■朱子学の最もいびつな部分
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もともと 支那の歴史哲学では 人民の向背{こうはい}(従ったりそむいたりすること)が 天の意思とする ゆえに 殷から周 周から奏 奏から漢 漢から隋 隋から唐 唐から宋と 漢民族の王朝が次から次へと交替するのも 「天=人民」がそれを望んだ結果であって 滅ぼされたしまった最後の帝王はすでに徳が失われていたのだ と解釈されてきた
しかし 宗朝が北方の蛮族である金に圧迫され南方に逗寒{ピンイン}し *逗寒→寒さを誘う 支那の詩歌に登場 日本語の辞書に無し 最後は南宋の皇帝とともに 元に滅亡させられる(1279)
さすがに「これが本当に人民の意志なのか?」 知識人は疑がざるを得なかった 宗の道義や礼教は漢民族の正統なのであり 金や元は正当性のない夷荻{いてき}だから そんな革命や放伐は受け入れるべきではない 知識人はと断固主張した
ところが日本では 君主が間違っていたとしても 臣下{しんか}はこれに忠でなければならないという 朱子学の最もいびつな部分(幕藩体制には最も都合の良かった部分) が強調され 定着した 徳川時代の末期には 朱子学的論理が庶民である戯作者にまで浸透し 勧善懲悪の超大作『南総里見八犬伝』を生み出す 「南総」とは「南宋」のシャレで 一度傾いた君国を七生報国思想で生まれ変わった義士が復興して メデタシとなる
著者の馬琴は 清国が英仏に侵されつつあるニュースに強い危機感を受けていた ちょうど 明が清に亡ぼされるとき 生きていた水戸光圀が 朱子学と太平記の思想で『大日本史』を集大成(これは孟子の造語)したのに 近い気分があったのだろう
しかし 江戸時代の朱子学の普及は 幕府の思惑とは裏腹に 学者たちを理屈屋に変えてしまった 支那でも日本でも 「義(正しいこと)」を理屈で考えようとするなら 古代支那語をもっと正確に研究して 孔子の最初のテキストの意味を再び採りなおすべきじゃないかと思うようになった となると 孟子や朱子学すらすべて批判の対象となる 日本では そこから「国学」が興る やがて支那よりも日本で先行するのだが その背景事情として やはり兵学者による「七書」(孫子を筆頭とする七大兵学古典)の読解と 江戸初l期の山崎闇斎{あんさい}が朱子学の異端だと称した 「武士道」の存在が大きかったと (現在の兵学者 兵頭二十八氏は云う)
−−−−−−★−−−−−− 武士道の「義」とは何か 理屈でも 知識や理論でもなく 身体性に根ざした 「生き様」「実践」
これに 気付いたのは 祖父/父の戦国武士の「義」と 朱子学の「義」の「義」の間で 悶々としていた山本常朝の聞き書きをした 田代陣基であった
2026/01/31(土)  |
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