HOME

アイコン
OLD NEW

一向一揆(一)


<敵対 服従 和平>の繰り返し
はじまりは 家康 二十歳のとき
三河一向一揆 
一向宗(浄土真宗)信徒が一揆 起こす

なぜ 信徒が一揆 起こしたか

家康の父・広忠の代
守護使不入の特権を与えられてゐた
課税 外部からの立ち入りを禁じる
守護使不入{しゅごしふにゅう}の特権
家康 これを「オヤジはもう古い」と
兵糧を無理やり徴収 寺にも警察権を行使

家康 やつぱり若かつた 歴史を知らなかつた
予測できなかつた家臣団の分裂 

三河守護家や地侍との古くからの 一向宗の固い結びつきを
本多正信/正重兄弟 蜂屋貞次 渡辺守綱 夏目吉信らら重臣
一向一揆に加担
それでも家康 踏ん張つて 一揆勢 ギブ・アップ寸前
一向宗側 蜂屋貞次を窓口に 和議を持ちかけてきた
「寺を焼き払ふことなく これまでどおりにしてください
また一揆を企ては者もお許しください」

家康 かう返答
「わかつた 和議を結ぼうとする者の命は助け 
寺も前のままにしておく
ただし 一揆を企ては者は処罰する」

一揆側からすれば 許される者 許されざる者 できる
和議 まとめること むずかしい
「私たち以外の者もお助けください」と食ひ下がる
和議は難攻
               
つづく
2023/03/02(木) 曇り


人の一生


家康 天下を掌握したあと
己の過去を振り返つて こう述懐したそうな
「わしは壮年から老年にゐたるまで
平坦な道ではなかつた
最初は駿河今川に服従して のち敵対
次に尾張織田に敵対したあと のち服従
甲斐武田と和平したあと敵対し
相模北條に敵対したあと和平
最後に豊臣に敵対し のち服従
国家統一 国家治平を図るため必要なことであつた」

後年 これを人生観とし
簡潔に書かれた『東照神君御遺言訓』
例の
【人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとき……
堪忍は無事長久の基{もとい} 怒りは敵{かたき}と思へ……
及ばざるは過ぎたることより優れり】

署名の下の花押 見る人が見れば 家康でない
内容だって家康らしくない
家康だつたら
「武門の一生は 敵対 服従 和平の繰り返し……」

要は 後世に作成されたもの
水戸光國(黄門)が書いた『人の戒め』をテキストに
明治維新の直後 旧幕臣・池田松之助が書いて
東照宮に奉納した

旧幕臣 明治勢府に江戸幕府 ボロクソに云はれ
初代家康公 こんな立派な将軍であつたと
一矢報いた

サラリーマンの一生 
「重荷を負うて遠き道を行くがごとき……」
2023/03/01(水) 晴れたり曇ったり


口は災ひのもと


付帯条件として
口頭での約束
「大阪城の外堀を埋める」

口約束ほど怖いものはない
簡単に破られるからだけでない
口約束してないのに
したとも云へるからだ

プーチン
NATОと米國
NATОは1インチも拡大しないと約束した
それを破つて拡大しつづけてゐる

NATОと米國 プーチンと口約束などしてなかつた
プーチン 家康の真似したのか

家康 使者と口約束などしてなかつた
豊臣方 そんな口約束してないと云ひ張つてゐる内
あつと云う間に 外堀 埋める
インチキ口約束 さらに破つて
内堀まで埋めた

豊臣方 怒り心頭 で 大阪夏の陣

外堀 内堀まで埋めさせる戦略
家康一人の考へか
ブレーンの入れ知恵か
いやいや 秀吉からの入れ知恵

天正十一年 大阪城 落成
秀吉 家康 前田利家 蒲生氏郷らと雑談中
秀吉 こんなこと口走つた
「この城 天下無双の城だ
幾十万の軍勢が攻めようとも落ちることはない
しかし 落とすには二つの方法がある
一つは兵糧が尽きるのを待つ
もう一つは
いったん和睦し その条件として掘を埋め
そのあと攻めることだ

家康 秀吉の二番目 採用
秀吉 草葉の陰で地団太踏んでゐたらう
大阪夏の陣で豊臣家 滅亡
2023/02/28(火) 晴れ


転んでもただでは起きぬ


「國家安康 君臣豊楽」
鐘銘 イチャモン
結果
家康から三つの案 どれか一つを選べ

一、秀頼を江戸に参勤させる
二、淀殿を人質として江戸に置く
三、秀頼が國替えに応じ大坂城を退去する

大阪 三つとも NО!
で 世に云ふ 大阪冬の陣となる

秀忠
<オヤジ もう歳ぢゃん 
われが総大将でいくだら>
家康
<あかん 総大将はわしだら>

との親子の会話があつたか なかつたか
家康 最後のトドメは己で仕上げたかつた

豊臣勢 牢人合はせ十万
家康勢 二十万

難攻不落 大阪城
二倍の軍勢での
大砲ぶっぱなしても 落とせなかつた

家康 和睦に持ち込む

出陣から二ヵ月後 和睦成立
和睦 条件
一、秀頼の領地 身分 変更ない
二、秀頼の母 淀殿 人質として江戸に移さない
三、籠城中の浪人 処罰しない

これでは 家康 なんのための出陣だった
豊臣方の勝ちではないか

家康 転んでもただでは起きなかつた
口頭で約束されたことがあつた

杉山サン
転んでもただでは起きない
と云はれたことあつた
云はれたとき
「???」
そんなシブトイ輩ではない

しくじったな と察したとき
瞬発的に動いた
動き方 ケースバイケース
とにかく 瞬発的に動いた

2023/02/27(月) 晴れ


権現{ごんげん}


以心崇伝{いしんすうでん}
天海{てんかい}
武門以外の
家康のブレーン(頭脳)

家康の遺言 「久能山へ 神として祀れ」
遺言にしたがい 久能山に祀ろうとしたが
神号 どうする

以心崇伝と天海 激論
天海 「山王一実{さんのういちじつ}神道によつて権現」
山王一実神道 天台宗延暦寺
以心崇伝 「唯一神道に従って明神{みようじん}とすべし」
唯一神道は 國家神道の伊勢神宮
それぞれ信仰する宗旨
要は
権現は <仮に現れる神>
明神は <日ノ本固有の神>

天海 最後に“切り札”出す
「豊国大明神(秀吉)を見よ 明神は不吉」
で決まり
翌年 後水尾天皇から「東照大権現」の神号

後世に名 残した
戰國大名
軍師 参謀 ブレーンといつた頭脳があつた
武田信玄→山本勘助
豊臣秀吉→黒田官兵衛
上杉景勝→直江兼続
秀吉/景勝→真田幸村
三人とも大河で脇役から主役になつた

NHKにブレーン いるか
2023/02/26(日) 晴れ


大阪城攻略の陰謀


陰謀も寝返り(うらぎり)も
また 人の世に常

関ヶ原の戰ひ おわつて 
家康 つぶやいたとか つぶやかなつたとか

家康 
七十三歳となる
おチビちゃんであつた秀頼 二十二歳
通常なら 死を考える歳となるが 
家康 陰謀考えていた
なんとか大阪城攻略の口実をつくらねば

家康 ある僧を呼ぶ
以心崇伝{いしんすうでん} 
またの名を金地院崇伝(こんちいん すうでん)
もう一人の僧も呼ぶ
天海{てんかい}

三人寄れば文殊の智慧
で起こしたのが
世に云ふ 「方広寺鐘銘事件」
鐘に刻まれた銘文「国家安康・君臣豊楽」

以心崇伝
「黒衣の宰相」の異名
起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された
江戸幕府 法律の立案・外交・宗教統制

天海 出目不詳
足利将軍落胤説
生き残った明智光秀説

方広寺鐘銘ばかりが家康のイチャモンとされるが
銘文の誤解を解くため駿河に派遣された使者に出した注文
一、大阪にて多くの牢人を召集していゐわけは
二、鐘銘棟札{むなふだ}が前例と違つてゐるわけは

一こそ 家康の大阪城攻略の序章であつた
二など どうでもよかつた
2023/02/25(土) 薄曇り


戰國武将のテミス像


関ケ原の戰ひ 日の本 二分する戦ひ 
たつたの 二時間で決着がついてしまふ
最大の因 
寝返り(裏切り)
周知のこと 

関ケ原の戰ひ 一次資料
十五日 亥刻(午前10時ごろ)
家康 関ヶ原に移動し 合戰に及ぶ
達政宗宛 家康書状 
午の刻(午前12時ごろ) 戰闘は終了
たつたの二時間ほど

関ケ原の戦ひ 一次資料わづか 二次資料数多
数多の二次資料にもない 寝返り

徳川秀忠 
信濃上田・真田昌幸 攻略後に関ヶ原への予定 
真田勢 頑張つて持ちこたへる
秀忠 関ヶ原の戰ひ 参戰できなかつた
家康 怒り
秀忠に対面 許さず

二次資料にもない寝返り 
風聞としておかう
家康と昌幸 密約できてゐた
東軍前線へ連絡 行きも帰りも 近道の上田城を通る
家康 秀忠 戰死させなたくなかつた

人は嘘をつく
自分を守る嘘 他人を欺く嘘 他人をかばう嘘
                (新参者)
家康 肉親をかばう嘘

人は なぜに味方から敵へ寝返る
見返り 天秤に計る
戰國武将のテミスの像
左手の天秤 
寝返りにの罪と武門の生き残り
武門の生き残りの方が重たかつた
2023/02/24(金) 曇り


休筆


天皇誕生日と云ふわけでないが
本日 休筆
2023/02/23(木) 晴れ


心理作戦


関ケ原の戰ひ の十六年前
天正十二年(1584)三月 
尾張 木牧{こまき}・長久手{ながくて}の戰ひ

信長 亡きあと のさばつてきた秀吉を叩くため
家康 信長の遺児・信雄{のぶかつ}を焚きつけ
起こした戰さ

家康勢 木牧山を占領したり
長久手の戰場では 
池田恒興{つねおき}ら秀吉勢の勇将を討ち取つた

ボンボン信雄 家康にのせられ参戦
ボンボン信雄 秀吉に懐柔され講和
戰さの大義名分失つた家康 三河へ帰る

秀吉 家康との講和がしたかつた
尾張 木牧{こまき}・長久手{ながくて}の戰ひ
家康の手強さに恐怖 抱く

翌年 秀吉の異父妹 旭姫を家康の正妻に
家康 返礼に次男・於義丸{およしまる) 秀吉の養子に
シャンシャンシャン 講和 成立

このあと
秀吉 家康に上洛 要請
上洛 つまり秀吉への“臣従”
家康 腰が痛いと 腰をあげようとしない
そこで 秀吉 旭姫訪問名目に
実母 大政所{おおまんどころ}を人質に
家康 腰も治つたと 上洛

このとき
家康 本多重次と井伊直弼に大政所 警護命じる
すると 重次 大政所の住居周り 薪を積み上げさせる
いつでも着火できるように
いつでも戰さできるとの警告 
秀吉を牽制させる心理作戦

後日 大政所を虐待したと 
秀吉 重次を殺害せよと命令してくる
家康 重次は病死したと報告
重次 ピンピンしてゐた
演出させさたの家康

バイデン キーウ 電撃訪問
プーチンへの いかなる心理作戦か
2023/02/22(水) 晴れ


つくり話


ベートーベン 交響曲第5番
♪ジャジャジャジャーン ジャジャジャジャーン
これは 運命が扉をたたく音
このエピソードから
「運命」の名が
コレ 秘書のつくり話だつたとサ

三成の家康襲撃も
“秘書”のつくり話だつたとサ

家康 
大名間や家臣の姻戚の斡旋&領地の取引
光秀 秀吉の遺命に反すると「詰問状」 
九人が賛成 反対一人=家康
このバックボーンがあり

その一
三成 家康の屋敷を襲撃する準備を整えてゐる
とのフェイクニュース流れる
伏見の家康にもとにも聞こへてきた

伏見の屋敷に周りに竹柵をむすび襲来に備へる
武断派の将 加藤清正 浅野幸長 福島正則 黒田長政
峰須賀家政 細川忠興 池田輝政 加藤嘉明 藤堂高虎
交代で屋敷の警戒に当たる

その二
家康が藤堂邸に泊まつたとき
小西行長 三成に いま藤堂邸を襲え 弓や鉄砲の数知れてゐる
そこに集まつてゐる諸将 意見マチマチ
行長 怒つて帰つてしまふ

この作り話 “秘書”
大名間の調停役 前田利家 没
息子・利長の出方 器量を見定めたかつた
天下分け目の戰ひ いつごろになるか 見定めたかつた

談余:
武断派→軍事仕事がメイン
文治派→机仕事がメイン
朝鮮出兵 文禄・慶長の役 
疲弊して帰還しても恩賞が正当に与へられず
しかも日本でノウノウとていた文治派に
政治の中心を取つて代わられてゐた
武断派 一挙に家康派になつた
2023/02/21(火) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


まぐまぐメールマガジン
機種依存文字 使用禁止 で

N−3SU
のU 使えず
M−3S2

ご勘弁を
 
2023/02/20(月) 晴れ


世話人


久能山へ登つた
長い石段を ヨンショ ヨイショ 昇つた
だけの記憶
小學生のころか

浜松の徳川美術館へ行つた
家族旅行 浜松のうなぎを食いにいつた
行きか 帰りか
徳川博物館へ

石田三成 遺刀 青江
澄んだ青 だけの記憶

五奉行
前田玄以六十歳 増田長盛五十四歳 浅野長政五十二歳
中束正家五十一歳 石田三成三十九歳
秀吉からもつとも信頼されてゐたが
石高も一番少なく 筆頭でもない 
五奉行の一人でしかなかつた

三成 十九万石
五大老の一人 家康 二百八十万石
その 小童{こわつぱ}
三成 豊臣家の敵
家康以外にないと 胎決めてゐた

ダントツ 前田利家
家康から なだめられることあつた
関ヶ原の戦いの八年前
聚楽亭 謡{うたひ}初めの式
着座 第一 秀次 第二 織田秀信
利家 「これはをかしい」
秀信 信長の孫 第一の座につくべきだと

秀吉 「云われることもつともだが
秀次はゆくゆく養子にして豊臣家を継がせようと思つてゐるので」
利家 納得せず 席を立たうとした
そのとき 家康
表向きと裏向きの策 提唱 巧くまとめる

秀吉と大名に間を しばしば仲介
秀吉から不興を蒙った大名の窮地を 仲に入り仲裁
伊達正宗 小早川秀秋 細川忠興 加藤清正 
福島正則 黒田長政 浅野長政ら

家康 「世話人」と評判に

家康 敵は誰かわからぬが
かならず 天下分け目の戰さある
と踏んでの世話役

小童{こわっぱ} 三成
わかつていた
2023/02/18(土) 晴れ


関ケ原


新幹線 車中アナウンス
「関ケ原を通過中です」
ここが あの関ケ原か……
車窓からの光景 
草だけの ただの殺風景
四十年前 NHK大河 「徳川家康」
より前のことだ

家康 いつから ここで
天下分け目の戰ひをすると 想定してたのか

秀吉 床に臥す身となり
秀吉のあと 誰が天下をとるか
大名たち 寄ると触ると四方山話{よもやまばなし}

ひとつ 耳を傾けよう
ダントツ 前田利家
北陸三ヵ国を領し 京までの道 邪魔する者はゐない
仮に西から毛利輝元が上洛しようとすれば
宇喜多秀家が抑へる
東から徳川家康が馳せ上がろうとしても
蒲生氏郷{うじさと}が箱根の山を一歩も越させない

もう ひとつ
関白秀次ではないか
あの愚か者に誰が従うものか
徳川家康はどうか
家臣に知行を過分に与へたりするほどの器量はない
前田家にはそれができる

やはり 前田利家 ダントツ

しかし秀吉
枕元に秀頼の傅役{でんやく}(おもり)の小出秀正を呼び
「わしの亡きあと 誰がわが國をびくとも動かないものにしてくれると思ふか
それは徳川殿の外にはゐないだらう……
幼少の秀頼をかつぎ上げて天下を取ろうと謀つても 
徳川殿と戰さをするようになれば わが豊臣の家は自ずと滅びる
もし豊臣の家を絶やさないように思つてくれるなら
徳川殿に よく従ひ よく仕へて 
秀頼のことを悪くされないよう取り計らつてくれ」

もうひとつ 相手は誰と誰だかはわからぬ
「わしがもし死んだら 誰が天下を治めると思ふか
思ふところありのままに申してみよ」
ある者は「前田利家でせう」
ある者が「毛利輝元でせう」
秀吉
「汝らの考へはもつともであるが
わしの見るところはこうだ
徳川家康より外に 天下を治める者はゐない
もし 万が一 家康にできなけれな 
石田治部小{じぶにしょう(三成)だらう
治部小は稀なる知恵の者である」

関ケ原の合戦 
三成が仕掛けてくるとは
家康 まだ予測していなかつた
予測していなかつたが
天下分け目の戰いは起ると確信してゐた
下準備 はじめてゐた

談余
『徳川実記』より
秀吉 病の床についてから家康を招{よ}んで
天下のことすべて内府(家康)にゆずると云つた
家康 自分は浅小少量で その器でないと辞退したと記してある

身内の『徳川実記』であるから全面的に信用できないが
秀吉 家康の実力のほど一番知つてゐた
周囲の反対を押切り
妹や母を送り 和睦を結んだほどである
2023/02/17(金) 晴れ


刄渡り


ジョージア人 主力とする
ウクライナ最大の外國人部隊
ジョージア人 70%
米國/欧州/アジア 30%
内 日ノ本人兵士 三人

さて 家康一行 
伊賀國にさしかかたところで
一行を待ち受けていた大部隊
伊賀の上忍 柘植三之助親子 家人 郎党を引きつれ
馳せ参じてきた

天正伊賀の乱 信長勢に追はれた者たち
家康に保護された
ドンが 御礼にまかり出た

また甲賀の地侍 
美濃部清州介{きよすのすけ} 武島大炊介{おおいのすけ}の二人
一族郎党 一〇〇名余り 連れ駆けつけてきた
両者とも 服部半蔵の手引きであらう

これで家康一行
家康手兵 一五〇名 20%
伊賀地侍 四〇〇名 53%
甲賀地侍 二〇〇名 26%

大部隊となつたこと知らずに
家康の首 狙つた野伏
入れ替わり たち替わり 襲つてきた
五日 一日だけで 数十回もあつた
みな そのつど死体を残して遁走
真夜中近くにもあつた
前衛や後衛あたりでひときわ激しい乱闘や
絶叫などあつたが 半刻あたりで静まる
それ以後 一行を妨げる野伏はゐなくなる

かくて鹿伏兎{かぶと}山峡を無事通過
翌六日 伊勢白子浜にたどり着く
ここに 伊勢の廻船問屋・角屋七郎次郎の持船
出航準備を整え 待機してゐた
地侍(忍者)の中 イチの俊足が伝えてゐたであらう
船はとどこおりなく 三河大浜に着いた
メデタシ メデタシ
伊賀越え 一巻のオワリ

『三河風土記』
家康の伊賀越え 生涯最大の危機と強調する
戦国大名 多しと云へ このような状況下
突然 放り出された者はゐない

本能寺の変 信長の死の影にあつて
家康の単なるエピソードとして扱われる
もし 野伏の手にかかっておれば
家康の伊賀越え 
日ノ本の歴史自体の刄渡りであつた
2023/02/16(木) 晴れ


柳生一族


家康一行を襲つた
野伏{のぶし/のぶせ}
多くの死体を残したまま 遁走

翌日 甲賀地侍 要は忍者 馳せ集まる
彼らに護衛され 波多野から高見峠を越え 
音斎{おさい}}峠に至る

ここから先が 伊賀國
地侍(忍者)工作のため先行してゐた
服部半蔵 出迎へる
茶屋四郎次郎から軍資金 たつぷり頂いてゐる
地侍 たつぷり貰つたことだらふ


いまの世の人 現在の地図をみると をかしい
それは鹿伏兎{かぶと}越えには 
わざわざ信楽から音斎峠を越えるより
木津からそのまま東へ直行し
現在の国道一六三号線に沿つて
伊賀上野から佐郡具を経て柘植に至るコースか
牧方まで行かず大和郡山から柳生
月ヶ瀬を経て國道二五号線を進んで柘植に出るコース
はるかに楽だ
この二つの街道 
当時から伊勢と大和を結ぶルートとして知られてゐる
なぜ このルートを使わなかつたか

それは 柳生一族がゐたからだ
柳生一族 石舟斎宗巌{むねよし}を頭{かしら}に
兵法の家と知られ
小さいながらも柳生の小盆地を守つて戰国の世 生き抜いてきた
変転つねなる政情に敏に 権力の所在を確かめ 
いち早く それに組することにあつた

石舟斎 どう出る
賭けるより 安全を選んだ
最終決定は家康だらふ

さう 「伊賀越え」休題 「柳生一族」だ

宗巌 若い頃から父・家巌とともに三好長慶や松永被災に仕へ
戰功を上げてた
のち織田信長に招かれ家臣に列なつたが
やがて病と称して柳生に帰り 剃髪して兵法に精進
宗巌 信長に何か危険な匂ひを嗅ぎ取つたか

宗巌の剣法修業 
師の戸田一刀斎 上泉伊勢守信綱は省く 
長くなるし 柳生一族の真骨頂は
兵法 生き残りの サバイバルの技術

家康の伊賀越え 石舟斎 知らなかつたはずはない
もし 柳生一族 総力上げて襲つたら
家康の首 上げること 難しいことではなかつたはず

石舟斎 なぜ仕掛けなかつたか
石舟斎 情勢を読んだ
明智のもとに結集する勢力 まだ全貌 つかめない
秀吉 宇喜多直家 前田利家 筒井順慶らの 動き はっきりしない
毛利輝元 長曾我部元親 島津義久ら
対信長勢力 光秀と結びついてゐるかどうかもわからない

家康を討つこと 誰に忠誠を示すことになるのか
はつきりしない以上 賭けでしかない
秀吉 家康が討たれれば 己にとつてめでたいことだが
建前上 柳生を許しておかないだろらう

石舟斎 家康の伊賀越え 横目で見ながら
一歩も動かなかつた

結果 やがて東西対決が到來すると
家康の背後を支えることになる

石舟斎 生き残りの術 見事であつた
家康 おのれの人生 最大に危機
石舟斎の情勢判断にかかつていること
おそらく 知つてゐたであろう

天下人になつてからの
柳生一族への待遇でわかる
2023/02/15(水) 晴れ


野武士


牧方{ひらかた}からは路を東に 
いよいよ伊賀越えの助走路
六月三日夜
長谷川秀一の手配により
大和國城上郡地侍 一行がサポート
木津川を渡り 地侍の屋敷で歓待される

四日 早朝 
長尾村を立ち 白江→老中→信楽までの行程
この日 初めて野武士に襲はれた
家康の
首が狙か定かでない
「この紋所が目に入らぬか!」との見栄切るのは 
まだまだ 先のこと

「伊賀越え」休題 「野武士」だ

らっぱ すっぱ 
彼らを野武士と呼んだなら怒るであらふ
主君 いるわけでもない 任務でもない
修練を積んだ技もない 単なる物取り
武士などと 名乗るな

「野武士」 どこの誰が つけたか知らぬが
元武士が山賊になつた例があつたのだらう

野伏{のぶし/のぶせ}
正式名と云へる

山野に寝起きして修行する僧 山伏も
さう呼ばれることもあるが
正式な野伏→武装農民グループ
武装農民のサイドビジネス
戰い敗れ 敗走し野山へ逃れてきた落武者を狙う
鍬/鎌を 鑓/刀に変え 待ち伏せする

サイドビジネスと云へ 物取りだけでない
田畑を荒らされた 
徴発された息子を合戦で死なせた
怨念がある

本願寺で信長を横死さた光秀
野伏にやられる
百姓ごときに
光秀 不人氣 プラスされる

いまの世の野伏
どこにいる 
SNSにウジャウジャいる
彼らの 彼女らの 怨念やいかに
2023/02/14(火) 晴れ


らっぱ すっぱ


市川雷蔵 「忍びの者」シリーズ
郷里の大映映画館で観た
高校生だつた
あのころ 遊びと云ったら映画しかなかつた

「忍者」との呼び名
どこの誰が つけたか知らぬが
時代小説 漫画に登場してくるようになり
一般に通じる名称 通り名{とおりな}となる

大映映画 「忍者」とせず「忍びの者」と洒落た
時代考証家が云つたのだらう
むかし「忍者」など言葉ない 
「忍びの者」との表記は残る
大抵は「らっぱ」「すっぱ」などと呼んだ
語源 なぜ さう呼ばれたか

「伊賀越え」休題 「忍者」だ

忍者の発生 
武士の発生に似ている 荘園制度への抵抗だ
豪族でなく 百姓の抵抗
荘園地主 公家 大寺院から「悪党」と呼ばれたのがルーツ

外人観光客からも人気 忍者の里
伊賀(三重県伊賀市)と甲賀(滋賀県甲賀市)
伊賀 三重県の北西部 甲賀 滋賀県の南端
山を隔てて隣接  地域間 約20〜30km
歩いて 半日

二つの里 京都に近い
速報ニュース 入りやすい
山に囲まれてゐるから 逆に内部情報は漏れにくい
諜報活動にもつてこい

小説や漫画 両者はライバル
実は「甲伊一国」と呼ばれる 密につながってゐた
婚姻関係もあり、頻繁に情報交換を行つてゐた

信長の次男坊 信勝の伊賀攻め 「天正伊賀の乱」
甲賀の忍者も一緒に戰つてゐた

伊賀/甲賀の里の男衆
午前中は農作業に従事
午後になると集まり 任務に備て鍛錬を積む

最大の使命 雇はれ人に
敵方の情報を集め 知らせる
なんとしても生きて 帰ること
極力 戰ひはを避ける

それは戰ひの技でなく
逃れる守備力を上げるための技
そのため
筋力や持久力を向上
運動能力を最大限に高めるための体の使ひ方
走るときの呼吸法 息を殺す呼吸法
自然 臨機応変に対応する柔軟な精神が身につく
火薬や薬などの知識も 逃げ延びるため

甲州以西 伊賀・甲賀などでは「すっぱ(素破)」
敵の情報「すっぱ抜く」から
伊賀・甲賀衆のプライド自称

関東では「らっぱ(乱波)」
『北条五代記』「乱波」→「その国々の地理に明るく 心の横道なる曲者」
人々の心を乱すからか

談余
家康 伊賀越えで「らっぱ」「すっぱ」の力を知り
江戸城のガードマンにした
他の大名もガードマンとして忍者を雇ふやうになつた
いまの世のガードマンのルーツ
忍者
2023/02/13(月) 雨


牧方{ひらかた}へ


ぽかぽか陽氣
♪さくらは まだかいな
とは云へ 週仲には また寒氣とか
寒暖差疲労にお氣おつけくだされ

さて 伊賀越え
堺脱出 準備にとりかかる
旅装束に身をかため 強飯{こわめし}に竹筒の水筒
さらに手槍百本 半弓二十帳 若干の兜
手兵(手勢)一五〇名の戦闘部隊 出來上がる

そのころ
京都へ行つてゐた石川数政 大久保忠隣{ただちか}帰つてくる
危急さしせまつてゐることを告げる
陽は すでに傾きはめじめてゐた

一五〇名の手兵 三隊にわけけ
家康を中心に囲み 康正が先鋒となる
秀一を道案内とし 粛々と堺を出發

牧方{ひらかた}までは
大阪中心部 避け いつたん東へ
藤井寺あたりから大和川を渡り 北上して八尾から
三輪{みのわ} 四条畷{しじょうなわて} 寝屋川をへて
牧方{ひらかた}へ

ここまでは京都へ向かう道のりだけに
家康を探して南下してくるであらう明智勢と
いつ出くわすとも限らない
家康一行 薄氷を踏む思ひであつたらう

明智光秀
本能寺へ攻め入る前 忍者(諜報員)を堺に放つておれば
この行程のどこかで家康は首を狩られてゐた
信長の代はりに三条河原で晒されてゐたらう
光秀には<服部半蔵>がゐなかつた

いまの日ノ本にも <服部半蔵>いない
スパイ防止法案 侃侃諤諤の前に スパイを放て
2023/02/12(日) 晴れ


岡目八目


「奇想天外な路はないか」  
家康の叫び
襖の外から聞いてゐた
長谷川藤五郎秀一{ひでかず}
信長の家臣 家康の接待役
飛び込んできた

秀一 けふ早朝 連絡のため京都へ
異変を知つて急ぎ立ち戻つてきてゐた
執事 云ふ
「長谷様 南山城 北摂津あたりの事情 お詳しいはず」
秀一 信長の中国地方進行の側面守備と
信長自身の京都進出のため警戒を兼ね
京都⇔大阪 往復してゐた

秀一 執事の筆を取る
広げられてゐる地図に筆を入れる
「ここが堺 道は北にとつて
まず牧方{ひらかた}へ出るのがよろしかろうと存ずる」

榊原康政 膝を進め
「伊賀越えは かの服部半蔵に策を講ずること
命じられてはいかがと存ずる」
「おう そうぢや」
直政 はたと膝を打つ
忠勝の顔 ぱっと明るくなる
忠次も 大きくうなづく
家康
「うむ 半蔵か よし あやつを呼べ」

服部半蔵保長{やすなが}
服部半蔵初代と数えられる服部半蔵保長
生国である伊賀を出て三河で松平清康・松平広忠に仕へる
以降 服部家は徳川家(松平家)の譜代家臣となる
代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主 
忍者だつたのは保長だけ

康政 半蔵に事態のあらましを話す

岡目八目 
「岡目」 脇から見る 第三者の立場で見ること
「八目」 八目も先の手が見えること
囲碁も将棋も 打つてゐる者同士は勝つことに必死
だが 傍観者は局面の全体を見渡す余裕があると云ふこと
外にいて冷静に観察してゐる人のほうが的確に判断できる
との喩へ

半蔵 いたから伊賀越え できた
2023/02/11(土) 晴れ


奇想天外


雪がふるふる 
雪 見ておれば
   (山頭火)

家康と四天王
半時ばかり
地図 見てゐる

堺から伊勢湾・白子浜まで
どう行くか

一、大阪から京都へ出て近江へ
関ケ原を越え尾張に入る路
途中 京都辺り 明智勢 占{し}めてゐる ダメだ

二、伊賀国を越え伊勢に出る路 
もつとも近いが 伊賀の國人 信長憎し
家康を黙つて通すわけはない ダメだ
家康の手勢百五十人程度 多勢に無勢 家康を守れない

三、海路 三河へ 時間がかかり過ぎる ダメだ
傘下に収めたばかりの駿河の國人 また武田の残党
どのように動き出すかわからない
また光秀に合力する武将たち 遠江/三河へ攻め込むやも知れぬ

時は命なり 急がねばならぬ
いつまでも 地図 見ててゐても詮無い

家康 指のたこを噛み
黙り込み 思考の底に沈み込んでいつた
して 云ひ放つた
「奇想天外な路はないか」  

奇想天外だからこそ 勝てる
信長公 さうだつた
明智殿も さうだつた
家康 指のたこを噛み 考へた

奇想天外と云えば
China 云ひ張る “気象観測気球”で想ひ出す
史上初めて大陸横断 風船爆弾
ほぼ無誘導 第二次世界大戦で用ゐられた兵器で
到達距離 最長であつた
2023/02/10(金) 雪


OLD NEW


Colorful Diary Falcon World