■只今がその時、その時が只今
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先日、好天氣のもと一日中動き囘つたり、長く立つてゐたり、重い荷を上げたりした。
自己の體力認識に五年ほど誤差が生じてゐた。六十でなく六十五の躰になつてゐた。こんなことでは尖閣諸島駐屯地の防人の任は務まらぬ。鍛へ治さねばならぬ(笑)。
前囘のつづき。 山本定朝、五十歳のとき婿養子殿に奉公人道の心得である自筆の「愚見集」を與へる。 『葉隱』の中で、かう田代陣基に語つてゐる。
《權之丞殿(婿)へ話したことだが、「只今がその時、その時が只今」である。二つに別けて考へてゐるから、肝腎のときに間に合はない。只今御前へ召し出され、「これこれの件を、そこそこに云つて見よ。」と仰せ附けられたとき、たぶん當惑してしまふだらう。それは、只今とその時を二つに分けてゐるからだ。只今がその時と、一つにして置くと云ふのは、まだ御前で物を申上げる奉公人に成れてゐないが、奉公人となるからには、御前でも御家老衆の前でも、公儀の御城で公樣方の御前でも、さつぱりと云つて濟ませるやうに、寢室の隅で云ひ習つておくと云ふことだ。》
婿殿、勤め人の心得として、しごくごもつともと聞いていただらう。あたり前な教訓話になつてゐる。 西暦一七〇八年、寶永五年、大阪の陣からから一〇〇年。合戰の世は遠くなりにけり。
この「只今がその時、その時が只今」は、定朝が父親代はりに薫陶を受けた二十歳上の甥からよく聞かされた言葉だ。 甥は定朝の父の世代から薫陶を受け、この言葉が亂世の「常在死身」とセットであることを知つてゐる。
疉の上の奉公となつたとき、「常在死身」を疉の上の「端的只今」にリセットした。甥の世代は「戰{いくさ}がなくなつたとき武士と何者であるか」。病巣との苦悶の戰ひの末でのリセットだつた。 七十違ふ曾祖父の歳の父をもち、戰國の遺風を肌で知つてゐた定朝は辛うじて二十歳上の甥の云はんとすることが理解できた。
大地震、噴火、洪水の天災が突如襲つたとき、「只今がその時、その時が只今」と心で吐き行動する。
死がいつ訪れるか誰も知らない。ゆゑに日々、覺悟し、對處を想像しておく。 「ああ、いまが死するときか」と。 運よければ、この覺悟からくる冷靜さが危機一髮を逃れると軍人{いくさびと}は經驗から知つてゐた。
この先人の智慧を、まづは教へておくべきであらう。 行政とやらは商人{あきんど}の口車に乘り、これを用意しろ、あれも用意しろと、お達ししてゐる。
學校で「常在死身」を教へろとまでは云へないご時世だが、せめて疉の上の「端的只今」は教へるべきであらう。 相手は殿様でも家老衆でもなく天災樣である。 (士族は別ですぞ。元服(十五歳)を過ぎたら家で教へること)
宝永五年の前年、富士山が大噴火。郷里から仰ぐ富士の右すそに大きなコブがある。むかしむかし噴火があつたときできた「宝永山」と教はつた。
靈峰富士もいつかは形を變へる。そのときの世の人に不二(ふたつとない山)と崇められてきた歴史は殘つてゐる。どのやうな形になつてゐても新しい傳説(歴史)を生んでいくことだらう。それで好い。
2012/05/16(水)  |
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