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虚空に一人立つ意志の力


【ホームページ掲示板「思考の無名刀」
私たちは『国民の歴史』をこう読んだ
■西尾幹二著『国民の歴史』への感想が寄せられました。ご紹介します。】

小林よしのり氏との論争もあり
掲示板に多くの意見が投稿されたのであろう
さて 投稿ページの前に掲載された
小杉英了さんの『国民の歴史』

【『国民の歴史』を読む
秘められた意志
――ニーチェを思わせる虚空に一人立つ意志の力を人々の心の中に呼び覚まそうとした「超人のいざない]」が『国民の歴史』」をつらぬく通奏低音である。】  

小杉さん  二ノ巻から三/四/五/六/七/八と
寄稿いただいている  
三島由紀夫にも東洋思想にも教育思想にも織田信長にも吉田松陰にも民族の思想にも触覚を伸ばしておられるからだ

ルドルフ・シュタイナー研究家として ニーチェも“通過”している
そう 「通奏低音」 
小杉さんの原稿で初めて出会う

小杉さん 十二年前  小説を書き 霊を扱う何とか賞 受賞
本 送られてきた記憶
その後も 霊に関する小説 書いておられるようだ

小杉さん  巻末 こう閉じた
【私自身は、『国民の歴史』」の観点に、全的に賛同するものではない。
けれども、ニーチェ没百周年にあたる二〇〇〇年の今日、本著をニーチェの思想を
ふまえて読むことの意義は、限りなく大きいと思うものである。】

西尾幹二氏にニーチェを重ねる

つづきは次回
2024/06/22(土) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


きょう 武道通信かわら版
6/20 2024 通算574号 配信日

きょう 東京都知事選 公示日
立候補者 何人になるのか

あの 富士見通りに入る
三井住友銀行 前の候補者ポスター板
貼り切れるのであろうか
2024/06/20(木) 晴れ


弓馬の家


高校に入って 弓道部
高校 前身は父の旧制中学 
同じ弓道部 入れとは云われてなかった

一年生 毎日 千本浜 ランニング
弓道場では 的場(安土{あづち})の脇で
「あたり!」「はずれ!」の掛け声だけ
いつになったら弓 持たせてくれるんだ
で ヤ〜メタ
「巻藁三年」なんて言葉あること
四十半ば 弓道場の門くぐってから知った

多少 和弓と関わった拙者が 
軍学者の言葉 くだいて綴る

和弓のはじまり
上下で弾力生が異なる一本の木でつくられていた
根元の方が太い 先は細い
ゆえに 弓を持つ左手 弓手{ゆんで} は
下から三分の一のところ

平安の世になり
竹と木を合わせつくれるとうになっても
弓手の位置 下から三分の一

いまの世 グラスファイバー製/カーボン製も同じ
かつての武士のプライドを守りつづける
記憶の遺伝子を守りつづける

初の国産銃 村田銃の村田経芳{つねよし}
弓を研究 分析
強弓の遠射  全く当たらぬ
むかしの実戦鏃{やじり}  いまの的射用より矢先が重い
強弓で近距離を射たものと結論

元寇
大陸の騎射戦  一定の間合いを保つ
日ノ本の海岸線ではそれができなかった
日ノ本軍が接近戦を挑んできたので
元軍は二度とも陸営を嫌い 海上へ碇泊
海上に間合いをとった

支那 宋の世の著 『射経』
日ノ本の狩猟式射術
「相手に近づいてから発するので射た矢はすべて当たる」

軍学者
弩の製作に必要べからざる魚の膠{にかわ}
この膠の接着剤 連射していると軟化  威力が弱まってくる
高温多湿であるほど進みが早い
元寇の射手も同じだっただろうか
しかし 軍学者 それが第一の理由でないと

【兵頭  → もともと縄文以来の日本の風俗は、東北地方と北海道においてもなぜか「南国風」だ。何かはっきりしない理由によって、それが長弓による狩猟のスタイルと神話的だった。その長弓による狩猟者が、日本の武士の根源であり、それが中央貴族に対するほこりであったからこそ、わが国では、武家は「弓馬の家」、武士は「弓矢とる身」と自称して、元寇の頃までは、武士の「表道具」は刀や長柄でなく、弓(和弓)だったのである。 】

※月曜(17日) UPするつもりだった 失念
  健忘症に非ず
2024/06/19(水) 晴れ


和弓こそ 武士のプライド


軍学者 こう断言する
【兵頭 → 日本の武士は、昔からの和弓の外観とスタイルを、決して捨てようとはしなかったのである。それはあまりに古くより、日本武士の自己イメージと不可分のシンボルだったのだ。
彼らのプライドは、刀剣でも馬でもなく、自己の身長よりも大きくて、遠くからよく目につく、和弓を以てするサービズ(職務としての役務提供)の中にこそあった。だから鉾や長刀が廃れ、元寇以後に槍が採用され、「種子島」が普及しても、和弓のスタイルだけは不変だった。】

実は 奈良朝以前に 支那式「合成短弓」  導入されていた
2メートル20センチの和弓 馬上から前方 右側を射るのは難しい
左側を射る場合でも 墝{き}んだ弓元が馬に接触する恐れがあるから
射手は馬上で仁王立ちしなければならない 短弓ならそんな面倒は一切ない

歩兵用の「弩{ど・いしゆみ・クロスボウ}」も 導入されていたはず
しかるに 歴史的事実はどうか?

紀元前四世紀 支那でつくられた弩
日ノ本 壬申の乱(672) 弘文天皇側で初めて使われた
藤原広嗣{ひろつぐ}の乱(740)  双方 弩 使う
大宝令 「続日本紀」以後 正史に記されている
対大陸防備用 東北・蝦夷の騎射に対抗するため
後年にも弩手の増勢が進言されている

しかしだ
坂東武者の鎌倉の世以降 いかなる記録にも出てこない
現物も伝わることはなかった

鎌倉の世 中ごろ二度の元寇
元の射程200メートルの短弓 威力が半分のない長弓の武士を射すくめた
しかし 役後 大量に残されたはずの
その強力な短弓の構造を武士は模倣しなかった
むろん技術不足からでない

和弓は 日ノ本武士の自己イメージと不可分のシンボル
古代の記憶の遺伝子か

−−−−−−★−−−−−−
「それはあまりに古くより…………」
狩場 背丈以上の葦に覆われていた頃
長弓は 狩人の相打ちを避ける目印となった
その昔 軍学者 どこかで書いていたような気がする
2024/06/15(土) 晴れ


日ノ本武士 戦闘流儀


【「和弓」――日本の武士の誇り】
斎藤 浩(作家)
軍学者の本名
九ノ巻 連載併せ“三本立て”
 
まずは 軍学者の博学 披露
米國で『火器の誕生とヨーロッパの戦争』(1997)
武道通信 発刊 一年前だ
東洋の武人には西洋の騎士のように接近格闘を尊ぶ文化はない
遠距離からの弓射が好まれると記している
これに感化された日ノ本研究家
日ノ本で鉄砲が速やかに普及したのは日ノ本の武士にも
アジア型「遠距離志向」があったからだと
軍学者 常に 軽率/短絡の学者を嗤う
軍学者 異国の文献も鵜呑みにしない

貴族の「決闘」 剣から拳銃にシフトしただけ
ウィリアム・テル ロビン・フット
長弓特異とする永遠のヒーロー
アジア型「遠距離志向」 支那兵 ベトナム兵に認められる

日ノ本武士 戦闘流儀
できるだけ相手に近づき 敵の反撃武器の一歩外側から
正しく敵の急所に矢を射込むことであった

これは比較的初速の低い「長弓」をもってする上古の猪/鹿猟のスタイルを
そっくりそのまま人間相手の戦争に応用していたのだ

−−−−−−★−−−−−−
そのむかし 弓道道場入門
年配の先輩 曰く
射位から的場の距離
城の堀の幅の長さ
もっともらしい うまくできた作り話

射位(射手)から的までの距離28メートルと決められたのは
戦前 武徳会 十五間半が全国基準となった
その根拠はどこからであろうか

そのむかし 合戦では槍隊と弓隊が一緒に動いていた
して 槍隊の後ろに 弓隊が陣取る
槍隊 三間槍である
繰り出して三間 繰り込んで三間 都合六間
双方あわせて十二間の間隔が必要
弓隊 その後ろに陣取るから 標的の敵は十五間としたわけだ

『日置流弓目録第三十七條 槍脇射様の事』とある
城の堀の幅の長さでなく
自陣と敵陣の弓隊の距離であった

−−−−−−★−−−−−−
父 武徳会弓道大会(京都)
いまで云えば インターハイか
父 丁度 弓 引き絞った「会」のとき
皇太子(今上上皇) 御観覧 で太鼓打たれる
外してしまった
あのとき 太鼓が打たれなかったら……
2024/06/13(木) 晴れ


日本史は朝廷のサバイバル・ポリティクスの歴史


軍学者 騎士道と武士道の違い
騎士道 → ゲルマン的な尚武の気質 
キリスト教という宗教的権威によって矯正されてきた
武士道 → 古代的な野蛮/殺伐を
政権外部の宗教的権威でなく 一貫して朝廷自身が文教政策によって矯正してきた
これはi支那の政治と儒学との関係とも異なる
朝廷外武力の蛮風を抑制し馴致していることは
現代の日本の史学者も真に認識していない

【兵頭 → 朝廷による「武家」馴致の最初の試みは、聖徳太子による仏教の輸入だ。
古代的武家であった物部守屋がこれに反対して、かえって誅伐を受けた。が、
この事件は、宗旨{しゅうし}争いなどではない。事と真相は、物部氏のような狩猟/戦闘者気質の保存継承者を、朝廷が仏教を鞭にしていよいよ矯正・馴致に乗り出したのだった。朝廷による仏教製作のターゲットは初めから物部氏であった。それなればこそ
守屋は、自家伝統のエトスに殉じなければならなかったのである。】

平安の世も末 近畿の武家 大分公家風に懐柔される
が 奥州の安倍頼時/貞任父子 まだまだ原始武家的なビヘイビア(振る舞い)残していた
『古今箸聞集』 安倍貞任と討手の源頼義との間で和歌の上の句下の句のやりとりがあった
コレ 京都公家の誰かの作り話
たとい奥州だろうと坂東であろうと和歌が詠めるような者でなくば立派な武士ではない
いや 日本人とはいえない という文教宣伝
戦国末の太田道灌説話も 同様な意図によって文化人グループがこしらえた
*ガッコのセンセイ この逸話 得意げに教えていたな
 記憶に引き出し 開く

軍学者の話 最後まで聴くことにしよう で この項 おしまいしとしよう
【兵頭 → 和歌には、季節の花鳥や、きまり切った名所を詠んだ定形的なものが多いが、その定形的感受性で万民を包絡しようとする国民情緒統一の政策こそ、朝廷が『古今集』編纂いらい一千年以上おしすすめている文教事業の真髄であろう。
鎌倉三代将軍実朝がすっかり公家文化に籠絡{ろうらく}されてしまったこと、この流れに反撃した北條氏が三上皇を島流しにしたことなどなど、日本政治史は「和歌文化」対
「狩猟/戦闘文化」を中心軸として振子が動いている。
仏教も儒教も、その二文化角遂{かくちく}(競り合う)の道具として利用されているにすぎないのだである。見方を変えると、日本史は朝廷のサバイバル・ポリティクスの歴史である。 *サバイバル・ポリティクス→戦略的自己防衛とでも訳そうか
表面的武力の所在だけを追っても、この日本国の文化的連続性は掴めない。
たとえば対米開戦前の御前会議で昭和天皇が「四方の海…」と明治帝の御製を郎詠した意図は何だったか。それは真珠湾以前において既に敗戰のときに備えたアリバイ作りをしたものに他なるまい。しょせん朝廷和歌文化の手先にすぎない小説家・文人に、宮本武蔵の純粋戦闘者のエトスを言語化した『五輪書』が理解できないのも、考えてみれば当然なのであった。
徳川時代は、和歌文化が狩猟/戦闘文化を最も長く馴致し得た時代となるが、そのとば口にあって武蔵は、自在自得の野蛮な戦闘文化のエトスを捨てることを拒み、和歌文化に拮抗するテキストとして書き残してみせたのである。それが西国熊本で完成したのも、きっと、偶然ではありえない。】

−−−−−−★−−−−−−
『精解 五輪書 宮本武蔵の戦闘マニュアル』 兵頭二十八著(2005刊)
一年前刊の『あたらしい武士道: 軍学者の町人改造論』につづき
拙者 新紀元社に売り込んだ
軍学者 (『ヤーボー丼』に綴った武蔵の技を映像化したかった
拙者のブレーン 佐山聡/田中光四郎/鎖帷子剣士に演じていただいた
2024/06/11(火) 晴れ


説明言語


軍学者 語り続ける

 『ヤーボー丼』で 『五輪書』の解義は書き尽くしている
以下 本稿 宮本武蔵を日本政治思想の中で
どう位置づけるか これについて愚見を述べる

「武蔵」の名 いつ ついたのか
森鉄三{せんぞう}『宮本武蔵言行録』(昭和十五年)
父・無二斎{むにさい} 播磨國宮本村 剣法家
その子に 「弁之助」 と名づける
当時の軍記モノ 謡曲のヒーロー「武蔵坊弁慶」にあやかった
生長した後 武蔵と改名したとの森説 軍学者も同意

武蔵坊弁慶の名の謂{いわ}れ
生まれも育ちも近畿地方だが
荒々しい「ますらお」は東国から来る との京都人のイメージに便乗
古墳時代 人骨 東国の方が大きい
「ますらお」に「丈夫」の字が当たられたわけ

宮本村の武蔵の名乗りには
 「丈夫」「野蛮で洗練されていない戦闘者」「鎌倉武士」のイメージを
ことさら自己に重ねようとする気持

軍学者  『五輪書』のオリジナル・テキスト 
昭和前期の日本人の文章よりもはるかに讀みやすいことに驚いたわけ こう解釈する
武蔵 近畿から東以降では門人 つくれなかった
武芸者は東から西に上る その逆だと言葉づかいからして壁があった
武蔵には柳生家のような将軍家指南は無理だった
加えて「翻訳知識」を排した武蔵
外交 戦争準備 行軍その他「大分の兵法」を領主達に教えることができなかった
だから
巌流島の決闘以来 将軍や大名のお抱え兵法者として直接剣を持っての立会いを
拒絶されるようになる
その失意の放浪生活中 自分の会得している剣術を理論家しようとする
あらゆる職業/芸能を見学して「説明言語」を探した

それは 何であったか
それは 反和歌文化の日本文であった
次回につづく

−−−−−−★−−−−−−
武蔵の「説明言語」とは
頭の中で考えていることを 手/足の動きに変換する
武蔵があらゆる職業/芸能を見学/体験し 理解たのではないか
拙者の愚見を述べる
2024/06/09(日) 薄曇り


空前絶後の独立峰


宮本武蔵  十七歳で関ヶ原合戦
二十七歳  巌流島 佐々木小次郎
三十一歳  大阪夏ノ陣 冬ノ陣 諸説あるが 武蔵自信の記述無し
五十七歳 島原ノ乱 
それはともかく 馬上立身を願いつづけたがたが夢 叶わず
六十歳  『五輪書』  書き始める
二年後  九州熊本にて没する

火器全盛時代にあえて太刀にこだわり
軍学者の言葉を借りれば「太刀の徳を説いてやまず」

【兵頭 →  刀剣兵法だけで実戦を生き残り ほどほどの地位も得た片手刀術の「マスター」でもあった。さらには、自分が獲得したテクニックを秘伝めかさず日本語で完全マニアル化することを実戦した。これは、術すら極めずに道ばかり説くインチキ師範の対極であり、術{みち}を極めているからそれを道{言語}にできるのである。】

西洋近代科学に最も近いところに居た専門技術者
<吉川英治武蔵>とは別人であると 軍学者 断言する

軍学者  『五輪書』のオリジナル・テキスト 昭和前期の日本人の文章よりもはるかに讀みやすいことに驚き、『二天記』『小倉の碑文』なども参照した結果、武蔵の生涯、馬や甲冑への執念を強く持っていたことに注目した
軍学者 武蔵の剣法 二刀流といいながらも
片手馬上術の要素が濃く 足さばきを問わぬのもそのため
と推論した
(『ヤーボー丼』(1997)に一筆)
武蔵 最晩年に至もも「大身(大名)」になりたいとう自己の要求 
誤魔化そうとしていない

 『五輪書』  「武士の兵法をおこなふ道は、……主君の為 我身の為
名をあげて身をたてんと思ふ」
いったい このどこが「禅」であるか

武蔵にやや前後する柳生但馬
禅僧沢の己の本心や才能/地位などをつつみ隠す技を借り  
山鹿素行が宋の世の儒教の理論を無理にこじつけた兵法に武人論理学的な
装いをまとわせたこととは
同一に語ることはできない
宮本武蔵
日本思想史上 空前絶後の独立峰であった

−−−−−−★−−−−−−
宮本武蔵
武芸者として論じれば 鉄砲時代の落伍者であった
落伍者がなぜ 時代を突き抜けた

宮本武蔵
今日的テーマでありつづける
いまの世の  インターネットに接続する世の
落伍者から <宮本武蔵>が出現するやも
2024/06/07(金) 晴れ


武道通信かわら版 配信日であるが…………?

配信予約の「発行するまぐまぐ!マイページ
開いたところ、いつもの画面と違うものが
配信・予約にたどりつけない

で、まぐまぐにメールでと問い合わせ中

追伸:
<「マイページ」デザインリニューアルのお知らせ
マイページの操作性向上のため、デザインリニューアルをいたしました。>
ちゃんと讀めよ

メール 返事 来た
「マイページの操作性向上のため、デザインリニューアルをいたしました
デザインリニューアルに伴い
「反社会勢力ではないこと」に同意いただけますと
メルマガの発行が可能になります。」

武道通信 反社会勢力か?
迷ったので 同意しなかったのだ (冗談)
2024/06/05(水) 晴れ


吉川英治『宮本武蔵』


兵頭二十八 話はつづく

日露戦争後 「武士道」 関連書 巷に溢れる
大隈重信 苦言を呈する
「今日 武士道と云うものは 如何にも耳障りで絶えられぬ」
佐賀藩上士の出 大隈
「武士道」ブームに反比例し
血肉化 気質としての武士道 薄れつつあること憂いていた

長州藩士の出 乃木希典も同じ
山鹿素行の武士道関連書 書写し自費で印刷 学習院の生徒に配布

<国民皆兵> 
二百七十年間 非戦闘員づれした町人/百姓 成人男子 
皆 サムライになった された
焼き付け刃であること  大隈も乃木もわかっていた
これは 軍学者の文中にない 拙者の論

こんな時期 「宮本武蔵」 再発見される
新渡戸の『武士道』 日本に上陸 翻訳された翌年
宮本武蔵の伝記本 刊行
これを基に 立川文庫から『武士道精華宮本武蔵』
何度も判 重ね 剣豪の名 巷に流布される

ここで 昭和初期 吉川英治『宮本武蔵』
国民的人気 博す
吉川英治 国民的作家に

以後 戦後にかけて 吉川版武蔵を基に ドラマ/映画
娯楽作品なれば 美剣士佐々木小次郎などの
ディテールは面白ければいいこと
ただ一つ 吉川に罪がありとすれば
武蔵と禅を分かち難く結びつけたこと
『五輪書』 「天を排し 観世音を礼し 仏前に向ひ…………」
『貞永式目』以来 武家文書には伝統的に神仏尊重の衆辞がある
密教由来の「五輪」という概念を含め その範囲を飛び出していない

合理主義者/宮本武蔵の実像 甚だしく歪められた
もともと日本文化の主流には収まり切れない武蔵の近代思想を真正面から
解読しようとする日本人の文学者や思想家はいなくなった
では 本当の武蔵とはどのような人物であったのか
次回につづく

−−−−−−★−−−−−−
祖母 男子の孫 映画館へ連れていった
『明治天皇と日露戦争』
敗戦後少年に武士道を観せたかったのだ
2024/06/03(月) 晴れ


日清戦争 → 日露戦争


九ノ巻 特集 宮本武蔵
トップバッター  もちろん 兵頭二十八
古{いにしえ}のこと よく知る 壮年の軍学者に耳を傾けよう

日清戦争  俄然 非キリスト教徒
日ノ本人への精神的/論理的背景に興味沸騰
奇しくも 1899年(明治三十二年)  これに最初に直答したのが
農政学者新渡戸稲造
「BUSHIDO The Soul of Japan」(武士道)
米國 上流人/知識層に大評判
その名声 日ノ本に還ってくる
井上哲次郎ら人文系学者 嫉妬から批判

新渡戸も気づかされたように
それまでの武士階級 武士道とは何かを 
テキストブックをもって教えられたことはなかった

明治三十三年  おそらく旧幕臣 爪生喬 『江戸時代の武士』
「近古の侍の道は今の民の道たらざるべからず」としか
武士道の意味づけ できていない
明治三十四年刊 『武士道発達史』 足立栗園
「従来かかる研究の著書は皆無で 武士古来の状態をさへその沿革を詳らかにしたものがない」

『葉隠』 山鹿語録』などは どこかにあったろうが
私蔵書写本であった  誰もが讀める版本図書ではなかった
つまり 日清戦争の軍人の頭の中には
「武士道」などの文字は一つもなかった
文字は一つもなかったが 血肉化された何かはあった
「武士道」なる概念が頭に中にあって戦ったのは日露戦争から

以上
【日本思想史からみた宮本武蔵
和歌文化への対抗 空前絶後の孤立峰】
の前文としておこう
2024/06/01(土) 晴れ


まるちゃん遊びましょう それともケンカする


松岡 → いま「遊び」というものをやり直そうかとなと思っているのです
前田 → 松岡さんが『游』を創刊したのはだいぶ前なんでしょう
この前田発言は MCだろう

松岡正剛 1971年  雑誌『游』 創刊  この対談 2000年 三十年前だ
「オブジェマガジン」と称した
ウキペディア → あらゆるジャンルを融合し 超越した独自のスタイルは日本のアート・思想・メディア・デザインに多大な衝撃を与えた

拙者も創刊時 本屋で手にした
(買わなかった  貧乏学生には高価だった)

【自分で『游』なんて雑誌作っていながら、それがちゃんと責任とれなかったかなという反省もあるんですけども、もういちど自分がなぜ『游』と行ったのか、その遊びというものの中に日本人が持っている妙な、まだ説明できていないものが潜んでいるような気がするんです。
遊びの奥には「すさび」というものがあって、すさびというのは「荒{すさ}び」と書くんです。風がすさぶとか。一度オーダーがきっちりとしているものが、何かふわっと揺れて、そこから自分と対話をしはじめるものを、どうも古代から「遊ぶ」と呼んでいる感じなんですね。…………「すさび」という言葉は平安期には「口ずさみ」とか「手すさび」という言葉になっていまして、あれが何か不思議でしょうがないんです。これが後々、遊芸とか武芸というものに発達した。なぜすさんだものから遊びを取り出したのか、ということを最近考えはじめたのです。】

松岡氏  『日本流』刊行 その著で
荒れる方は「荒魂{あらたま}」 → スサノウ
荒れない方が「和魂{にぎたま} → アマテラス
「改まる」は 「荒魂」から来て 新しい魂になる
一度 何かが吹きすさんで荒れた瞬間に改まる

【松岡氏 → どうも この「和魂{にぎたま}」、アマテラスの方だけで神話や物語を統一したことには問題があります。もう一度、スサノウの方の「荒魂」をなるべく強調したような物語に戻る必要がありあます。そうすれば、原初にこそ荒ぶる戦闘が余儀なくされたという事情も見えてくるでしょう。遊びが荒びで、それが神話の原型になっているですね。
実はロジェ・カイヨワの『戦争論』も遊び論から派生したのです。】

「平家蟹は元気ですか」のカイヨワだ

カイヨワ  遊びと戦争は<聖なるもの>と同一根
日常から離脱  陶酔 恍惚

『戦争論』 要は  ひと言で云えば
戦争はなくならない
部族⇔部族  貴族(武家)⇔貴族(武家) 國⇔國
テロ⇔國(安全保障)  

ときが移れば  品変わる
無人攻撃機  サイバー攻撃……
いま 吾ら 全人類 戦争の中に在る 
2024/05/30(木) 晴れ


番外編 天来の着想


天来の着想 突然  文言 天から降りてくる
先日も 天来の着想
スゴイやつだった
書き止めておこうと思いつつ 忘れる

で 天から降りてくる文言 
以後 すぐ 書きとめておくことにする

むかしむかし
メキシコシティ 世界空手選手権 取材の折 
帰り空路 サンフランスコ行き便
窓から見下ろす  深い森林
ふと 文言 天から降りてくる  
<天が 人を 鳥のように空を飛ばせなかったわけが わかった>
との ような文言だった
メモ 後日 失くす

「あそび」と「すさび」は 次に

−−−−−−★−−−−−−
アルチュール・ランボーが見つけた
《永遠》
東洋の永遠
小澤征爾  <西>から<東>へ帰ってきたとき
すぐに聴く
山本直純 「フーテンの寅」テーマ曲

やっぱ 東と西に 分けるのは楽ではない
2024/05/28(火) 降ったりやんだり


平家蟹は元気ですか


<一番最初にバタイユを読んだときに、これって「ワビサビ」のことを言ってるのかなと思いました> 
の次
前田 → ヴィトゲンシュタインを読んだときに
なんだ吉本隆明の『共同幻想論』はヴィトゲンシュタイン読んだら書けているじゃないかとも思ったりして

学生運動とやらに関わった奴ら皆 俺も讀んでいた『共同幻想論』
おいおい 前田 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインなんかも読んでいたのか

杉山頴男事務所(武道通信)も二十五期目 来月で〆
二十六期へ突入
そんな時期に 九ノ巻 論客対談 讀んでいて
吉本隆明 ヴィトゲンシュタイン 読んでいたと確信する
論を発{た}てるには まず 己の体験がある これを下地に
論を組み立てていく
ヴィトゲンシュタインの論 ヒントにした

松岡氏 → それそれ そういうところが前田さんは面白いよね
よくそんなもん読みながらレスリングやってましたね

【前田 → バタイユは三島由紀夫がなぜ自決しやのかと一生懸命に考えていたと読んだんです。三島は晩年バタイユ、バタイユって言っているですね。】 

補:バタイユ 西洋の伝統的なキリスト教的 観念的な精神を批判し 
唯物的で功利的な思想からも外れて
新たな物質的価値を「消費(デパンス)」に見出す
非生産的な消費こそが人間の生における本来の「目的」であり
有用性の発想は この目的に尽くすための手段にすぎないとして
手段を目的に取り違えている近代人の生き方を批判

【松岡氏 → バタイユと稲垣足穂と唯識論を言い続けて死んでいるです。そのバタイユは人物でなくバタイユって費{つか}う の方うでしょう。
補:Waste、 消費する(*無駄の意味も}
バタイユと一緒にやっていたミッシェル・レリスとロジェ・カイヨウ三人で『聖社会学』を書いたんですが、僕がフランスに行ったときは、もうバタイユもレリスも死んでいたんで、カイヨウと会ったんですが、やはりカイヨウもすごかった。
僕に会った瞬間に日本人は『平家物語』をちゃんと読んでいますかと言うんです。やばいなと思って、最近は読んでないと言ったら、じゃあ平家蟹は元気ですかって。
物語を動植物にまで当てはめて、情に訴えるような国の文化というものをあなた方は背負っているのだから、ちゃんといつまでも平家蟹の思う出しなさいとか言われてしまった。
映画監督のブニュエルとか、ああいう人たちもそういうものがありますよ。やはり東と西に分けるのは楽ですが、実はやはり西の中にも特別すごいのがワビサビを超えていたり、数寄{すき}の精神を超えていたりしていますね。】
【前田 → 「松岡正剛」でも、やばいとか、まだ焦るということあるんですね(笑)。】
【松岡氏 → 日々、反省ですよ(笑)。で、いま「遊び」というものをやり直そうかとなと
思っているのです。】

次は「あそび」と「すさび」
2024/05/26(日) 晴れ


1足す1は2であると  思う私がいる


数学の話だ
前田 → 最近 ゲーデルという人に興味を持って 不完性定理ということ云った人
MC まったく知らない人物
松岡氏 → えっ ゲーテル讀んでるの? 変わってる人だな 前田さんも

ゲーデル 神の存在論証明をやった人
前田  → ゲーデルによると 人間の理性には限界があると

松岡氏 数学史 語る
ゲーデルの前にリーマンとか いろいろな人の超数学
その中のヒルベルト
簡単に云うと
1足す1は2という証明をするには 1足す1は2であると思う私がいる
というところまでやらないと数学にならない
これが「ヒルベルトの問題」
世界中の数学者 考えてもわからなかったとき
若きクルト・ゲーデル 現れる
数学そのものを超数学的に解釈すると
数学そのものも 数学を言明している自分のことも
ロジカルに 論理的に 理にかなった説明できないと云い出した
すべてが不完全であるというところまでいく
そしてゲーテル数というものをつくる
これが不完性定理のはじまり

前田日明  たしかに変わっている
松岡氏の博識には 恐れ入る

【松岡氏 → やはりヨーロッパにはときどきすごい人間が出ますね。たとえばシュレディンガーという、「我々は負のエントロピーを食べている」という生命論を作り上げた量子力学者がいるんですが、こういう人はヴェーダ(注:紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称「ヴェーダ」は「知識」の意)
などの東洋哲学を読破していますし、最近マトゥラーナとかヴァレラという人が免疫からオートポイーシズという理論を作り上げて、人間の免疫システムがどうして自己をつくるかということを解くわけですが、彼らはチベット仏教をやっていました。
そういう人は到底日本人にはかなわない発想をしてますね。そういう一人にフレーゲやゲーテルやラムゼイという人や、ごく最近亡くなったデビット・マーといった科学者や論理学者がいる。きっと前田さんも読んだら狂うくらい面白い人たちですよ。】

前田 また変なこと云い出した
前田 → 一番最初にバタイユを読んだときに、これって「ワビサビ」のことを言ってるのかなと思いました

つづきは次回に
2024/05/24(金) 晴れ


Y0Uは何しに日本へ?


【松岡氏 →「中華中国を意識の中心におく」という感覚を脱却するのは
契沖{けいちゅう}ら国学者が万葉研究をやったりするところあたりですね。
このころやっと、かりそめ文化でなく、日本もリアルでいこうという流れと実証力ができた。】
前田 →  賀茂真淵ら国学の誕生ですね。それに「武道の中の日本」にありましたがすか。
これ MCの挿入句であったろう

支那の百科全書的な本草書『本草綱目{ほんぞううこうもく}』 
貝原益軒らが日ノ本版を編纂したにのが『大和本草』
収載された品目  動物/植物/鉱物など千三百種
品目ごとにチャイニーズと日本名を対照
日本固有種には和名を用い 名称/来歴/形状/性質/産地/効能などを和文で

松岡氏 → これが「中国ばなれ」の本格的スタート

【松岡 → 「中国ばなれ」のもう一つは、明から亡命者だった朱舜水{しゅしゅんすい}の歴史観を元にして『大日本史』を編纂したこと。朱舜水は日本の歴史のあらましをみんなに聞かされて、これは後醍醐天皇や楠正成の南朝の中に日本歴史の真髄があることに気づくんです。
それまで日本人は後醍醐天皇の話は『太平記』で知っていましたけれども、正当にそれを論じたことなど一度もない。それを中国の亡命者から聞かされた。そうか、南朝か、ということがやっと理解できる。そこから水戸学も興っていくわけです。
これはちょうど、フェノロサとかブルーノ・タウトが日本の美術を発見したり、フランス人が浮世絵を評価したようなもので、日本の歴史の真髄はここだよと教えたくれた。だからひょっとしたら今の日本のていたらくを本当に警笛を鳴らして、日本の本質はこれじゃないかと謂うのは、日本人じゃなくて、また外国人かもしれません。】

Y0Uは何しに日本へ?
ニッポンの本質を見つけに
2024/05/22(水) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


きのう 全日本戸山流居合道全国大会
武道通信かわら版でひと言 ふれた

『刄隠』 刊行から四年たった
サブタイトル
日本列島固有種して
別滅人種「武士」
武士の面影を求めて

全日本戸山流居合道全国大会
武士の記憶の遺伝子
見つけにいった
2024/05/20(月) 雨


幕府 バーチャルだった


前田 → 大和ことばに興味持ったことあり
大和言葉 「あ」とか「う」の一つ一つに意味があること知る
『国民の歴史』読んで 日ノ本が漢字を受け入れるのにためらったとあり
その思考錯誤の中から仮名を生み出した と

大和ことばに興味 前田の言葉
『国民の歴史』読んで  MCの挿入句であったろう

松岡 → 万葉仮名の発明  史上最高のイノベーション
百年後 紀貫之 古今集に真名{まな}(漢字)序と仮名序 並列
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」(土佐日記)
女が書いたフリした
さきほど再放送していた「光の君へ」の紫式部も大いに感化された
『紫式部日記』 書かせた
『蜻蛉日記』『更級日記』 も そう
後年 日ノ本の文字として確立する

松岡氏
「女もしてみむとてするなり」
仮託の装いという 日ノ本 独特のやり口だと
【松岡氏 → 何か常に一旦かりそめに入って、そこから出てくる。…………
幕府もいまの日本史の中で中心にあったように思われていますが、あれは
かりそめの幕を張り巡らしたような簡単な幄舎{あくしゃ)のことだった。
行宮{あんぐう}ですね。】
*幄舎 → 四隅に柱を立て、棟・檐 (のき) を渡して布帛 (ふはく) で覆った
仮小屋  祭儀などのときに臨時に庭に設ける
行宮 →  天皇が行幸のとき その地に設ける仮の御殿

【松岡氏 → 「将軍」ということ言葉も征夷大将軍という言葉が最初だったように、ある方向に向う将を示す言葉です。そのとき、ある拠点から離れて途中のところに、とりあえずかりそめな幕を張ったものが幕府ですから、その幕府を鎌倉幕府とか江戸幕府が将軍家という政治権力機構にしたとしても、もともと根幹にはバーチャルなかりそめの感覚があるのです。とりあえずは今はこうするんだという思想です。】

華夷秩序を発信している「中華中国」というものが常にあった
これにまともに戦いの相手にしないとか、まともに対抗する文化をつくろうとしない
いまの日米関係みたいに と松岡氏
云い得て妙である
まともに対抗する文化でないのが 
ゲーム/アニメ/コンビニか

−−−−−−★−−−−−−
ハリウッド『SHOGUN 将軍』
アチラでは評判のようだ
SHOGUNの権力 バーチャルだとは気がつくめえ〜
2024/05/18(土) 晴れ


□□様  □□殿


「儚し」のポジ⇔ネガ の行き来
この両方を行き来するのが武道の「理合」ではないか と前田
そうだと思います 武蔵も「影を動かす」とか「影をおもゆる」といって、光と影、実体と虚像、その両方を必ず云いますね と松岡氏

前田 → 陰流も影と戦って得た極意
松岡 → 柳生真陰流の元祖 陰流 

この二つの 前田の発言 
拙者が割り込んで吐いた言葉だろう 
なにせ拙者 司会者 いやMC 
台本などない ブッツケ本番対談
仕切り屋がいないことには話は続かない
前田に こっちの方へ話しを進めたらとも誘う

次は 前田の発言
先の福田和也さんのとの対談でと
いま小学生に英語を教えているが
古典を子供のころから学ばせるべきだと

【松岡氏 →  僕が先ほど、日本はだめになると入ったのもそういうことです。
いま出た理合に関連して言いますと、日本の「理」というのは「ことわり」という大和語があるんですね。「ことわり」「言を割る」ことです。自分の言葉を割ってゆで卵の中を見せることが本当の理なんです。
ところがいまはそういう理でないんですね。外からの理屈を導入してロジカルに管理できるものが理になってしまった。自分のものを開けないで、何かロジック(理屈)を使うことが理になってしまった。】

前田 →自分を割って見せるというところから 切腹が生まれた
コレは前田 発言
切腹 なぜにして興った コレ 一筋縄ではいかぬ

前田 → 「さよなら」という語源は武士と武士が「左様なら拙者は失礼致す」の
「左様ならば」が「さよなら」になった
コレは前田の学識 
【松岡氏 →「すみません」もそうですね。あれは「澄みません」ですね。私がこの状況を乱したから空気が濁った、澄むようにならない、お詫びしているわけです。……
もっと面白いのは、手紙の宛名に「様」とか「殿」って書くでしょう。あれは何だとおもいますか。…………
前田日明様って書きますよね。それは自分は今前田日明さんに非常に心が動いている。しかし今お会いできないので手紙をしたためています。でもせめて前田さんに心が動かされた気持ちを自分の書体や文体に込めながら、つまりは前田日明の様{よう}になったつもりで書いてます。これが「様」なんです。】
前田 → では「殿」は
【松岡氏 → 「殿」は自分はまだ前田さんを存じあげないけれども、まず貴殿という「家」のアドレスにこれをお届けしたいということですね。】

いまの世の  様/殿の使いわけ
どうでもよろしい
拙者 殿は武士語として使っている
親しい御仁には皆 □□殿

−−−−−−★−−−−−−
「拙者」 文字通り「拙{つたな}い者」  謙譲語 
「某{それがし}」 誰かわからない人」という意味 転じて
「私は誰と云うほどのこともないつまらない者」 これも謙譲語
2024/05/16(木) 晴れ


はかなし → 名こそ惜しけれ


松岡氏
日本刀の話で思い出したのですが と
世界で書道が残っているのは 日ノ本とイスラム
イスラムのカリグラフィ(書道)
ペン あるいは竹のヘラのようなもので書く
『コーラン』なども一節ず書体を変える
でもイスラムの書 つねに正式を重んじる
しかし 日ノ本の書 「用意の書」
十分に準備した書も大事にするが
一方 「卒意{そつい}の書」
走り書きの手紙 メモ程度に書いたもの
その場に臨んで書いたもの
茶掛けでも大事にされる

碁でも将棋でも「場合の手」
卒意を受け入れる心
その卒意 仮に死とか 
親からの離別とか 決定的なことですら
場合の手として受け入れる
そういう心の準備があること

坂井三郎さん  論客対談で
特攻の命 突然受ける 
ハッとしたが すぐストーンと腹に落ちたという
これであろうか

【松岡氏→僕が一つ感じているいるには中世には「はか」という人生の単位があったんです。「はかがいく」とか、「はかばかしい」とか「はかどる」の「はか」ですね。
ようするにうまくいくこと、成功していく単位ですね。なのに中世の日本人はこれを
「はかなし」というふうに「はか」がない方にも美意識とか根拠を持てるようにしたんです。】

前田  その「はか」は「儚い」のはかですか
【松岡氏→「果」という字、結果の果です。果実です。その「はか」はみんなが持ちたいものなんですね。にもかかわらず、「はか」がいかない人を哀れむ、あるいは尊ぶ、褒める。こういうことをやるわけです。
この「はか」が一方でポジでありながら、ネガの「儚し」の方にもポジを持っていくというか、捨てないというところが、武士道の死とか、坂井さんの話にも表れるんだろうと思います。】
前田 仮の住み家というのが『葉隠』の思想的根拠ですし
それを逆手にとって だから命を惜しまず精一杯生きろと云っている

【松岡氏→僕はずっと日本というものを見ていて不思議だな、面白いなと思っているのは、その両極が常に同時に動いているということですね。たとえば王朝時代に「あはれ」という感覚があるわけです。もののあはれで、ものさびていたり荒れ果てていたり、ちっと本の装丁がほつれていたり、人の髪が乱れたり、ああ、あはれないい感じだなという。これは公家の世界の美意識でした。
ところが武家が出てくると、武家も公家の「あはれ」にあこがれるけど、そのまま真似すると平家のように奢れる者久しからずになってしまう。そこで「あはれ」という言葉を今度は破裂音を伴って「あっぱれ」というふうに言い直して使うんですね。そして「あわれ」に見える者を「あっぱれ」と褒めたたえるようにした。これが鎌倉武士の美学というものになるんです。】

−−−−−−★−−−−−−
鎌倉武士のエトス  「名こそ惜しけれ」
恥ずかしいことはするな
「あわれ」に弾みをつけた
「はか」がなくても 名を残せ
2024/05/14(火) 晴れ


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