学から儒学へ進出したのが水戸学。
     平田篤胤の孫弟子の佐藤信淵は、国学と経済を同時に究めた。その知識を地方の大名に売った。江戸城の濠の深さをみずから中に入って計測した。
     平田派は過激で、反対する国学者を暗殺した。それで大坂に逃げた人もいるほど。

     経済論客でも穏やかなのは二宮尊徳。

     維新後、矢野玄道が「かしはらの御代にかへると 思ひしは、あらぬ夢にてありにしものを」と詠んでいる。明治維新はけっきょく漢学者によって実行され、新政府も漢学者を重用したから。

     古今集を標準とする京都の桂園派(香川景樹の一門)は、万葉集を標準とする真淵派と争って、幕末の堂上公家の顧客をかちとった。それが明治の宮廷も支配した。高崎正風(明治帝の教導役)は景樹の孫弟子。昭憲皇太后の先生になった税所敦子も、鹿児島の桂園派。

     折口いわく。この二人の師匠は悪かった。両陛下には万葉ぶりをお教へ申しあげるべきであった。
     堂上公家の歌風は、いまだに、「類型以外には何もない」(p.135)。

     鐵幹は、父が僧侶のプロ歌人。しかし本人は朝鮮浪人で、複雑である。
     啄木は年が若くて死んだだけに、調子がうはついてゐた。「東海の小島の〜」などは嘘で誇張だ。反面、「高山の頂きに登り」はよい歌だ。

     西洋の政治小説の翻訳が、江戸文学を決定的に滅ぼした。政治運動のために洋学者が文学に歩み寄ったのである。

     文学は、苦しみ苦しみして書いている間に、直面中のその時代が暗示されるもの。それを哲学の眼で見明かして指摘ができるのが批評家なのだが、今はさういふ批評家は一人もない。
     昭和の今、政治運動を目的としてプロレタリア小説を書く手合いばかりだ。読んで誰も幸福な気持ちにならないし、だれも怯えを感じない。

     「小説を見てゐれば一番進んでゐる、と考えられた時代は、もはや全く過ぎ去つたのである」(p.141)。

     『梁塵秘抄』に「おなじき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」という歌がある。清盛時代から、公家が武家を恐れるようになった。

     『保元物語』と『平治物語』は、絵物語の形をとった軍記物。文章は気取っているが、誰にもわかるようにしている。
     その以前の『将門記』は漢文調の堅苦しいものだった。

     江戸期以前の公家は、新趣向を採り入れるのには敏。節操が無かったともいえる。
     逆に武家は、伝統維持、社会秩序維持を最も重視する。というのも、家門と土地財産の継承は、そこにかかってくるからだ。だから、徳川幕藩体制が安定する前は、武家は新しい文芸は大嫌いであった。浅薄な擬古様式が好まれた。難解のようでいて、じつは平凡極まる風。

     江戸の遊芸に家元制度が生じたのは、武家の保守思想が民間に及んだのである。

     『吾妻鑑』は、崩れた漢文を主軸とし、国文が混ざる。というのは、純漢文も、また純国文(女文)も、人々が読み得なくなっていた時代なのだ。

     田楽は、寺に付属した下級遊芸人である田楽法師が見せた出張芸能。

     能の、翁・三番叟は、なぜ老人と老婆なのか。これは沖縄の村踊りを見れば理解できる。先祖の代表者が異界から訪れるのだ。
     これは神様であり、村人の饗応を嘉納して、村を祝福し、五穀の豊穣を予言して踊り、帰って行くのだ。

     世阿弥――観世元清は、申楽の中興の祖。しかし11歳頃から美少年として将軍義満に愛されたため、申楽は正しく発達せず、武家の慰みものに堕した。
     申楽師は、将軍の性欲の対象だったのだ。

     江戸時代には、単に「能」と呼び、能楽とは誰も呼ばない。明治時代に「能楽」と言い出した。

     西域やインドの舞踊が正式に発達したものが舞楽。その余興に演じられる伎楽は、砕けて南方で発達したもの。

     散楽師が寺に付属したものを咒師[ノロンジ]といった。僧形ながら、衣装がきらびやか。語源は「のりとし」。寺院で祭文を読んだのだ。

     白拍子はもともと男ばかりだった。
     能の金剛流は、金剛力士の役割から。観世家は、観世音の役割から、生じた。

     『申楽談義』によると、観阿弥は「大男」なのに、女を演ずると細々として見えた。

     はぶりの利いた武家に保護された演芸奴隷は、やがて立身した。
     ところが、寺社に属した演芸奴隷階層は、時代から取り残されてしまった。かれらが、ものもらいに落ちぶれた(p.169)。

     狂言の『茶壷』の中に「しをり萩」という小唄が保存されていた。じつはそれは大昔の催馬楽の節回しを残したものだった。おかげで雅楽寮は、催馬楽の節回しを再現し得たという(p.171)。

     寺の奴隷は、坊主頭もゆるされず、髪をかぶろにしていた。

     軍記物がなぜ仏教の説教となるのか。それは、鎌倉時代の人々には、その方がストレートに諸行無常を感じさせられるから。平安時代人のように、恋愛話から悟るのではまどろっかしかったのだ。

     寺の由来を抒情的に読み上げた祭文は、関西の後世の浪花節になった(p.175)。

     江戸時代の太平記読みには節がない。しかし室町時代にはあったのだ。
     太平記なくして楠公のポピュラリティはないから、楠公と関係のあったものが太平記の作者だと考えることは合理的である。
     もちろん一人ではない。何人もの作者が書き継いだのだ。

     『義経記』には、はなばなしいことは何も書かれていない。幼時の苦心、奥州逃亡中のあわれさなどばかり。
     『曾我物語』も同様。
     義経と、曾我兄弟の後世におけるポピュラリティは、まったくこの2作のおかげ。

     慶長以前に三味線が琉球から伝わり、琵琶法師たちが、三味線を使うようになった。
     世話者浄瑠璃は、この世は寂しいが、あの世は楽しい、と教える。
     でこ人形というのは、てくぐつ が訛った。

     掾というのは、国守から三番目の役。
     芸人で、受領した者は大夫を貰う。
     播磨掾の弟子の清水理大夫は、天王寺の百姓であったが、しだいに天才を発揮し、のちに竹本義大夫と名のった。
     加賀掾の弟子ともなったが、近松門左衛門とともに逃げ出し、二人でバンドを立ち上げた。
     ここから義大夫浄瑠璃がスタートする。

     門左衛門は加賀掾の下で作風を見習っていた。ごくつまらないささいな素材から、大ドラマを創出してみせた。

     義経記も曾我物語も、リアリズム描写の努力が無い。これは現世はどうでもよいと考えていたから。来世だけを追っていた。

     古事記の中で大國主命と出会う白兎は、けっして擬人化されていない。あくまで兎である。
     しかし室町時代のお伽草子の童話、たとえば桃太郎やかちかち山では、人間と動物の区別がない。
     これは、子供というものが人間と動物とを区別しないから。教育の配慮から、子供本位に、そのようにするのである。

     室町時代の「うはなり打ち」。本妻が仲間をかたろうと、後妻の家を襲撃して打ち壊す。
     じつは鎌倉時代より以前は、子供の本当の両親は誰なのか、よくわからないことがままあった。
     しかし鎌倉時代より以降は、武家の領地維持のために長男相続が一般的になり、系図がやかましくなり、親子関係が法的に確定される。

     平安時代の人は恋愛ばかりしていたのか? そうではなく、当時は男女が非恋愛的に交際するチャンネルは皆無だったのである。だからプラトニックな交際をするためにも、擬似恋愛を演ずる必要がまずあったのだ。

     信西入道通憲は、『法曹類林』という法律書まで著している。「からざえ」と「やまとだましひ」(臨機応変の処世術)の両方を持っていた。

     大衆は常に新宗教に、外形がハイカラでも、内容は平易な、それでいて深そうなものを欲する。

     天台宗や一向宗は武家にとっては脅威だった。しかし禅宗は個人宗教だから、武家をおびやかさない。それで、保護された。
     室町時代には、武家から庇護を得易い京都五山の勢力が、鎌倉五山を凌いだ。
     江戸幕府に仕えた林家は、この五山の朱子学を売り物にした。

     徒然草は、時代に傑出していた。兼好法師以外は皆、幼稚なものばかり書いていた。

     源氏物語のさいしょのまともな註釈をつくったのは、鎌倉時代の源親行・光行。『紫明抄』という。

     歌に堪能な後鳥羽上皇が、藤原家隆の味方だったため、承久の乱までは、藤原定家はパッとしなかった。
     定家は実朝に万葉集を贈るなどして武家の権勢に必死で媚びた。

     京都の公家は和歌の師範家というものを唱え出した。自家の威厳を示そうと、奥義伝授を創出。伊勢物語、源氏物語、古今集について。室町時代には、それはありがたがられた。さすがに江戸時代には、その内容に価値が無いということが理解された。

     金槐和歌集は、じつは古今伝統に沿っており、万葉精神の復活ではない。模倣の努力はしたが、こなし得なかった。
     実朝歌集は、初めから読めば、賞讃するほどのものでもなく、落胆する。

     新古今集は、テクニック過剰。対象をつかむ努力をあとまわしとし、ハナから幽玄に逃避した。遊戯としての幽玄だった。


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■1610 / 親記事)  8月の読書余論<その8>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:31:13)
    ▼『折口信夫全集 第三巻』S30-9
     蛇のことを「また」という。
     餅、握り飯、白い鳥は、すべて魂の象徴だった。

     壱岐の島で「おにや」というものは、古墳に違いない。

     助六の鉢巻は、神社芸術をやっていた職業集団の階級標識だった。
     平安朝以降、山伏は集団で旅するようになった。だから義経一行が逃亡しようとするときも、まず山伏に化けるのがとうぜんであった。

     徳川という所領は上州にあったが、それを失った徳阿彌父子が、流浪して、三河の山間の松平に入り婿となった。流浪中は、念仏聖で糊口をしのいでいただろう。徳川幕府が虚無僧に朱印を与えたのは、そんな過去があるからだ。

     「くぐつ」は岬に本拠があって、海道沿いに歩いた芸人団体だった。
     近世には、本拠は山奥に追いやられ、山伏化した。
     蜂須賀小六は、成功した山伏の代表。
     芸人団体が流浪中にうまくパトロン(たとえば豊臣秀吉)に出会えればよいが、そうでないときは、「すっぱ・らっぱ・すり」に転落した。「すり」は単独プレイヤーである。
     今はわからなくなっているが、当時は「すり」とよばれた旅人所持の道具があり、それが人々から恐れられていたのだろう。

     がんどう提灯の語源は、「強盗」。すりも強盗であり、ヤワなこそ泥などではなかった。
     ごまの灰は、高野聖の一種(p.33)。宗教の名をかりて悪事を働いた。

     なぜ桃の果実に威力があると大陸道教では信じられたか。それは女性の生殖器に似ていたから。同様、菖蒲の花(またはあやめ、シャガ、かきつばた)も女精のシンボルである(pp.58-9)。

     実のことを古代日本では「も」と言ったのだろう。
     秦の河勝は、伝説では、三輪川を流れ下った甕の中に入っていた子供だという。

     生きていてあちこちに移動した島だから「壱岐」と言うのだ(p.100)。
     S2時点では要塞地帯の指定があり、黒崎の唐人神の鼻にある「折れ柱」はもう見に行くこともできない。

     宮廷や皇族は、正月の松飾りをしない。
     神功皇后の鎮懐石。もともとは、石が産道の中にあって、天皇の出生の途を塞いでいたと考えられていた。神話文学はそこを婉曲に表現した。

     浄瑠璃は現世利益を語る。曾我物語。説教は、来世転生を語る。義経記。

     安政の大地震のとき、大阪湾に津波が起こり、木津川口に泊めてあった船は、半里以上も、狭い水路を押し上げられた。難波村の深里の加賀屋敷前まで、船が来たという。

     はげ八聯隊、横はげ四聯隊、という悪口があった。

     金田一京介いわく。折口をアイヌ語化すれば、るゑさん だと。浜の大道へ出る口の意味だと。る は道。ゑ は接頭語。さん は下って出る。

     出雲系の神は皆、水に関係する。すさのをやおほくにぬしの系統は、たいてい、水神。

     曾我物の劇に出てくる虎御前。もともとは、虎瞽女(とらごぜ)という盲いた女芸人が、鼓を打ちながら白拍子風に歌って歩いた物語が曾我物語なのだ。

     皇后を中宮とよぶのは、もともと「なかつすめらみこと」として天子と神との言葉とりもちをする巫女だったから。

     治める という語は、食す(をす)から出た(p.117)。
     大嘗祭が根本にある。新嘗祭は、代初めにおこなわれた大嘗祭の、翌年以降における年次反復にすぎない。

     月次祭は6月と12月にする。
     東歌や東舞は、大嘗祭には呼ばれない。当時、まだ大和政権の支配下になかったのだ。

     昔の宮殿の木材の「黒木」というのは、皮をむいて火に焼いた木のこと(p.218)。

     吉事をまつためのきよめが禊ぎ。悪事をきよめようとするのは祓へ。祓へは刑罰のような感覚であった。

     今から200年前、風呂場では成人男女は下帯着装のまま。もちろん、湯殿に入る前に、あたらしいのに交換してあるが。
     これは物忌みの発想からで、恥ずかしいからではない。

     河口恵海いわく。とうとうたらり はチベット語だと。折口いわく、それは笛の調子であろう。

     大昔、地上に立てた柱の上に座を設けた。これが「たな」。

     S9寄稿。
     壱岐は、九州の河童伝説の吹き溜まりであった。
     河童には「皿数え歌」がつきもの。ここから番町皿屋敷のような話もできた。

     巨人伝説。九州では大人彌五郎。中国で大太郎法師という。平家物語にはだいたら法師と出る。※長野市にはだいざ法師池がある。

     てくぐつ人形が略されて、でく人形。
     はますげ(莎)を「くぐ」という。その草で編んだ小箱の中に、小さい人形を収納して旅芸人が運んだのだろう。
     くぐっこ から くぐつ になったのだろう。

     物部氏が、大和の魂を持っていると考えられた。もの は たましい なのだ。
     諏訪明神が蛇体と考えられたのは平安末期以降。古くない。
     やしろ は なわばり であり、そこでは耕作もできない。

     折口は五人兄弟。もし次兄にすすめられなかったら、医者になっていただろう。家職なので。
     国学院在学中、四年間、朝鮮語を勉強した。平行して外国語学校の蒙古語科の夜学に通った。

     ふるい「さかき」の木は、南方の熱帯から移植された「肉桂たぶ」「たび」ではないか。




    ▼『折口信夫全集 第十五巻』S30-1
     S11寄稿。
     那覇の図書館の郷土室に、台湾の蕃族調査報告書が揃えられていた。

     沖縄語の形容詞が日本語とずいぶん違う。日本の形容詞活用が起る前に、日本と沖縄は交流の停滞に入ったか。

     沖縄では、近くの島を「はなり」と呼ぶ。
     宮古人は八重山人を、蝙蝠の子孫だという。八重山では宮古人を、黒犬の子孫だと。

     石垣島の宮良[みやら]には、赤また・黒またという怪物が出現する。
     方言で猫のことを「まや」という。これは常世の国でもあり、猫神のことでもある。
     ※今は絶滅したヤマネコ?

     八重山はしばしば大津波に襲われるため、古い文物があまり残されていない。村ごと海にさらわれたりするのだ。追い討ちをかけるように、マラリアが襲い、一村全滅したりする。

     壱岐では、あまのじゃくを「あまんしゃぐめ・あまんしゃぐま」という。疑いもなく、天探女が語源だ。
     燈臺鬼を天ノ邪鬼と書くのも宛て字で、ことばは日本のものだ。

     竹田は壱岐ではたつたと言ふ。
     崎と崎とにはさまれた、海浜の狭いところを、銚子ノ口という。

     宮廷では古く、小豆で手を洗う所作をした。もちろん洗うのではなく、旧冬の穢れを豆に移動させようというのだ。これが節分の風習の原義。

     江戸時代には江戸城内でも、節分に豆撒きと、年男の胴上げをした。
     運送屋は「鬼は内」という。大荷が来ますようにというまじない。

     十遍舎一九の「貧福蜻蛉返」。家に入ってきた鬼が天邪鬼だと気付いた男が、逆の願いばかりを頼み、ついに長者になる。

     北陸道から奥州海岸にかけての奇習。典型が秋田の「なまはぎ」。この鬼は、穢れを持ち去ってくれる。「ほとほと」と唱えるのは、戸を敲く音を声に出しているのである(p.150)。
     ※なまはげの面がどうみてもニューギニアなのを折口はどう解いたのかと気になっていたが、何も思った様子は無し。

     S7の寄稿。
     笛も、刀の鞘も、日本では、必ずまず二枚に割って加工し、それをひとつに貼り合わせ、それを藤などで巻き締める。しげ藤のしげは「みっしり巻く」の意味だろう。
     ウツギ材や竹を使えば、二つに割る必要はないのに、なぜわざわざそうするか。

     蒔絵の「まき」は、漆で封じ込めること。鞘や笛も、霊を封じ込めるという発想がある。

     わからないのが「ひるまき」の語源。蛭とは無関係ではないか。
     蛾のことを古代「ひひる」と言った。


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