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Nomal 8月の読書余論<その9> /武道通信 編集部 (18/08/25(Sat) 07:47) #1611


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■1611 / 親階層)  8月の読書余論<その9>
□投稿者/ 武道通信 編集部 -(2018/08/25(Sat) 07:47:02)
    ▼『折口信夫全集 第十二巻』S30-8
     上方には家元制度がなかった。
     三味線はさいしょ、盲法師が使った。按摩はもとからの本職ではない。琵琶語りがほんらいのプロフェッションなのだ。それが三味線になり、琴になった。

     江戸の歌舞伎と上方の文楽は、文化・文政期より前は没交渉。
     浄瑠璃の台本に傍点が打ってある。これが「ちょぼ」。

     阿国が認められたのは、早くから京へ上ったから。類似の運動が多にもいろいろあった。
     女歌舞伎では、女が主役格の男に扮し、その相手役は、若衆が扮している遊女、なのである。女が扮した男が色町通いをするところを演劇にした。これが大ウケした。

     若衆が前髪を落とせば、それが野郎。
     なになに座というのは、社寺の祭礼や法会のときの、村の一団の者の控え場所。

     思ふに鶴屋南北は、尾上松緑・菊五郎がなければ、あらわれなかった。尾上は怪談物に優れていた。だから脚本家として、その方面へ進んだ。

     芝居の約束。二枚目役者は、間の抜けたシーンを必ず少し見せるようにしなければいけない。

     江戸のことは鎌倉だということにし、隅田川のことは稲瀬川とする。
     大阪の事件であれば、京都か近江に舞台を変える。

     「江戸の町人は、活溌で、人を冷笑する様な處はあるが、決して勇氣を持つてゐたのではない」(p.118)。

     白浪狂言は、明治の観客には、恥だと思われた。それで廃れ、福地櫻痴が、史実を正す狂言を工夫した。

     絵巻物の土佐派が、浮世絵に変化した。土佐絵は、公家の生活を描いた。平安末期から武家の生活、高僧の伝記も描く。そこに民間風俗も取り入れた。
     室町時代に、九州から西洋画(油絵)の影響が及び、それも江戸時代の浮世絵に反映されている。

     江戸歌舞伎の看板絵は、絵馬が発達したものではないか。
     河原で芝居したから河原者とよぶのではない。古いさんかの生活の印象から、そう言われる(p.122)。

     蜀山人は、旗本としては微々たる家柄だったが、学問ゆえに破格に出世した。
     蕪村は天明期に出た。芭蕉時代はまだ和歌の気分が多すぎたが、蕪村で俳諧も一流に仕上がった。
     蕪村の三十年後に一茶が出た。しかしどうしてこの人が世に出たかは、謎。俳人は、地方で宣伝し、江戸に出ようと狙った。一茶も江戸に来ているが、ひきつづいて貧乏だった。
     江戸人の悪態を、一茶は俳句に反映させた。

     安永・天明となれば、文学の中心は完全に江戸。
     宣長の傑出していたのはその読書量ではない。その読書の深さ。
     国学から儒学へ進出したのが水戸学。
     平田篤胤の孫弟子の佐藤信淵は、国学と経済を同時に究めた。その知識を地方の大名に売った。江戸城の濠の深さをみずから中に入って計測した。
     平田派は過激で、反対する国学者を暗殺した。それで大坂に逃げた人もいるほど。

     経済論客でも穏やかなのは二宮尊徳。

     維新後、矢野玄道が「かしはらの御代にかへると 思ひしは、あらぬ夢にてありにしものを」と詠んでいる。明治維新はけっきょく漢学者によって実行され、新政府も漢学者を重用したから。

     古今集を標準とする京都の桂園派(香川景樹の一門)は、万葉集を標準とする真淵派と争って、幕末の堂上公家の顧客をかちとった。それが明治の宮廷も支配した。高崎正風(明治帝の教導役)は景樹の孫弟子。昭憲皇太后の先生になった税所敦子も、鹿児島の桂園派。

     折口いわく。この二人の師匠は悪かった。両陛下には万葉ぶりをお教へ申しあげるべきであった。
     堂上公家の歌風は、いまだに、「類型以外には何もない」(p.135)。

     鐵幹は、父が僧侶のプロ歌人。しかし本人は朝鮮浪人で、複雑である。
     啄木は年が若くて死んだだけに、調子がうはついてゐた。「東海の小島の〜」などは嘘で誇張だ。反面、「高山の頂きに登り」はよい歌だ。

     西洋の政治小説の翻訳が、江戸文学を決定的に滅ぼした。政治運動のために洋学者が文学に歩み寄ったのである。

     文学は、苦しみ苦しみして書いている間に、直面中のその時代が暗示されるもの。それを哲学の眼で見明かして指摘ができるのが批評家なのだが、今はさういふ批評家は一人もない。
     昭和の今、政治運動を目的としてプロレタリア小説を書く手合いばかりだ。読んで誰も幸福な気持ちにならないし、だれも怯えを感じない。

     「小説を見てゐれば一番進んでゐる、と考えられた時代は、もはや全く過ぎ去つたのである」(p.141)。

     『梁塵秘抄』に「おなじき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」という歌がある。清盛時代から、公家が武家を恐れるようになった。

     『保元物語』と『平治物語』は、絵物語の形をとった軍記物。文章は気取っているが、誰にもわかるようにしている。
     その以前の『将門記』は漢文調の堅苦しいものだった。

     江戸期以前の公家は、新趣向を採り入れるのには敏。節操が無かったともいえる。
     逆に武家は、伝統維持、社会秩序維持を最も重視する。というのも、家門と土地財産の継承は、そこにかかってくるからだ。だから、徳川幕藩体制が安定する前は、武家は新しい文芸は大嫌いであった。浅薄な擬古様式が好まれた。難解のようでいて、じつは平凡極まる風。

     江戸の遊芸に家元制度が生じたのは、武家の保守思想が民間に及んだのである。

     『吾妻鑑』は、崩れた漢文を主軸とし、国文が混ざる。というのは、純漢文も、また純国文(女文)も、人々が読み得なくなっていた時代なのだ。

     田楽は、寺に付属した下級遊芸人である田楽法師が見せた出張芸能。

     能の、翁・三番叟は、なぜ老人と老婆なのか。これは沖縄の村踊りを見れば理解できる。先祖の代表者が異界から訪れるのだ。
     これは神様であり、村人の饗応を嘉納して、村を祝福し、五穀の豊穣を予言して踊り、帰って行くのだ。

     世阿弥――観世元清は、申楽の中興の祖。しかし11歳頃から美少年として将軍義満に愛されたため、申楽は正しく発達せず、武家の慰みものに堕した。
     申楽師は、将軍の性欲の対象だったのだ。

     江戸時代には、単に「能」と呼び、能楽とは誰も呼ばない。明治時代に「能楽」と言い出した。

     西域やインドの舞踊が正式に発達したものが舞楽。その余興に演じられる伎楽は、砕けて南方で発達したもの。

     散楽師が寺に付属したものを咒師[ノロンジ]といった。僧形ながら、衣装がきらびやか。語源は「のりとし」。寺院で祭文を読んだのだ。

     白拍子はもともと男ばかりだった。
     能の金剛流は、金剛力士の役割から。観世家は、観世音の役割から、生じた。

     『申楽談義』によると、観阿弥は「大男」なのに、女を演ずると細々として見えた。

     はぶりの利いた武家に保護された演芸奴隷は、やがて立身した。
     ところが、寺社に属した演芸奴隷階層は、時代から取り残されてしまった。かれらが、ものもらいに落ちぶれた(p.169)。

     狂言の『茶壷』の中に「しをり萩」という小唄が保存されていた。じつはそれは大昔の催馬楽の節回しを残したものだった。おかげで雅楽寮は、催馬楽の節回しを再現し得たという(p.171)。

     寺の奴隷は、坊主頭もゆるされず、髪をかぶろにしていた。

     軍記物がなぜ仏教の説教となるのか。それは、鎌倉時代の人々には、その方がストレートに諸行無常を感じさせられるから。平安時代人のように、恋愛話から悟るのではまどろっかしかったのだ。

     寺の由来を抒情的に読み上げた祭文は、関西の後世の浪花節になった(p.175)。

     江戸時代の太平記読みには節がない。しかし室町時代にはあったのだ。
     太平記なくして楠公のポピュラリティはないから、楠公と関係のあったものが太平記の作者だと考えることは合理的である。
     もちろん一人ではない。何人もの作者が書き継いだのだ。

     『義経記』には、はなばなしいことは何も書かれていない。幼時の苦心、奥州逃亡中のあわれさなどばかり。
     『曾我物語』も同様。
     義経と、曾我兄弟の後世におけるポピュラリティは、まったくこの2作のおかげ。

     慶長以前に三味線が琉球から伝わり、琵琶法師たちが、三味線を使うようになった。
     世話者浄瑠璃は、この世は寂しいが、あの世は楽しい、と教える。
     でこ人形というのは、てくぐつ が訛った。

     掾というのは、国守から三番目の役。
     芸人で、受領した者は大夫を貰う。
     播磨掾の弟子の清水理大夫は、天王寺の百姓であったが、しだいに天才を発揮し、のちに竹本義大夫と名のった。
     加賀掾の弟子ともなったが、近松門左衛門とともに逃げ出し、二人でバンドを立ち上げた。
     ここから義大夫浄瑠璃がスタートする。

     門左衛門は加賀掾の下で作風を見習っていた。ごくつまらないささいな素材から、大ドラマを創出してみせた。

     義経記も曾我物語も、リアリズム描写の努力が無い。これは現世はどうでもよいと考えていたから。来世だけを追っていた。

     古事記の中で大國主命と出会う白兎は、けっして擬人化されていない。あくまで兎である。
     しかし室町時代のお伽草子の童話、たとえば桃太郎やかちかち山では、人間と動物の区別がない。
     これは、子供というものが人間と動物とを区別しないから。教育の配慮から、子供本位に、そのようにするのである。

     室町時代の「うはなり打ち」。本妻が仲間をかたろうと、後妻の家を襲撃して打ち壊す。
     じつは鎌倉時代より以前は、子供の本当の両親は誰なのか、よくわからないことがままあった。
     しかし鎌倉時代より以降は、武家の領地維持のために長男相続が一般的になり、系図がやかましくなり、親子関係が法的に確定される。

     平安時代の人は恋愛ばかりしていたのか? そうではなく、当時は男女が非恋愛的に交際するチャンネルは皆無だったのである。だからプラトニックな交際をするためにも、擬似恋愛を演ずる必要がまずあったのだ。

     信西入道通憲は、『法曹類林』という法律書まで著している。「からざえ」と「やまとだましひ」(臨機応変の処世術)の両方を持っていた。

     大衆は常に新宗教に、外形がハイカラでも、内容は平易な、それでいて深そうなものを欲する。

     天台宗や一向宗は武家にとっては脅威だった。しかし禅宗は個人宗教だから、武家をおびやかさない。それで、保護された。
     室町時代には、武家から庇護を得易い京都五山の勢力が、鎌倉五山を凌いだ。
     江戸幕府に仕えた林家は、この五山の朱子学を売り物にした。

     徒然草は、時代に傑出していた。兼好法師以外は皆、幼稚なものばかり書いていた。

     源氏物語のさいしょのまともな註釈をつくったのは、鎌倉時代の源親行・光行。『紫明抄』という。

     歌に堪能な後鳥羽上皇が、藤原家隆の味方だったため、承久の乱までは、藤原定家はパッとしなかった。
     定家は実朝に万葉集を贈るなどして武家の権勢に必死で媚びた。

     京都の公家は和歌の師範家というものを唱え出した。自家の威厳を示そうと、奥義伝授を創出。伊勢物語、源氏物語、古今集について。室町時代には、それはありがたがられた。さすがに江戸時代には、その内容に価値が無いということが理解された。

     金槐和歌集は、じつは古今伝統に沿っており、万葉精神の復活ではない。模倣の努力はしたが、こなし得なかった。
     実朝歌集は、初めから読めば、賞讃するほどのものでもなく、落胆する。

     新古今集は、テクニック過剰。対象をつかむ努力をあとまわしとし、ハナから幽玄に逃避した。遊戯としての幽玄だった。


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