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明日 武道通信かわら版 配信日


「ぼくは土星人だ 土星からきた」
そう云った記憶 はっきり覚えている 
周りには同じ学年の子らがいた
小学四、五年生であったか

旧東海道の裏手
大人たちが「新長屋」と呼んでいた実家の裏手
出来の良いシングルマザーの子
大學へはいけなかったが銀行員になったキンちゃん
学習塾開いていた
新長屋の子らが二、三人通っていた
幼き拙者 その中に混じっていたわけだ
子らの勉強机 細長い机が一台 
その子らの前で云った
「ぼくは土星人だ 土星からきた」

どこから「土星人」が出てきたじかわからない
「鉄腕アトム」 マンガ アニメ はじまっていたが
「ウルトラマン」 まだずっと後年だ 

書くという行為 
過去にあったこと 記憶という形で
現在に呼び寄せて記録し 
未来の自分に手渡すという一面がある

この奮戦日記
「武道通信」 一ノ巻から 現在に呼び寄せ記録し
残り少ない未来の自分に 手渡しているのやも知れぬ
2025/01/19(日) 晴れ


奇跡の人


【日本の教育の復興 小室直樹】
「お別れ会」での弔辞に加筆
 
世界航空史における20傑の一人であることを語る
奇跡というしかない 二つの生還劇
部下を一人も戦死させなかった
 
して 昭和十九年七月 特攻第一号
硫黄島基地から米國58機動隊 空港母艦に体当たり
神風特攻隊発足 四ヵ月前だった
して これまた奇跡的に帰還
 
【小室 → 坂井中尉は今後、日本の教育評論家になりたいとおっしゃっていました。
まことに教育日評論家におなりになっていたら、これ以上のことはありません。----
ご自宅に靖国神社方式の神棚を奉って、戦友だけでなく、敵味方の勇士を奉っておられる。
坂井中尉の意思は日本の教育の復興にあります。特に独創的あるのは兵学校教育の評価です。現在の教育に比べて兵学校教育は理想的であったと懐かしむ人は多いのです。しかし、その「理想的」とまでいわれる兵学校教育にも致命的弱点があったと、坂井中尉は分析しておられました。
他山の石として、今こそ傾聴に値する見識です。
その事始めに、大東亜戦争で戦死なさった方々の名誉を回復することだ。それまで「俺は絶対死なん」と、おっしゃっていました。ですから、私は少なくとも坂井氏の上官、斎藤大佐のように百歳まで生きていらっしゃると思っておりました。誠に残念でござおます。 】
 
−−−−−−★−−−−−−
<兵学校教育にも致命的弱点があった>
どこに? 坂井さんから聞いた記憶ない

<特攻第一号> 聞いていた
初の体当たり攻撃命令に
「腹にストンと落ちた」  
戦友と顔を見合わせ互いに笑った

坂井さんの言葉で拙者が一番に心に刺さったのは
「英霊たちは誰も太平洋戦争なんて知らない 大東亜戦争を戦ったのだ」
 
以来 「太平洋戦争」と書かない 使わない
それが慰霊だ
2025/01/17(金) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


論客対談 最後に両者 一言ずつ


在日コリアン
【前田 → 自分の中にある韓国人と、いま半島にいる韓国人とは違うんです。
自分ら家族は大正年間に日本に来たんです。ブラジル移民の一世の一家に天皇皇后陛下の写真が飾ってあったり、3月にはおひな祭り、5月には節句と、日本のしきたり風習を日本人以上に守っていますよね。それと同じことが、我々、大正時代からの在日にも言えるんです、
 本国の人間からみたら在日コリアンは古い奴なんです。大正時代、また昭和初期に来たときの在日の人たちは、当時の儒教的感覚の時間で止まっているんです。だから本国へ帰ると違和感があるんです。
 自分は在日韓国人といわれるですけど、自分で言うといたら在日「李氏{りし}朝鮮人です。李氏朝鮮人から見たらいまの韓国、朝鮮は傀儡政権ですよ(笑)。
精神的に自分達にとってはの祖国は李氏朝鮮(李朝)としか言えないかも知れない。】

東洋とは
【木村 →  前田さんは「東洋」というのは日本、韓国、朝鮮、中国、それらの総称として使っていると思うんですが、「東洋」という言葉もちょっと考えなくてはいけないんです。「東の洋の向こうにある国」という意味で。
 また「東洋」という言葉を意識的に使ったのは日本で、日清戦争の後なんですね。日本が新しい概念としての中国、朝鮮を包含{ほうがん}していくために「東洋」と使ったんです。日本のためになりなさい、ということで使い始めたんです。】

−−−−−−★−−−−−−
ロサンゼルス山火事
「原爆を落とされた後の広島のよう」
現地ニュースキャスター
延焼範囲140平方キロメートル
死者24名確認 行方不明16人

昭和二十年三月十日未明
300機のB29爆撃機 33万発の焼夷弾を投下
延焼範囲4,300平方キロメート
焼家屋約26万7,000戸 死者約8万4,000人
推計100万人が焼け出される

ロサンゼルスの山火事
訂正してほしい
「東京大空襲に及びもつかない小規模」
2025/01/13(月) 晴れ


無意識


木村氏/前田 語り合う
マスメディアの罪→ [表現の自由」という<自己中>
学校教育の弊害→ 引きこもり/いじめ 
何のことはない
二十五年前 四半世紀前と なにも変わってない

いや 変わった
オールドメディアの衰退
ソーシャルメディア(SNS)の台頭
学校教育 タブレット「一人一台」
そして 生成AIの出現

二十五年前の諸問題に
新規の<環>がまきつく
して 人が立ち向かうのは
うわべの知識/教養ではない
生まれ育ちでもない
祖先/歴史に裏書された
無意識

人は 新規の<環>に
無意識で抗う 無意識で受け入れる

生成AI 可か非か 論議せん無い
無意識で決まる
2025/01/11(土) 晴れ


ナショナリスト 洪 思翊{こう しよく}


「前口上」でMC(Master of Ceremonies)拙者 こう記している
《論客は中近東、編集長はアメリカと御両人とも異国での長期滞在で早くから決まっていたものの対談日は11月3日となった。この日は文化の日、もとを正せば天長節、明治節。日本の激動の転換期を象徴する日である。十三回に及ぶ対談で、初めて同世代同士の組み合わせとなる。若い分だけ熱かった。編集長、在日の、その胸中を初めて語った。》

同世代同士の組み合わせ
木村氏 四十四歳 前田 四十一歳

坂井三郎氏の話から三島由紀夫へ
そして 洪 思翊{こう しよく}
【前田 → みんな自分の考え、基本デザインを持っていない。アメリカがどうの、中国がどうのだけ惨憺なるものですよ。自分、山本七平さんみたいな人、好きなんですが、いなくなりましたね。ああいう人。】

【木村 → そう、洪 思翊がフィリピン絞首台に着くとき、黙って逝った。
それに較べ山下奉文は----と書いています。日本の大将より洪さんの方が日本人らしく振舞ったと。】

洪 思翊 朝鮮語読み ホン・サイク
戦犯裁判 一切沈黙を守った
山下奉文{ともゆき} 戦犯の理由に抗議したのだった
死刑台では あっぱれな佇まいであったこととを
かつてのMC 弁明しておく

洪 思翊 朝鮮語読み ホン・サイク
陸軍士官学校卒業後 陸軍大学校へ
日本統治時代に陸軍大学校に入校した朝鮮人
李垠/桃山虔一(李鍵)/李鍝と 洪だけで
洪以外の三人 皇族同様の優遇を受けた王公族

陸軍大学校 卒業後 参謀本部に配属 戦史編纂にあたる
昭和四年 陸軍歩兵少佐 陸軍歩兵学校教官を経て 関東軍司令部に配属
満州国軍に顧問として派遣される
奉天軍官学校(陸軍士官学校に相当)の指導に当たる
満州国軍将校への門戸を朝鮮人移民にも開放
陸軍歩兵中佐となり、1936年(昭和11年)まで関東軍司令部参謀部に

洪 旧韓国軍・日本陸軍士官学校時代からの大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われる が 朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず
いま立ち上がることは良策ではないとして断る
だがその一方 旧大韓帝国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち
その家族を自費を以て支援した
創氏改名が行われた時 最後まで改名を行わず
姓の洪をそのまま氏としたまた、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を生涯身に付けていたとも言われている。

昭和十六年 少将に進級
華北の八路軍を相手に戦う
昭和十九年 比島俘虜収容所長に赴任
終戦を迎えた
皮肉な事に、これが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった
終戦後は、故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だった

洪所長 連合国軍に捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われる
他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行ったが
自らについては一切沈黙を守る
死刑判決を受けマニラで絞首刑

辞世の句
「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」
「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」
なぜ 沈黙を守ったか 辞世の句に書き留めたような気がする

洪 思翊 日ノ本軍人以前に 祖国のナショナリストだった
2025/01/09(木) 晴れ


ナショナリズム


武道通信かわら版 五日でなく四日に配信していた
正月ボケというのだろう

きのう 午後から雨 きょう 朝から雨
やっとお湿り
陸奥ノ國 大雪だそうだ
武蔵野ノ國 小雪でも ほしいところだ

さて 十三ノ巻
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
一水会代表をリクエストしたのは前田だった
どこかで木村氏が朝鮮民族と大和民族に遺伝子的共通性を語っていたとの
前田の弁 その記憶がある

格闘技ファンの鈴木邦男氏とは面識あった

鈴木邦男氏 葬儀
これは以前 記した
鳩山由紀夫 福島瑞穂 列席していた
かつての右翼/左翼の区切り 一水会 無くした
この対談 その魁ではなかったか
タイトル 「ナショナリズムの良心」とつけた
キーワードはナショナリズム

欧州 移民問題で揺れている
米國も 移民問題で揺れている
キーワードはナショナリズム
良心があれば悪心{あくしん}もあるだろう
*悪心{おしん}→吐き気ではない

良心⇔悪心
その線引きは----

次回
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
スタート
2025/01/07(火) 降ったりやんだり


♪あと 二日寝るとお正月〜


「行く年 来る年」
言語としての区切り
言葉による普遍性

今年
「民主主義」
専売特許と自負しているらしい大国 某国で
言葉による普遍性 崩れはじめた
「民主主義」が草刈り場化してきた

大海原を隔てたとはいえ 対岸の火事とは云えぬ

言葉による普遍性
まず 疑え
言語が生まれる前の
言語化されていない知 暗黙知

日ノ本民に共有される暗黙知
《下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちる所へ、
そこ万有の母がある。》

−−−−−−★−−−−−−
仕事初めは 
一月五日 武道通信かわら版 配信
松の内最後 お飾り外す七日
十三ノ巻
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
スタート
2024/12/30(月) 晴れ


死に向かって生き延びる


西部氏につづき
各氏の「武士道とは」に耳を傾けよう

【大保木{おおぼぎ}輝雄
 いまここに居る自分――山岡鉄舟のメッセージ】
≪山岡鉄舟の武道と剣術に託されたメッセージ
武士道とは いまここに居る自分を全身全霊で生き載{き}ることとみつけたり≫

【嘉村 孝  
中世武士道の再発見――武士道を国家の機軸とせよ】
≪江戸期の儒教武士道でなく 明治の官僚主義の武士道でなく
中世の武士道  「葉隠」研究家の一言≫

【吉田翰玄{ふみはる}
武士道でポン!――神のいない我らに武士道がある】
≪IТ時代で“中間”がなくなり “個”がポン!っと投げ出されたとき
西洋の神を持たない我らには武士道があったではないか!≫
“個”から命を懸けるべき一点につながる道 それが武士道≫

−−−−−−★−−−−−−
恐れながら 末尾に拙者の「武士道とは」

死に向かって生き延びる本能 衝動とか 欲望と云い換えてもいい
特攻作戦志願した特攻隊員 
死に向かって生き延びること
歴史修正主義などという浅はかな論議は無用
最期の言葉 「おかあさん」「おふくろ」
死に向かって生き延びる叫び
2024/12/28(土) 晴れ


「武士道というは……」の一言に要約されているもの


最後になる
西部氏の言葉に耳を傾けよう

【西部 → 近代とはパーフェクティビリティ(完璧なものになれる資質)という概念が、 十八世紀中葉の啓蒙主義の時代に尊敬されたことからもわかるように、愚か者が大量発生した時代のことだ。だから武士道が過去の帳{とばり}のなかに隠れてしまったのは当然のことだ。--------
 精神に垂直運動を忘れた精神は、まるで蟹の横這い運動のように水平運動するばかりである。--------
 自分の精神は早々と錆びつき崩れ落ちていく。このアンバランスを耐えがたいと思うのは、我が国についていうと、是非をなく武士道のことを想い起さずにはおれなくなる。
 事実、武士道というものが百年ほど前までは存在していた、という記憶だけが現代日本人のおけるモラル・マインド(道徳心)の証{あかし}となっている有り様なのだ。】

【西部 → 生きながられることを最高価値とすると、義を見捨てることの方が延命にとって都合がよいのである、というニヒリズムが強まる。つまり、人間の生命こそは一切のニヒリズムの温床であり、それゆえ生命尊重の価値にあっては、愚鈍であれ蛮勇であれ、狡猾であれ、許されることになる。
 このニヒリズムの根を絶つ必要が「武士道というは死ぬこととみつけたり」の一言に要約されているのであるから、やはり偉い古人がいたものだというほかない。】
 
【西部 → 「right」は名詞としては権利であるが形容詞としては「正しい」ということである。物事の正しさはどこからやってくるのか。それが自らの欲望からやってくると思う人間だけが、人間の基本的権利などという。自らの欲望を伝統の精神によって律すべきだと考える者は、歴史と道徳に基づく人間の基本的権理を尊ぶ。日本の思想史にあって、<権利>を否定し<権理>を追い求めた者の代表が、やはり武士達なのだ。

−−−−−−★−−−−−−
福沢諭吉は『学問のすすめ』で「right」を「権利」ではなく「権理」と訳した 諭吉の「理」へのこだわり
一万円札の顔 福沢諭吉 消えた
武士道も消えた
2024/12/26(木) 晴れ


文武浸透


虚無の根 = ニヒリズム
ニヒリズムといえば ニーチェ
ニーチェ <消極的ニヒリズム> <積極的ニヒリズム>
ふたつ あると
ニーチェ もし『葉隠』 讀んでいたら
これこそ積極的ニヒリズムだと 喝采したやもしれぬ

【生命は虚無の根――絶たんとした武士道の冒険】
西部氏 最後に『葉隠』で〆る

*そう ここで云っておこう
「氏」は「し」と讀むのではない 武士語で「うじ」と讀ませる
以後 ご了承を

いま 讀んでいたら
※そう ここで云っておこう「読む」 と「国」だけは旧字にこだわり
「讀む」「國」 
いま一つ「言う」は「云う」
そう もう一つ 「日本」は「日ノ本」 祖国は美称でいい
他国に押しつける「中国」 通史的呼称の「支那」でいい


本題に戻ろう
朱子学 → 知(文)と行(武)を分離したまま
陽明学 → 分離したあとで結合させる
西部氏 見事なレトリック
で これは根本において間違った解釈だと 西部氏
朱子学/陽明学の「文武両道」 間違っていると

三島由紀夫を例にとり
西部氏 「文武両道」は短絡的だと
「文武浸透」だと
三島 自らの行為 納得させるため
『文化防衛論』『太陽と鉄』を書かねばならず
自衛隊のバルコニーから檄文を撒かなければならなかった

【西部 → これまでの武士道「論」において見過ごされがちであったのは文武の相互浸透というという点である。つねに確認させられるには、決断の連続を認めたのが文章に外ならないという一事である。わかりやすい例でいうと、文は「寸{すんてつ}鉄人を刺す」ごとくに他者を傷つけうるし、逆に「物言えば唇寒し」のごとく自分を危地{きち}に追いやることもできる。--------
そしてその影響付与という作用は、他者への介入という意味で「武」の要素を伴うといってよい。そのような意味で、知(文)と分離することは不可能なのだ。--------私のいいたいのは、少なくも可能性としては、文(知)それは自身に死活の感情が込められていることである。】

−−−−−−★−−−−−−
大仰に云えば
業界誌からの脱皮した「週刊プロレス」 
編集長の記事 「文武浸透」であった
2024/12/24(火) 晴れ


西部 邁{すすむ}

【武士道とは……
現代日本のモラル・マインドを求めて】
特集 執筆者 掲載順に
西部 邁 
生命は虚無の根――それを絶たんとした武士道の冒険

大保木{おおぼぎ}輝雄
いまここに居る自分――山岡鉄舟のメッセージ

嘉村 孝  
中世武士道の再発見――武士道を国家の機軸とせよ

吉田翰玄{ふみはる}
武士道でポン!――神のいない我らに武士道がある

では 部西 邁氏から
学生活動家時代 逃げ足は速かった 俊敏さはあったが
武道と無縁
<さて日本人と武士道について自分は何が書けるか
と思案投首{なげくび}の姿でいる>と自問
思案投首とは  よい解決策がみつからず困って首をかしげているさま

首をかしげていたが あることに思い付く
自分のDNAに武士道があることに
<死を賭した行動への決断>に惹きつけられるもの
少年時代から そういう物語を好んで讀んだ
西部氏 かなり過激なセクトに属していたのも そのためか
“あの学生運動”イデオロギーなどの上っ面なものでなく
DNAではなかったか

【西部 → しかし、隠せば表れるの喩え通りに、そういう私の武士道への思いが人の気づくところとなったのであり、私にその思いを記せとの依頼がきてしまったわけである。】

記せと依頼したのは拙者
青い目が書いた武士道モノ 讀んで 版元に問い合わせる
青い目に原稿依頼するため
青い目 つかまった
イザヤ・ベンダサンを真似てみたと 電話口で高笑い
青い目 西部氏であった

【生命は虚無の根――絶たんとした武士道の冒険】
次回 二十五年ぶりに讀んだ 感慨を綴ってみよう



−−−−−−★−−−−−−
拙者 頻繁に使う「武士の記憶の遺伝子」
登録商標しておこうか
このタイトルつけた本
いつか 刊{だ}すであろうから
 
2024/12/22(日) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


死ぬのは 生きているから
でなく
死ぬということは 生きているからだ
西洋概念の
生 → 死 でなく
お釈迦さんの
死 → 生 なのだ

日ノ本庶民 死んだ日 
「命日」と呼ぶこと
すんなり受け入れていた
誕生日を祝うようになってから
生 → 死 となった

<武士道というは 死ぬこととみつけたり>
武士道から遠ざかっていった

死 → 生
コレ 傘張り浪人の《武士道》
と云っても コレ 十三ノ巻刊行から後年の持論だ
十三ノ巻
【武士道とは……
現代日本のモラル・マインドを求めて】
特集 執筆者の言葉 耳を傾けてみよう
2024/12/20(金) 晴れ


師走


2024 師走

傘張り浪人とは無縁な世界では
紛争/内戦/侵攻
走り回っているようだ

1978年の
アフガニスタン紛争から
シリア内戦
イラク内線
クルド・トルコ紛争
シリア|シリア内戦
イエメン|イエメン内戦
2020年の
ウクライナ|ロシアの・ウクライナ侵攻

陽が出て 陽が沈む のではない
太陽は動かない
地球が動いているからだ
地球が動いているから
紛争/内戦/侵攻 走り回っている

日ノ本 八十年間 
紛争/内戦/侵攻 縁がなかった
が 自然災害 人身事故 事件は
走り回っている

傘張り浪人 
書きまくっている

次回 十三ノ巻
【武士道とは……
現代日本のモラル・マインドを求めて】
2024/12/18(水) 晴れ


理想とした国


【ジョグジャカルタのサムライ】の最期の言葉に耳を傾けよう

――最後に何かありましたら
【石井 → インドネシアの独立については“俺はこんな国を作る為に、あの独立戦争を戦ったのか”という思いがあります、肉親への情を絶ってまでもここに残ったことの意味が、果たしてあったのか疑問に思うことがね。こんな国を作るためだったのなら、何もあんなお手伝いをしなくても良かったと思う。
 と言うのも、この出来上がった国は理想国家では無いわけだ。貧富の差がは離れちゃっている。建国当初は庶民が全部平等になる国を目指していたわけですよ。にも関わらず、50年経って出来た国は借金大国だ。借金で賄っている繁栄国家ですよ。
 結果的には、僕のオフクロが死んだことも何もしらないし、死に目にも会えないし、オフクロには不幸を重ねたけれども、そこまでしてインドネシアの独立のお手伝いをした。ところが出来上がってきた国はこういう国だったわけだ。
 僕らが理想とした国は、貧富の差がなく、平等にお互いに助け合いながら豊かになれる。、そういう国を理想としたわけですよ。ところが政治家の反省というか自覚が無い為に、ご覧のように高級車が街を駆けずる回っているその裏通りには、貧民街が軒を並べていて、そして街をちょっとご覧になればわかりますけどね、貧富の格差がこんなにある。しかも中国人(華僑)が、その富者の先頭に立ってるわけだ。
 ま、今更そんなこと言っても仕方がないが、私はあらゆる機会に人に知られていない独立の秘話を伝えていきたいと思っている。】

−−−−−−★−−−−−−
<日本とインドネシアの情報交流の促進に生涯を懸けた>
<日本とインドネシアの友好増進に貢献した功績により
日本政府から勲六等単光旭日章を授与された>
石井サトリアの経歴の裏にあったものは違った

これが 人の世と 云ってしまえばオワリだが
日ノ本から遠く離れた中東 シリアでも人の世はつづく
オワリは ハジマリ
2024/12/16(月) 晴れ


お元気ですか 拙者も元気です


そうだ 年賀状づくりの時期がきた
画像 例年どうり 日本刀 
駄句は 何にするか

行く年 逝った方々 
拙者 記憶するところ (敬称・略/享年も)

一月からすると
篠山紀信 83歳
小澤征爾 88歳
鳥山明 68歳
寺田農 81歳
笠谷幸生 80歳
大山のぶ代 90歳
西田敏行 76歳
谷川俊太郎 92歳
元横綱北の富士 82歳
中山美穂 54歳

七十八歳になった傘張り浪人より歳下の方も
逝く人 来る人(誕生) 世の習い

師走の青空に 叫んでみようか
「お元気ですか 拙者も元気です」
2024/12/14(土) 晴れ


市来龍夫{いちきたつお}


【ジョグジャカルタのサムライ】
ここまで六ページ あと残り七ページある
残り七ページ 気にかかった箇所 記す

石井氏 一人息子
インドネシアに残ろうとしたとき 心の底では
<おふくろ 待っているだろな>
父親も軍人  2・26事件 黒幕と同郷 
ちょくちょく出入りしていたことから 陸軍 クビ
満州へ飛んで満州国軍に
親子二代の他国軍入り

独立後 オランダ軍侵攻作戦
独立運動最後の砦 古都ジョグジャカルタ 包囲される
スカルノ大統領 オランダ軍に捕まる
独立運動兵士 多くは兵器は道端に捨て 軍服 脱ぎ捨て 
みんな普通の住民に変装して逃げ出す
わずかなインドネシア兵と元日本兵 ゲリラ作戦となる

<そう アサドがロシアに亡命 アサド政権崩壊
政府軍だった兵士 軍服 銃を路上に投げ捨てた>
歴史 繰り返す 百年後も繰り返すだろう

ゲリラ戦兵法書
市来龍夫{いちきたつお}がつくる
兵士ではない 報道記者
オランダ軍銃弾に斃れる 享年42

“脱走”という汚名から 皆 名前を名乗らない
「サトリア」 某政治家がつけてくれた
インドネシア語発音で「サムライ」

みんな 「サムライ」ではなかった
【石井 → あの頃は、百鬼夜行というか、いろんな経歴の人がインドネシアに残っておってねえ。しかも、インドネシアに残った動機もいろいろでね、日本の軍隊から持ち出した資材を溜め込んで、一生暮らしていけるような保証を作った上で飛び出した人とかね、こっちに女が出来たんで残った人とかね、必ずしも正義の為だけに残ったというわけじゃないんだ。社会正義とか独立とかじゃなくって、物欲の為の連中も結構おったわけですよ。
 結局そういった物欲につられて残った人達は、みんな失敗しているね。挫折というのか、溜め込んだ財産をインドネシア政府にとられちゃって、日本に追い返されちゃったりとか。中には病気で死んだ連中もいるし、必ずしも全部が戦死ではなんだ。

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港区 青松寺の門を潜って境内
インドネシアの初代大統領あるスカルノから贈られた
大きな石碑が建っている
「市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり 
一九五八年二月十五日 東京にて スカルノ」

吉住留五郎
市来と同じくインドネシアに渡った新聞記者 独立運動に挺身 
享年37 病死
オランダ軍による拷問が身体を蝕んでいた
2024/12/12(木) 晴れ


大川周明


石井サトリア いや 石井淑普{よしなみ}が
なぜ インドネシアに出兵 されたのか

石井サトリア氏の言葉に耳を傾けてみよう
海軍 大學出 元大學生集め 予備学生つくる
それを陸軍 真似る
飛行機操縦 乗り物運転経験ない者 難しい
米國若者 自動車 乗り回している しかし日ノ本では

そこでインテリの大學生集め 訓練教育
ところが訓練が終わらないうちに ガソリン不足
本土決戦のためガソリン 訓練教育には使えなくなる

それで現地調達で訓練となりインドネシア ジャワ島に
当時 訓練學生 三千名 
やっと 飛べるようになったら 米軍 フィリピン上陸
練習機まで全部 前線に
一度も戦場で飛行機に乗ることはなかった

――では 一度も戦場で飛行機にのらなかったわけですね?
【大川 → ええ、僕らは空に憧れていて、同じ戦場で戦うにはね、
当時のお金で何万円もする戦闘機に乗って戦死すれば、ただ陸の上で虚しく死ぬより華々しいし、戦闘機を一人で乗り回し戦って空に散った方が、男の誉だと思って飛行兵に志願したわけですよ。】

ところが志願の夢は虚しく消え
それ以降 もっぱら雑用 ジャワは占領以来全く平和
――そこで終戦になった----
【大川 → 僕ら学生時代に、大川周明が当時、大アジア主義というものを唱えておって、岡倉天心が最初に唱えた“アジアはひとつ”という流れを受けて、ひとつの体系を作っておったわけだ。
 大川先生の塾に通って、その学説の読書会をやっておった。今のゼミと同じで、それを僕らは受け取ったから、若い頃の僕の思想はいうのはやっぱり“アジア解放”というのが心の柱になってたわけだね。それが日本は敗れるわ、かた やインドネシアは独立しようとする。この時代の大きなシフトが、これまでの植民地での被支配者が自ら独立しようとする潮流だった。人間で云えば誕生の時のやね。
 若い頃の思想が動機となって、独立戦争に参加しようという気になって、日本の部隊が引き上げる前に、僕はインドネシアの軍隊に飛び込んだ。】
 
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大川周明
東京裁判 あのシーン 
前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いた
東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴
GHQ 大川の大アジア主義 影響力 大きかったとの判断だったろう
精神障害と診断され 訴追免除
入院中 以前より念願であった イスラム教の聖典「クルアーン」
全文の翻訳を完成
東京裁判終了後 まもなく退院
東京裁判で起訴された被告人の中では
裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった

“大川周明ファン” 精神障害は大川のフェイクだと噂した
2024/12/10(火) 晴れ


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