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海軍予備校生


表紙ウラ
前田日明が「武道通信」から連想する「この一枚」
六ノ巻からはじまった
六ノ巻 前田青邨{せいそん}・画 三浦大介{みうらのおおすけ}
七ノ巻 吉田松陰、最後の肖像画(松蔭神社・提供)
八ノ巻 真継不二夫・撮影
まつぎ ふじお/昭和17年、海軍特別報道班員として江田島の海軍兵学校に
滞在中、海軍予備校生、海兵団等を撮影。昭和59年逝去、享年81歳

写真 海軍予備校生だろう ちょっと俯いた顔アップ
錨マークの襟元カラー

真継不二夫氏の息女 杉山頴男事務所に連絡あり
地元の本屋では 数冊はなかなか手に入られないと
わざわざ国立まで来ていただき 駅前で手渡した

写真 東京のド真ん中あたりのビルの何階かだったか
複製を手に入れたのだろう
して ご遺族に掲載の承認を得たのだろう

【前田→彼らの顔を見ると、その目は現在、論じられている公と私というような問題をも内蔵しながらイデオロギーの入り込む隙のない、清明で気品に溢れている。何事もまっすぐに受け止める真摯な青年の気品がある。
元来、日本人が持っていた心証とは、そういうものだったはずだ。】

この青年 戦死したのだろか  特攻機に乗ったのだろうか
戦前とは なんだたろうか
思索にふけさせる 青年の顔

この写真 無銘刀(掲示板)にUPしたいが できない 旧式のせいか 
以前 週プロのほとんどジョークなど 知人どに頼んだが 
申し訳ないので 以後 止めた
年賀状だけは製作者に頼んでUPしてもらった

八ノ巻
【戦争論ってなんだ!】
巻頭対談  論客 坂井三郎

次回に
2024/03/13(水) 晴れ


仏教+神道+儒教+キリスト教


海の向こうの なんだか賞
「君たちはどう生きるか」
「ゴジラ−1.0」 受賞したそうだ
一等賞は
世界初の原子爆弾を開発 「原爆の父」物語だろう

−−−−−−★−−−−−−
新渡戸稲造 『武士道』
ごく簡単に要約するとこうなる

一、武士道は桜花と同じく日本の土地に咲いた固有の花である
二、武士道は騎士道よりも多くの含蓄をもっている
三、仏教は武士道に寄与し 神道がこれをさらに清潔に豊かにし
儒教がそれに道徳教義を加えた
四、武士道は日本人の叡智の獲得の手段である
五、武士道の義は正義を 勇は耐え忍ぶ精神を 
   仁は「武士の情け」としての哀れみを
   礼は丁重を 誠は卑怯を嫌うことを象徴する
六、西洋の個人主義は個々別々の利害を認めるが
   武士道ではメンバーの利害は一致する

しかし 武士道のいいとこを養育しる大宗教を欠いている
また その愛を欠いていた
キリスト教が それを補う力を持っている

仏教+神道+儒教+キリスト教
これが 新渡戸稲造の武士道だ

【松岡→このように新渡戸稲造は武士道を称揚した。この称揚にはかなり甘い見方も、歴史的にラフな点もある。が、ここで重視したいのはキリスト者こそが日本人の心情の根底を懸命に考察しようとした点である。また、その考察がたんなる研究でなく啓蒙にあった点である。そして、このような姿勢こそが、そもそもヘボン博士らによってもたらされた「日本人の霊性の啓蒙」を端緒としていたのあった。】

ここで止まったわけではない
新島襄に学んで平民主義を唱えた徳富蘇峰、救世軍の日本化を果たした山村軍平、
日本に進化論を導入した石川三四郎、ジャーリストとして活動した木下尚江、孤児救済を決断した石井十次、不良少年を引き受けた留岡幸助
その魂は継続されていった

【松岡→新渡戸と内村に一高時代に私淑して、のち『武士道』を翻訳した
矢内原忠雄は、自宅に土曜学校をおこしてキリスト教と日本人の共通生をさぐりつづけた後、敗戰直後には『日本精神と平和国家』としてまとめることになる二つの講演を通して、日本人の魂の行方を案じ、かつ訴えようとした。その講演の冒頭近くで矢内原が引いたのは、西行の次の歌だった。
 何事のおはしますかは知らねども 
 かたじけなさに涙こぼれる
しかしいまや、この矢内原忠雄の苦悩と訴求を受け継ぐ者は少なくなってしまった。
その苦悩と訴求は武士道が明治キリスト者たちの思案のよって復活したことが忘れられるとともに、忘れられていったのである。】

−−−−−−★−−−−−−
「忘れられていった者たちへ」の啓蒙書
二十年前 兵頭二十八
『軍学者の町人改造論 あたらしい武士道』

『葉隠』 山本常朝 曰く
「吉田兼好や西行は腰抜けであり卑怯者である
かれらはともに武士の家に生まれながら 武士としての働きに自信がないから
斜に構えて隠逸{いんいつ}者の風体のうちに身を隠しているのである」

西行を愛しんでいた歌のひと 常朝の二律背反である
この矛盾 こどから生まれたか
時代の裂け目 とでも云っておこう
2024/03/11(月) 晴れ


儒基両教論 仏基通底論


ガキのころ
「少年画報」「まんが王」「冒険王」
手にしていた
オレは「少年画報」 買ってもらう
他は近所のガキたちと 貸し 借り っこ

小学校のころ
学校の帰り道 貸し本屋で よく立ち讀みした
モノは記憶にないが 単行本だった

ウン年後
家に帰ると 子らが手にしていた漫画本 転がっていた
手にして パラパラと
なんだ これが オレが讀んでいた漫画か
大人が讀むもんではないか
「アラレちゃん」 手にしていた

−−−−−−★−−−−−−
<そのひとつが「武士道の自覚」として浮上したであった>
他は 儒教も 仏教も浮上していた

金森の著『日本現今のキリスト教ならび将来のキリスト教』
より五年もはやく出版されていた
小崎弘道 『政教新論』
儒教道徳とキリスト教の本質的つながりを説く
「儒基両教論」
上村正久『黒谷の上人』
法然や親鸞の信仰 キリスト教贖罪論に通じると説く
「仏基通底論」

小崎も上村も 儒教/仏教の限界も多く指摘しているが
日ノ本人が古来から親しんできた考えの奥にひそむ
心情を理解しようとしていた

この「儒基両教論」「仏基通底論」の背景に
内村鑑三 新渡戸稲造らによる武士道論が登場してくる
【松岡→武士道に欠けている「愛」をキリスト教が補うことをの有効性を高らかに宣言された。
内村は次のように書いた。
「われらは人生の大抵の問題は武士道をもって解決する。正直なること、高潔なること、約束を守ること、借金せざること、逃げる敵を逐わざること、人の窮境を見て喜ばざること、これらのことについて基督教を煩わすの必要はない。われらは先祖伝来の武士道によりこれらの問題を解決して誤らないのである。
しかしてこれに対する道に救うるところがない。しかしてこれらの重要なる問題に逢着して、われらは基督教の教示を仰がざるを得ないのである。】

この項 【明治キリスト者たちの発見】  最後 次回に
2024/03/09(土) 晴れ


俺たちは どう生きるか


信長時代キリスト教と 
大きな違い
明治時代のキリスト教
日本人の自覚をもちこんだ
松岡氏 云う

そして それは
近代日本の青年たちの情熱と苦悩とを
ふたつながら燃え上がらせるものだった
そこには 三つの世代が交差した

一つ
明治初期のキリスト教世代
まだ江戸の世 元治元年 米国へ密出国した新島襄
元治の次の慶応の二年 幕府の英国留学生監督として
留学生十二名を連れて渡英した中村正直

二つ
明治四年 開校 熊本洋学校
明治六年 横浜で開校 ブラウン塾 
明治八年 同志社英学校
明治九年 札幌農学校
などから洗礼を受け たちまち頭角をあらわした者たち
熊本バンド (宮川経輝ら三十四名)
横浜バンド (篠崎桂之助ら九名)
札幌バンド  内村鑑三  新渡戸稲造ら二十名

三つ
明治二十年代
新神学の影響を受けた世代
金森通倫 横井時雄ら
金森の著『日本現今のキリスト教ならび将来のキリスト教』
発売一週間で売り切れ

何部刷ったのかわからぬが
若者のジレンマ 心の飢えが キリスト教へ奔らせた

三つのバンドの彼らに共通しているのは
倒幕派に与しなかった藩の若者たち
「俺たちは どう生きるか」
【松岡→日本人の心に眠る道徳や論理を呼び覚ましたのである。そして、そのひとつが「武士道の自覚」として浮上したであった。】


−−−−−−★−−−−−−
葉隠 はじめて活字化されたのは
明治三十九年 小学教員 中村侑一 
中村氏
「俺は どう生きるか」と 問していたのやも知れぬ
それで
写本から <どう生きるか>の分部だけ書き抜きし活字して自費出版

拙者 二十六年前
俺は どう生きるか と自問
それで
「格闘技通信」 自費出版
2024/03/07(木) 晴れたり曇ったり


武道通信かわら版 配信日


日経平均株価4万円突破 とか
その昔 高校生であったか
どこかの将棋天才少年のように
新聞 讀むの好きだった

細かい数字ばかりの一頁
ナンダ コレ もったいない
記事を載せろ と腹立った

いまもって <株> 興味ない 関心ない

宝くじにも興味ない 
その昔 大学生であったか
喫茶店にポスター 貼ってあった
「詐欺だ」と胸中で怒った
2024/03/05(火) 晴れ


ヘボン博士


新渡戸稲造らが
武士道を発見できたのは
ヘボン式ローマ字 発案したヘボン博士
J・C・ヘップパーンがいたからかだ
と松岡氏 語る

八ノ巻
【明治キリスト者たちの発見
明治キリスト者こそが日本人の心情を懸命に考察し、
その思案から武士道の復活があったことが忘れさられている。】

安政六年(1859)一人の宣教師 来日
安政の大獄の翌年 開国へガラガラと音を立てはじめていた 
神奈川 成仏寺に無料の治療所 開く
幕府の役人から乞食までが連日行列 
行列ができる治療所

ローマでなく 神奈川のヘップパーン
アメリカ長老教会(プロテスタント) 医療宣教師
ヘボン博士 後年
日ノ本人の霊性を啓蒙した恩人と云われた
ローマ字の普及 キリスト教の啓蒙だけで
なぜヘボン博士が そう云われたのか

ここがわからないと近代日本の出発点も矛盾も
また長所も短所もわからない
と松岡氏 語る

明治七年(1874)キリスト教解禁
ヘボン博士 これを早々に予測し
さまざまな啓蒙の準備をしていた先駆けのひと
ヘボン博士が 日ノ本人の霊性を啓蒙した恩人となったのは
無料の治療所でもなく ローマ字の普及 福音を説くことでもなく
日ノ本人の性向 日本語の特徴の研究にとりかかったことだ

そう フカディオ・ハーン 小泉八雲もいた
ハーンの『知られぬ日本の面影』『神国日本』など
日本人が自覚していなかった心情 感性を詳細に言及している

ヘボン博士 ハーン以外にも 多くの外国人が注目した
ヨコハマの港で「YOUは何しにニッポンへ」ときいてみたら
「民衆のもつ心のやさしさ」
「盛んな知識欲」
「正直を敬愛するところ」
「恥辱や危害に過敏なところ」
「肉欲の罪に耽って恥じないところ」
「偶像崇拝に無関心なところ」
などを直に知りたくて と答えたろう

つづきは 次回に
2024/03/03(日) 晴れ


なぜ 武士道を発見したのか


誰もが知っていることだが 新渡戸稲造が
『Bushido:TheSoul of Japan』(邦訳:武士道)
書いたわけは 
遊学中 さる高名な法学者から
「Youの國の学校では 宗教教育をしないようだが
宗教なしにどのように道徳や倫理を教えているのか」
と尋ねられたからだ

松岡氏
日ノ本のキリスト者が武士道に加担したには
五つの要因があると云う
一つ
札幌農業学校や同志社をはじめとする教育活動にキリスト者が関わって
元武士の師弟の人間教育にあったこと
二つ
自由民権運動から婦人矯風{きょうふう}運動のような社会改良活動にかかわったこと
三つ
日清/日露戦争を挙国で推進するなかで 愛国的キリスト者が出現したこと
四つ
初期の社会主義の台頭が国家社会主義ふうの特色をもたらすのだが
そこに多くのキリスト者がまじって活動していたこと
五つ
当時のアメリカも社会的キリスト教や国家的キリスト教の力が大きかったこと
*松岡氏 この論 本にするとしたら二、三冊になると
 また「キリスト者」と。キリスト教徒と云わない わかる気がする

こうした近代日本の動向も知らなければならない が
そこが現代の日ノ本からは抜け落ちていると

新渡戸稲造が「どのように道徳や倫理を教えているのか」と問われ 考えた 
そうだ 少年もころ父母や大人たちから教わったこと
正直になること 高潔であること 寛大なること 勇気あること 礼なること 忠義なること
これだ! 武士の生き方だと気づいた


八ノ巻 同じく松岡氏
【明治キリスト者たちの発見】

−−−−−−★−−−−−−
明治維新の折 六歳だった新渡戸稲造 
当然 『葉隠』読んではいなかった
『葉隠』の武士の生き様 「死に狂ひ」などとは縁がない
江戸の世の末 朱子学色濃い 為政者として武士の生き方だ

もし 新渡戸 『葉隠』讀んだら どんな感想もったか
知りたいものである
2024/03/02(土) 曇り


キリスト者の武士道


山本定朝 「武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」
新渡戸稲造 「武士道と云うは、旧約聖書と見付けたり」
というハナシ

七ノ巻
【武道の中の日本<七>  松岡正剛
キリスト者の中の武士道
――近代日本のキリスト者たちは武士道を絶賛した。
神道、儒教、仏教を統合して日本化させた武士道こそが、
日本人の「旧約」であると。】

この前哨戦
松岡氏 語る
日本文化や日本精神をめぐる多くの論争に ある共通の問題がある 
一つ ろくすっぽ日本をしらない
二つ 先人たちが何を議論してきたかを継承していない
三つ 先人の成果を知らない

日本の保守思想の歴史を知らない
亀井勝一郎や保田興重郎が何を主張し
小林秀雄や福田恆存が何を思案したか
それらが保守主義とか反近代思想とよばれた理由も知らない
また最近の新保守主義といわれる西部邁も樋口覚も福田和也も讀んでいない

また これらの背景に 永井荷風の『新帰朝者日記』や
唐木順三の『現代史への試み』があることも
また 保守主義と歴史主義と国家主義とアジア主義は
つながっているところと はっきり袂を分かっていところがあることなど
ほとんど理解されていない

小林秀雄→福田恆存→西部邁
と進む矢印の意味が こんにちの伝統派に理解されているか
福田の「私たちの生き方や行為の基準は 必ず過去からやってくる」
の意味も
「保守思想は理想を語らない」の意味も
わかるはずがない

松岡氏 
西尾幹二『国民の歴史』 がっかりした
どこかの新聞の小さなコラムに書いていた

松岡氏
2000年から ネット配信「千夜千冊」 毎夜1冊ずつ批評
『国民の歴史』 1999年 発売
文庫上下 72万部ベストセラー
「千夜千冊」 『国民の歴史』素通り
<言語政治の醜さ>を避けたのか

長くなった
本題は次に
2024/02/29(木) 曇り


消えた……


連続企業爆破事件  死刑囚
獄中で病死
辞世の句となった一句
<捨てし世を未練と思ふ遠花火>

定朝の辞世の句 なんだったけ

きのうUPしようとした稿
保存せず消えた
消えたもの 再度 書き起こすの
かなりの気力がいる
明日 気力回復後 綴るとする
本日は これまで
2024/02/28(水) 晴れ


自由とは


■選択的夫婦別姓
法的に別姓で結婚できないのは 世界で日本だけ
選択的夫婦別姓 「賛成」「やや賛成」 83%

諸行無常−−<法にも常はない>
で むかしの人 バランスをとってきた
女紋 
妻 嫁いでも 嫁ぎ先の紋でもなく
実父の紋ではなく
母から 女系から女系へと伝えられてきたる紋
冠婚葬祭 女紋のついた紋付
いまの世の どうバランスとるのか

七ノ巻
【シュタイナー教育と吉田松陰
「飛ぶが如し」
吉田松陰が見せた生死の姿そのものが一個の強烈な「教育」となって
同志と弟子たちの胸に眠っていた自由の鐘を打った】

アメリカ大統領ウィルソンの云わんとするところ
あらゆる諸条件を検討し どんな環境にも適応できるようになってこそ
自由を実現できる
これに対し シュタイナー 真っ向から反論
私は ただひとことだけを云おう
このような環境への適応の正反対を行うときのみ
人間の自由が語れるということを

さて「賛成」の未婚の女子
あなたは ウィルソン派 シュタイナー派

−−−−−−★−−−−−−
『葉隠』 山本常朝 折々にふれて感興{かんきょう}(興味を感ずること。面白がること)のいたるままに語った語録  短いのは一行 二行
その一行
「(妻は)良人を君主のように思って仕えるべき」(一ノ三十一項)
その意味は
「忍ぶ恋」のような夫婦が良いということ
<私>を捨てた(常朝の)奉公道と同じ 相手に負担をかけない
自由なふたり
2024/02/25(日) 降ったりやんだり


両輪でバランス


■天皇陛下64歳誕生日
■刑務官ら使用 35の俗語を禁止
■島田事件 再審無罪 赤堀さん死去
■ホテルのゴミ箱から赤ちゃん 死亡
■宮台信司を懲戒免職処分 都立大
■はだか祭り 女性 着衣で初参加

吾ら いま どんな時代 生きているのか

−−−−−−★−−−−−−
【福田→明治時代というのは西洋化した時代なんですけど、同時に日本の歴史の中であんなに漢籍が読まれた時代なんですね。要するに漢文を書いたりしているんです。それから内藤湖南から宮崎市定{いちさだ}に至るような大支那学者がいっぱい誕生するわけです。明治期は両輪だった。それでバランスをとっていたと思うんですね。】

教室では「脱亜入欧」しか教えられてこなかった
海が開け 支那からも“輸入”していたんだ 漢籍をしこたま
このバランス いかに生まれたのか

【福田→明治ぐらいまでの人は、やはり前田さんがおっしゃるみたいな感じで東洋的なものを自分たちが見失いつつあることか、なくなってしまったということを非常に痛ましく思っていたし、その不安を感じていたと思うんです。】

そうか だからバランスをとったのか

【福田→漱石が書いているけど、自分は英文学を勉強したときに、最初、漢文みたいなもんだなと。で、これなら一生やるに値すると思ってやったら(漢文と)全然違う。漱石、騙されたって怒っているんですね。だから彼は、本当の自分の本質は漢詩にあると思っていましたね、漱石の漢詩というものはなかなかいい漢詩なんですね。それをずっと書きながら小説を書いていた。やはり両輪として明治世代まではあったんですね。】

吾ら 両輪 もっているか
吾らの来た道に
二輪の跡 轍{わだち} ついているか
2024/02/23(金) 降ったりやんだり


武道通信かわら版 配信日


時代劇映画 昨今 無慈悲で残忍なシーンが大うけらし が 
北野武監督「首」 興行収益 散々らしい
最近封切り「室町無頼」 いかがなものか
忙中閑あり 室町の世のこと一筆

世相を讀み解く プロフェショナル
世相 十把一絡げにできなくなったのではないか
個々が<顔>を持ち始めた昨今
2024/02/20(火) 晴れ


「天皇」止まりのナショナリズム


建国記念の日も過ぎ
天皇誕生日を迎える

天皇誕生日というものも 西洋風の<誕生日>の移植
明治からの天皇 西洋風の皇帝 とのハナシ

−−−−−−★−−−−−−
前田→脱亜入欧 天皇も同じで無理やり英国の王室に当てはめようとする
天皇は神道の最高神官 
福田→江藤淳の祖父 山本権兵衛の懐刀 祖父の遺品から大正天皇晩餐会招待状 なんて書いてあるかというと「日本帝国皇帝晩餐会」
やはりその皇帝の部分を取らないとまずい そこが問題
前田→天皇の声は祖先の声であり いろんなインスピレーションの源
福田→折口信夫 大嘗祭って何か 解き明かしていくと
天皇自身は神ではない 人間
人間だけど<天皇霊>が乗り遷{かわ}る  
天皇とはそれが乗り遷るメディア(媒体)であり 身体が死ぬと
また メディアは次の天皇に受け継がれていく
祖先霊の集合が天皇にずっと受け継がれていく
前田→福田さん 天皇抜きのナショナリズムということ云ってましたね
福田→天皇制の本質的な形 後鳥羽院の承久の変 以降の
権力と権威が分散される形の権威
近代以降 皇室が持ってきた蓄積したエネルギーをかなり放出してしまった
むかし「天皇」を「陛下」と人格化される部分もあったが
大御心{おおみごころ}というものがあって
大御心は皇室を超えるもので 八紘一宇{はっこういちう}といったとき
西洋人がいう天皇による世界制服でなく もっと大きい 日本的王道
天にそった道が実現される
これは北畠親房の『神皇正統記』
天皇が天意を実現するから天皇が正統
天皇を超える存在がある
近代の狭い捉え方でしてしまうと
結局 天皇止まりのナショナリズムになってしまう
ゆえにナショナリズムが狭いエゴイズムになってしまう

−−−−−−★−−−−−−
愛子内親王殿下 日本赤十字社に就職
ひらかれた 現代の皇室
2024/02/18(日) 晴れ


春一番


きのう 春一番
すごかった 風速12、3メートルはあったろう

一日置きとなった この日記
きのう 春一番のせいで忘れたわけではない
老人の新人賞狙いの
次作の構想はできあがったが
シメ トジが決まらぬ
考えあぐんでいた
シメ トジで 作品の充足度は決まる

老人の新人賞狙いと 先に記したが
市販されている自著 四冊 あった
で どこかの文学賞を狙うことにする

−−−−−−★−−−−−−
きのう
小川寛大さんから 自著
『池田大作と創価学会
 −−カリスマ亡き後の巨大宗教のゆくえ』(文春新書)
贈られてきた
2024/02/16(金) 晴れ


切腹


兵頭二十八 切腹に一言
【福田→兵頭二十八氏が言うには、切腹というものはものすごく合理的だったと言うんです。日本的な不立文字の論理の中だと。西洋的にこれが悪いと責任体系というものは貫徹できない。で結局、切腹という制度があって、何か不祥事がありました。じゃあ上役はパッと腹を切ますと。でもそれは、切腹ということでとりあえずそこで決着が着く。
 切腹というのは常になにかあったら、お家断絶、お家断絶はしなくても切腹というのが、かなり厳密な規範としてあるから、それが結局、規範になっていく。ところが近代以降、切腹ができなくなったんで、切腹の代わりになるような合理的な責任規範もないから、日本の組織が愚かなことになっちゃったというのが兵頭さんの説なんです。】

裏金づくりの責任追及ということをしていくと
「私は知らなかった」が通用する

戦国の世 籠城戦 もうこれまでというとき
「私が悪かった」 で 城主 切腹
で 家臣は放免というシキタリ
部下を守るのが主の美徳

籠城戦 戦闘部隊の家老のミスで敗れたとしても
城主 あれは家老が戦闘を強硬したからだ
ワシは責任 無いなどいわない

むかし 西洋 某国 敗戦
その皇帝 あれは部下がやったこと ワシは責任 無い
ダグラス・マッカーサー
昭和天皇 同じこと云うと思っていたら
「すべて私の責任」

切腹
儀式として制度化される前 
西洋の合理でなく
<理にかなった>心の作法としてあった
そのエートス/メンタリティー/アイデンティティ
生に未練を残さない 
残すと結果 敗ける 
戦国の世の武士の戦場での合理があった
それを いまに伝えるのが
『葉隠』の「武士道といふは 死ぬことと見付けたり」
定朝の父/祖父の言葉だ  
2024/02/13(火) 晴れ


不立文字{ふりゅうもんじ}


七ノ巻から兵頭二十八 登場する
【中学生にわかる「兵法」
其ノ一 「多対一」で勝つ
「兵法」の基本は「多対一」で必勝するパターンをまず学ぶこと。
中国人はそれを知ることで「少対多」で人を支配できたのだ】

奇しくも 論客対談で兵頭二十八 登場していた
【福田→僕がいろいろ教わってもらっている兵頭二十八氏という軍事評論家がいるんだけど、彼なんかやはり不立文字は駄目だというんです。不立文字でやっているうちは結局アメリカ的なバネスティクスの、完全にマニュアル化されていて誰か一人死んでも他の奴をパッと入れれば軍隊、組織的に全部動いていくというシステム、それでなければ絶対的に勝てないと。】

不立文字 この節に前に出てくる
『近代の超越』 小林秀雄/林房雄/中村光夫
どうすれば西洋に勝てるか
林房雄 ふたりに異論
やはり不立文字
個人の名誉 武士道みたいなものがあってはじめて戦える
西洋のものを入れてしまってそれだけで闘えるものではない

【福田→兵頭さんなんかそういう風におっしゃていて。それはたぶん合理的には正しいですよ。でもやっぱり日本人が不立文字をなくしちゃったら、じゃあ、ほんとうに闘えるの?っていうものがあると思うんですね。
 それは福田恆存先生が司馬遼太郎の『坂の上の雲』を批判した「乃木将軍と日露戦争」という有名な論文があるんです。その中で要するに司馬さんが乃木は馬鹿だ愚将だと攻撃するわけじゃないですか。でも司馬さん旅順に行ってらっしゃらないですね。福田恆存先生は戦前、旅順に行って、その旅順の要塞を見て来られた。
 僕もこの間、行って来たんですけど、もう洒落にはならないですよ。ロシア人は要塞を造らせると世界一というけど、この部屋(リングス事務所)の高さ位の厚さのコンクリートがガッン、ガッンと並んでいて、二百三高地というと、こういう勾配ですよ(と、手のひらほぼ50度傾斜にして示す)。
 ここを攻撃するのに合理性とかでなくて、そこにあるのは日本人の“近代西洋の壁”ですよね。それに渾身の力で闘っていかなければならなかった日本人の苦しさと、その意気というものがはやり大事なんで、それを合理性だけで叩いてしまっては、日本の近代が日本人にとってどういう時代だったか、近代に対してどういう風に対したかということが分からないではないか、という批判をしたんです。そこが難しいところですね。…………
 いやあ、とにかく普通に歩くのだってしんどいような勾配ですよ。この上から機関銃を撃たれながら登っていったのかと思うと、日本の兵隊さんっていうのは、すごかったんだという気になりますよね。】

次頁にまた兵頭二十八 登場
切腹というもの すごく合理的だった という話
これは 次に

−−−−−−★−−−−−−
『明治天皇と日露大戦争』 
昭和三十二年 封切り
拙者 小学六年生
祖母 映画館へ連れていってくれた
日本兵 かく闘った と男子の孫にみせたかったのだろう
2024/02/11(日) 晴れ


公と私は 天があっての公と私


【福田→やはり西南戦争を西郷と共に戦ったという気はするんですけどね。】
次ページに出てきた

【福田→松蔭の場合、いろいろな論議があると思うんだけど、たぶん松蔭が考えていた維新というには、具体的な近代国家とは全然違う意味だったと思ったんです。だから攘夷が来るということと藩自体が腐っていくという状況をまのあたりにしたときに、天にかなう行動とは何かということが一番最初の問いとしてあったと思うし、その確信があったから、ああいうことができたと思うんですよ。戦略論とか政策論とか以前の、もう身体一体の感覚として。で、その確信を説いたから若い人達にあれだけ強い影響力があったんで、やはり天というものの感覚は一番、大事だったかなと、この頃思うようになってきたんだけど。】

この節の前に ≪天≫を語っている
【福田→ここ二、三年、論語をちょこちょこ読んできて、公と私の話で僕が一番思ったのは、公私というものの他に大事な大きなもとして天というものがあるですよね。……天とは要するにユダヤ教みたいな絶対神ではなく、また森羅万象とか大宇宙というものでもない。でも東洋的な感覚からするときわめて大きなものとして天という一番大きなものがあって、それが我々の精神の広がりと呼応するように存在している。そう考えると、要するに天にかなえば心の不安はなくなるし、天に適うというのが正しい道だよというのがあって、で、公と私は天があっての公と私なんですよ。】

松陰の「近代国家」とは どんなイメージだったのだろう
建国の大儀 西洋に対して東洋の天の王道を貫くべきであったのに
西欧の帝国主義の模倣でしかなかったことへの憤りではなかったか
2024/02/09(金) 晴れ


<不平士族>


積もった雪 スケートしにいった箱根で はじめて見た 
中学の学友と雪合戦
十八歳 東京に出てきた年 はじめて雪 降るのを見た
二十三歳ごろ
東京 大雪降り 三十センチも積もった

武州多摩で二年ぶりに 雪 降るの見る
雪がふるふる雪見てをれば  ←傘貼り浪人
(山頭火 作 盗作)

−−−−−−★−−−−−−
七ノ巻 論客 福田和也
【松陰の行動原理は 天にかなう行動とは 何か? 】
編集部口上
吉田松陰の情熱の源から始まり、国学、英霊の遺骨収集、乃木将軍と二百三高地、皇室観、そして終着は現代若者論。話題は多岐に及んだが論客の博識が凝縮された各論に二時間半の対談は一刻であったような時空を味わった。

【福田→やはり西南戦争を西郷と共に戦ったという気はするんですけどね。】
最初の一頁目に出てきた
吉田松陰 寛政六年(1859) 没
西南戦争 十八年後
松陰 生きていたら 西南戦争に参戦していた 

当時 この一言 気にかけなかった のだろうか
なぜ 松陰 西郷と共に “不平士族”の“乱”に参戦したのか
もっと 「気がする」部分を 問うておきたかった 悔やまれる

明治七年(1874)佐賀の乱
二年後 神風連の乱(熊本)
同年 秋月の乱(山口)
して 翌年 西南戦争

<不平士族>の乱 その因
秩禄処分/廃刀令/征韓論
学校で教わった

<不平士族> コレ 勝者が歴史をつくる

<不平士族> との矮小化
勝者がつくった言葉
明治政府の要職 江藤新平/前原一誠
不平分子に担がれたとのハナシ
勝者がつくった歴史

讀み進めめれば
松陰 西南戦争
西郷と共に戦ったという気はする
そのわけ 福田氏 語っているやもしれぬ
2024/02/07(水) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


春先の木々への積雪
木々の“害虫”の卵を殺す
いいことだ
いまは亡き ご近所のご老人にお聞きしたいことがあった

天気予報 「湿雪」
積るだろうか
2024/02/05(月) 雷


香が移り沁むように


♪鬼はソト 福はウチ
最後にやったのは いつだったか
翌朝 豆が床に落ちていた記憶

旧暦では 大晦日
邪気を払う行事
そう 歳の数だけ食べるんだった
Chinanoの古い鬼追いの行事「追儺{ついな}」
日ノ本に伝わり 
♪鬼はソト 福はウチの豆まきのアレンジされた

■――――――――――――
「在日」は日本人の問題
薫習が生む独自性

 電話での長い会話は往々にして話の岐路が幾多にも分かれます。2時間近い小林氏との電話での会話も要約するのも至難な技であり、そして3時間ほど前の会話ですら文章にするとなると、自分が主張したことと、相手の話で特に印象に残ったことしかできないものです。しかし、肉声は身体から発せられます。語尾の余韻に、一時の沈黙に、驚きの声に、その人の長年蓄積された内的なものが感じられます。
 
 小林氏が現在、本来の仕事以外に「つくる会」のこと、著作権侵害訴訟での一審敗訴による控訴等の多忙の中にいることが、その肉声で十分伺い知れます。その最中、我々の“試し合い”を受けていただいたことへの、まず感謝の意を伝えました。
 そしてファックスには書かなかった、前田日明の肉声を伝えました。「日本人・前田日明という言葉は失礼だと思います」
 小林氏は驚きの声を挙げました。それは誤解であり、前田への率直な賞賛であったと。その内容をここで私が記憶を頼りに述べても、小林氏の真意を説明できるとは限らず、新たな誤解を生むことにもなりかねません。小林氏には別の機会に、ご自分で誤解を解いていただいた方が良いかと思い省きます。それゆえ小林氏の話されたことは省き、私が小林氏に伝えた内容のあらますを述べますが、下記のように流暢に話させたかどうかわかりませんし、言葉不足だったところは補足させていただきます。
「日本人・前田日明」に関して、「在日」の問題は、在日韓国、中国人、また他国の「在日」二世、三世の問題でなく、日本人のすべての問題であることの認識の希薄さから出た言葉ではないのか。
 日本の精神史を考えると中国、朝鮮の文化に影響されたことは明白である。「影響」には基本適に三つある。一つは朱に染まれば赤くなるという影響。二つ目はある意思を人が人に与える、刻印するというもの。中国、朝鮮が自分たちの文化を意図的に与えようとしたが、日本はそれを拒んだ、というような。
三つ目は前田が言う共感です。文化が薫習{くんじゅう}するんです。尊敬して受け入れること。当時の日本は中国、朝鮮を大変、尊敬していました。香りが染み込むように交流し、同じ香りが移っていく、そういう影響です。それゆえ、そこからオリジナルなものが生まれるのであって、「徹底して応用利用した」というような、はじめからこれはいらない、これは必要という選別してきたのではない、と。
 教育とは元来、そうであったのではないでしょうか。高杉晋作ら松下村塾の弟子たちは吉田松陰の薫習を受けたのです。
 そして最後に、この論争を言った、言わないの泥仕合的なものにぜす、将来、有意義なものであったと思えるものにするために、今回はお互い、主張するべきところは主張し、読者の意見にも耳を傾けることにしましょうと確認し合い、お互いに受話器を置いたのでした。
 我々は、当初より小林氏から大変良い刺激を受けています。氏が「つくる会」
に対し「私」として抱いている志に関して敬意を払っています。また西尾氏の諸説からも学ぶべきものは多々ありあす。小林氏のように多くの方々の胸を借り、今後も勉強していこうと思っています。
2024/02/03(土) 晴れ


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