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遺族の靖国神社 私物化


現在まで続いている「8・15と靖国の一致的強調」とは

東京裁判/マッカーサー憲法
大東亜戦争 日本の戦死者 全員 悪人
ゆえに 新憲法の政府
遺族年金も恩給も 支払う筋はない

しかし 一家の家族を失った遺族と 老齢の元軍人
戦後の食料難とインフレ 生きてはいけない
やむなく彼らは
「自分達は戦前政府の犠牲者だ」というポーズ
軍人恩給の復活運動を進めた

昭和47年ぐらいまでは 社頭での8・15の仰々しいイベントは抵抗
しかし 日本遺族会や旧帝国在郷軍人会/戦友会の何百万もの票をあてにした
政治家のパフォーマンスのせいで
次第に靖国と8・15とは大衆の意識上に重ねられ
国民の団結と国家の勝利を祈念し士気を高揚させる場だったものが
あたかも国家の「歴史反省」の場のようになっていった

日本遺族会の母体 昭和21年から翌年にかけ結成
その規約  第4条
「本連盟は………平和日本の建設に邁進すると共に 戦争防止と
世界恒久の平和の確立を期し 以って全人類の福祉に貢献することを目的とする」
早くもマック憲法の枠組み内で「犠牲者」「被害者」のスタンスに切り替えている

遺族会は昭和25年 参議院選全国区で大票田ぶりを発揮 
会長を当選させたが 恩給復活の法律は占領下であるためなかなかできない
そこで昭和26年2月 皇居に近い一ツ橋共立講堂で
「第一回全国遺族代表者大会」を開くなどアピールを重ねた結果
やっと昭和27年 遺族年金(年5万円)と弔尉金{ちょういきん}(十年国債)を
支給する通称 「遺族援護法」を成立
軍人恩給は7年ぶりに部分的復活

しかしいくら占領下とはいえ この7年間の政府の無為は
国民感情を致命的に不健全にした
このあたりから 遺族が靖国神社を私物化しようとする意図が露骨化していく
2026/02/22(日) 晴れ


本日は武道通信かわら版 配信日


“マッカーサー憲法”破棄
憲法改正
やっとこさ たどり着きそうだ

そのむかし  ビートたけし 
ツービート結成前後か
タクシー運転手アルバト
市ヶ谷へ向かっている途中
「三島由紀夫事件」のニュース

ビートたけし 後年
三島由紀夫の「檄」文
「これ憲法にしたらいい」
たしか 「新潮」で語っていた
讀んだ記憶
2026/02/20(金) 薄曇り


軍人恩給


1945年 敗戦
GHQ指令 翌年 軍人恩給 停止
軍人恩給
旧軍人が俸給から1%づつ積み立てていた年金
ある年数以上勤務した軍人 退職時月給の1/3 月々支給された

特に支那事変勃発後 戦地に1ヵ月いれば
平時に4ヵ月勤務したと同じように計算されて 受給資格 3年の内に
内地の景気もよかったことから
それによって優秀な兵隊が満期になっても
「こんな手厚い援護が得られるなら除隊せず 下士官になってずっと軍人でいようかと
思わせた

この軍人恩給 戦死した場合 遺族年金となる
たとえば二等兵で戦死し 死後二階級特進し 上等兵になった場合
一等兵の月給を基準に 遺族に年金が支給された

GHQ さすが傷痍軍人手当だけは残したが 
軍国主義の温床であったとして 打ち切った
当時 多くの人 たちまち家計に窮した

ここから 現在まで続いている「8・15と靖国の一致的強調」が
はじまることとなる

−−−−−−★−−−−−−
白装束の 片足のない
傷痍軍人 路上に立っていた
五、六歳だった拙者に 
祖母 小銭を掌にのせ
渡してこいと
白装束の傷痍軍人が手に持つ 箱に入れた
祖母
敗戦後も 軍国婦人であった
2026/02/18(水) 晴れ


帝国陸海軍の私物


靖国神社の意義上の混乱が始まった
その一つが 旧暦→新暦 
旧暦 太陰暦から太陽暦の切り替え(明治6年2月)
このときどうやら切り替え 計算ミス
鳥羽伏見開戦記念日/上野戦争勝利/会津降伏記念日
函館降伏記念日
さらに 明治10年 西南役平定記念日
こんがらかって 
明治12年「東京招魂社」が「靖国神社」と改名に合わせ
大祭は11月6日を重んじ 他の大祭は廃止 
さりながら一年一回では物足りないので
ちょうど 半年ずらして5月6日を新設 年二回に

軍学者 これに「お彼岸」の発想があると
春分/秋分 遠い彼岸の西方浄土

ところが この大祭日 またやも変更された
明治38年  
アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊で結ばれた
日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約
ポーツマス講和(9月5日) 以降

海軍凱旋観艦式(10月23日)
陸軍凱旋観兵式(4月30日)に
この 年二回に
昭和の終戦まで続く

たしかに幕末からロシアの巨大な驚異を
武士でなかった国民が将士となって退けた日露戦争
「攘夷」のビックイベントであることは疑いもない
であるが
攘夷は日本という国民国家に生命があるかぎり
永久に必要な運動
それは一度や二度の戦争で済むものではない

ゆえに軍学者 これに異を唱える
特定の戦役の勝利を記念した大祭日を当座に定めてしまったのは
いかにも不見識であった
靖国神社の大祭として永遠にすさわしくあり続けるのは
伏見開戦の日か
さもなくば正月元旦だと思えなくてならない

靖国神社は 明治45年をもって
国民国家の神社から
帝国陸海軍の私物の神社に逆戻りしていまった
国家指導者の歴史観が浅簿{せんぱく}になった

−−−−−−★−−−−−−
このたびの<早苗圧勝>
攘夷だと気付いている国家指導者 何人おるだろうか

『武道通信』創刊前夜
退社記念カードに こうメッセージした
「戦後半世紀
無抵抗にイエローヤンキー化した我ら日本人
己の心の身丈に合ったトポスを
見つけるための砦となるのが武道である
――『武道通信』創刊!」

一草莽の士の
「攘夷」宣言であった
2026/02/16(月) 晴れ


招魂


明治12年 東京招魂社 
靖国神社と名を改める
「維新政府の装置」から「日本国の装置」へ性質が変る
そして日露戦争を境に 戦死者は「英霊」と呼ばれる
藤田東湖『生気歌の詩』が出典

戦前/戦後 
合祀はあくまで
死者の霊を呼び寄せ 祀{まつ}ったり鎮める儀式
「招魂」であって
霊を慰め、冥福を祈る
「慰霊」の意味は薄かった
たとえば昭和12年11月18日 
支那事変 最初の戦没者慰霊祭
それは靖国神社 中心のイベントではなかった

東京招魂社 大祭日 当社 勤祭日といわれ
伏見で戊辰戦争の第弾が放たれた旧暦1月3日
上野の彰義隊が背走した5月15日
会津が降伏した9月23日
函館戦争が終わった5月18日

明治2年 
全国の官社や祝部〔はふりべ〕を支配する
神祇官{じんぎかん} 
この1月3日を「御一新の基」 大祭日とするを提案
しかし 政府 年一回では不満  同意しなかった
そこから靖国神社の意義上の混乱が始まった

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傘張り浪人 参議院選出馬の折
軍学者に連れられ 靖国神社へ
「勝ちます」と 
英霊の霊を呼び寄せ  誓う場であるから と
2026/02/14(土) 晴れ


遷都 江戸か 大阪か 薩長のいい分 


きのう  建国記念日
後年 2月9日 早苗記念日を呼ばれるか
そんなことナイカ

春に降る雪 木々に積もり 
葉を食い荒らす害虫
吸汁して樹勢を弱める害虫
幹に穴を開けるを害虫
らを凍死させてくれる

一方 小鳥たち 餌がなくなる
「一方を立てれば」 「あちらが立たず」

篤姫の母上 娘・於一{おかつ}に云う
「一方聞いて沙汰するな」
傘張り浪人 早苗に云う
「一方聞いて沙汰するな」

さて 靖国神社の興り

英/米/仏/オランダ 四国連合艦隊
下関海峡から長州藩(萩藩)を攻撃
馬関戦争
長州藩 その翌年
その戦死者を祀る場を現場近くに建設
これが慶應一年  長州藩の招魂社 第一号
「赤間関新招魂社」となって
以後 攘夷戦の死者 招魂社に分霊されるという習わしとなる

維新が達成された明治元年五月
寛永6年以降の志士の魂を京・都東山に祀っている
このときの勅嗣の主旨
「みをなげうち 皇国を挽回しようとした者をよみする
国家に大勤労あった者の名義を堙滅{いんめつ}させない」

明治元年六月二日 総監・有栖川宮 旧江戸城の西の丸大広間
上段の間に神座を設け 官軍戦没者のための招魂祭を執行
そして 明治二年二月 九段坂上に「東京招魂社」を設けた
これは翌三月に東京が正式に首都になるのに合わせた
(社殿の完成は明治五年)

その前に  ひと悶着
ここからは傘張り浪人の弁

薩摩藩  大阪を新首都にしたいと考えいて
その場合兵庫・湊川神社に靖国神社の機能を担わせるつもりだった
薩摩の大久保利通
江戸(東京)は旧幕府の力が強すぎる
新しい政府の体制(王政復古)を確立するには
幕府の色(武士の色)薄く 物流・経済の中心である大阪がふさわしいと
大阪を世界に開かれた商業・貿易都市として発展させ
近代国家の基盤とする狙い

片や長州藩は江戸
長州の木戸孝允
江戸 100万人の大都市
徳川幕府の主要な行政機関、施設(城)
インフラがそのまま活用できる
京の公家勢力 旧弊から脱却できる
伊藤博文
東北や北海道の鎮撫(ちんぶ)には東京のほうが地勢的に有利

明治二年 京都からの「行幸」の形で天皇が東京へ
そのまま定住する形となった
(正式に法律で首都を移す「遷都」ではなく 新しく都を定める「奠都」であった)

−−−−−−★−−−−−−
日本維新の会 『副首都構想』実現のため
大久保利通の像胴建てたら いかがかな
2026/02/12(木) 晴れ


雪景色 つわものどもの夢の跡


♪窓をあければ〜
 積雪がみえる〜

雪 積もっていた
ベランダの桟 6cm
電線 3cm

隣家の屋根に雪ふりつむ
向家{むかい}の屋根に雪ふりつむ
シンとした 静けさの朝

開票速報
騒々しい今晩
明日 未明
雪景色 つわものどもの夢の跡

−−−−−−★−−−−−−
祖父 脳梗塞で床に
祖母に
布団の上に地図を広げさせ
いま日本 どこまで攻め込んだかを
聞いていたそうな

真草や つわものどもの夢の跡
2026/02/08(日) 晴れ


靖国神社の原型 その心


「日本史は 開国と攘夷でだけで説明できてしまう」
『神武の精神』 の佐藤堅司 曰く
幕末から明治末にかけて
攘夷と開国どちらにも対応できそううな宗教は神道だけ
それは倒幕に都合よく また維新政府の天皇制の普及にも都合がよく
さらに未曾有の対外国戦争全国を団結させるあtめにも都合がよかったと
軍学者 考える

対米開戦直後 つくられた 『進め一億火の玉だ』
その二番 「靖国神社のおん前に 柏手打ってぬかづけば
父子兄弟らが 今頼むと声がする」
誰にでも説得的であったのではないかと 
軍学者 考える

靖国神社の原型
幕末の長州藩内 開国が攘夷で大きく割れようとしていた
そこで藩主毛利敬親 宗教行事によって君臣の結び付を再強化しようと考えた
(村上重良『慰霊と鎮魂』)

まず 藩史上の忠烈の臣を対象に 
毛利氏菩提寺(臨済宗)で仏式供養を行ったのが1851年 
つづいて 忠義の戦死者すべてを過去帳に載せ例祭日も定めた
その二年後の(ペリー来航の年)には 
こんどは神式にて忠死者 戦没者の招魂祭が行われた

軍学者 思うに
骨を納め 死者の直接供養をするのは江戸時代では寺でなければならいが
その仏式供養をいくら盛大にやっても 
藩主の臣下を思う気持は下々にも伝わるかもしれないが 
臣下庶民の気持ちが盛り上がってくるかといえば そんなに効果は期待できなかった
そこで君臣が一体となって気勢を高め団結心を固められるような祭式を欲する
のであれば 
やはり 死より生に向いた神式でなければいかんと
これは自然に考えられたのではないでしょか

−−−−−−★−−−−−−
傘張り浪人 思うに
衆議院選 この高市ブーム
政府と国民が一体となって 
気勢を高め団結心を固めようと欲していると
考えられるのではないでしょか
2026/02/06(金) 晴れ


明日は武道通信かわら版 配信日


忙中閑あり ……杉山頴男
今号 強弓のもののふの話だ
『太平記』からの抜粋がある
一月二十九日付け 兵頭二十八氏
『平家物語』 『太平記』を比べている

拙者の比較はこうだ
『平家物語』  貴族の理念の物語
『太平記』  武士の理念の物語

元和偃武で 戦{いくさ}できなくなった武士たち
 『太平記』 が唯一の憂さ晴らしであった
そして それが
幕末 エネルギーとなって爆発
2026/02/04(水) 晴れ


判官贔屓


月が替わり二月となる
旧暦の正月 この二月の中旬である
旧暦と云えば
「ときは元禄十五年十二月十四日…………」
赤穂浪士討ち入りの日

旧暦 十二月十四日 
いまの世の新暦で云えば 
一昨日の31日であった
江戸の町 雪が振る時期であったが
あの日の夜 月がでていた
雪が降っていた方が 臨場感は高まる 絵になる
脚本家 雪を降らせた 
それはともかく

赤穂事件 朱子学界を二分させた
大義名分論(君臣義あり)でYesするか
幕府の秩序を乱す私闘ということでNoとするか
朱子学が掲げる「忠」と
社会秩序の「和」のどちらを重視するか
朱子学界を揺るがす論争を巻き起こす

庶民の江戸っ子
難しいことは分からない
判官贔屓で赤穂浪士を応援した

衆議院選も後半に突入
各党の公約 
多くの国民  信じていない
さて 判官贔屓 どこへ流れるか
2026/02/02(月) 晴れ


朱子学の最もいびつな部分


もともと 支那の歴史哲学では
人民の向背{こうはい}(従ったりそむいたりすること)が
天の意思とする
ゆえに 殷から周 周から奏 奏から漢 漢から隋
隋から唐 唐から宋と
漢民族の王朝が次から次へと交替するのも
「天=人民」がそれを望んだ結果であって
滅ぼされたしまった最後の帝王はすでに徳が失われていたのだ
と解釈されてきた

しかし 宗朝が北方の蛮族である金に圧迫され南方に逗寒{ピンイン}し
*逗寒→寒さを誘う 支那の詩歌に登場 日本語の辞書に無し 
最後は南宋の皇帝とともに 元に滅亡させられる(1279)

さすがに「これが本当に人民の意志なのか?」
知識人は疑がざるを得なかった
宗の道義や礼教は漢民族の正統なのであり
金や元は正当性のない夷荻{いてき}だから 
そんな革命や放伐は受け入れるべきではない 知識人はと断固主張した

ところが日本では 君主が間違っていたとしても
臣下{しんか}はこれに忠でなければならないという 
朱子学の最もいびつな部分(幕藩体制には最も都合の良かった部分)
が強調され 定着した
徳川時代の末期には 朱子学的論理が庶民である戯作者にまで浸透し
勧善懲悪の超大作『南総里見八犬伝』を生み出す
「南総」とは「南宋」のシャレで 一度傾いた君国を七生報国思想で生まれ変わった義士が復興して メデタシとなる

著者の馬琴は 清国が英仏に侵されつつあるニュースに強い危機感を受けていた
ちょうど 明が清に亡ぼされるとき 生きていた水戸光圀が
朱子学と太平記の思想で『大日本史』を集大成(これは孟子の造語)したのに 近い気分があったのだろう

しかし 江戸時代の朱子学の普及は 幕府の思惑とは裏腹に 
学者たちを理屈屋に変えてしまった
支那でも日本でも 「義(正しいこと)」を理屈で考えようとするなら
古代支那語をもっと正確に研究して 
孔子の最初のテキストの意味を再び採りなおすべきじゃないかと思うようになった
となると 孟子や朱子学すらすべて批判の対象となる
日本では そこから「国学」が興る
やがて支那よりも日本で先行するのだが その背景事情として
やはり兵学者による「七書」(孫子を筆頭とする七大兵学古典)の読解と 
江戸初l期の山崎闇斎{あんさい}が朱子学の異端だと称した
「武士道」の存在が大きかったと
(現在の兵学者 兵頭二十八氏は云う)

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武士道の「義」とは何か
理屈でも 知識や理論でもなく
身体性に根ざした 「生き様」「実践」

これに 気付いたのは 
祖父/父の戦国武士の「義」と
朱子学の「義」の「義」の間で
悶々としていた山本常朝の聞き書きをした
田代陣基であった
2026/01/31(土) 晴れ


大義名分


シャカと孔子 どっちが古い人か
インド側の文献が不足しているため よくわからない
しかし 日本に入ってきたのは まちがいなく 
孔子さんの儒教が先

その証拠の一つ
聖徳太子 十七条憲法
「以和為貴{わをもってとうとしとなす}」
論語に「礼之用 和為貴」とある
これを参考にしている 

支那では 
道教は貧民のもの
仏教はブルジュア
貧民 肉食禁止など庶民が守るわけない
儒教は政治家 帝王の特権階級ものだが
徳(徳治主義)と秩序(礼)で統治する
儒教の理想を皇帝の権力と結びつけた
中国の統治構造その代わり 
常に社会全体をどうしようかと考えていたのは 儒教だけ

日本の朝廷 まず儒教を学ばなければと思ったのは当然
仏教は個人救済色が強く
道教になると これはもう明白な「反政府」

歴代の天皇の名に多く「仁」がつく  もちろん儒教の影響
最初に用いたのは清和天皇 諱は惟仁{これひと}
藤原氏の天下になったのだから 天皇家はおとなしくくしていよう
という意味が込められていたのではないか
南朝の天皇が一人も「仁」を使わなかったのは
「臣下の言うなりにはなんらない」との気概かもしれぬ

さて 同じ軍記物でも『平家物語』と『太平記』とでは調子がガラリと変る
『平家物語』が長編詩のようであるに比べ 
『太平記』は とにかく小理屈が頻繁に出て 文学というよりは論文である
ただ 大儀に殉じる楠父子のキャラクターの強烈さ
理屈とリズムがタッグを組んでいる格好良さでは
新しい時代の「講談」に先駆けとなった

『太平記』が理屈が多いのは 
南北朝時代に大陸から朱子学が流入したからだ
朱子学は宗代に140年くらいかかって形成された儒学の一派で
「大義名分」を唱えた

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衆議院解散
「大義名分」が無い と野党
総理
「高市早苗が総理で良いのかどうか」と解散の大義と
この大儀に野党  更に批判轟々

南北朝時代に大陸からきた朱子学
いまの世の国会でも ハバを効かせている
2026/01/29(木) 晴れ


神は ホトケの弟子


ホトケに武運を祈る 武家以前 朝廷周辺から始まる
蘇我馬子 早くも西暦584年 百済仏(石仏)を本尊として自宅の庭に仏殿

仏教を日本全人民の頭の中に入り込ませたのが
本地垂迹説{ほんじすいじゃくせつ}
神はホトケの弟子

たとえば「八幡大菩薩」 
仏(如来)は悟りを完全に完成させた存在
菩薩は悟りを開くことを目指して修行中の存在であるため、
悟りの深さは仏(如来)の方が深いの「菩薩」 ホトケより悟りが浅い
平安時代から鎌倉時代にかけて広まる

話を元に戻し
西暦585年 馬子 政界のライバル 物部氏を攻め滅ぼす
そのとき馬子は同盟した厩戸王子(聖徳太子)は木から四天王像をつくり 
「今若し我をして敵に勝たしめば当に護世四王の為に寺塔を起立し奉るべし」
と誓う
日本でホトケに「武運」を祈願した最初の記録

天武天皇(大海人皇子) 
壬申の乱で勝利 自身が神と同一視されるまでに豪族間で権威を高める
にも関わらず 落飾{らくしょく}(髪を落とす)入道した最初の天皇は天武天皇
このあたりから 天皇が官寺を建てさせ 死なせた敵人の怨霊が暴れないように
祭ることが ごく普通になる
朝廷の武運長久は 仏寺に勅願される

そして庶民には 新しくやってきた仏法の理念で統治するから
いいんだ 偉いんだと思わせた
「鎮護国家」とは 
こうした祭政一致の精神をひっくるめて表す言葉
奈良の東大寺のような やたら巨大な堂字や高塔は
視覚によって政敵や庶民を威圧しとようとしたものだ

平安時代 政治闘争を反映して「勝」の字が付く寺が競って建てられた
「自分を勝たせたまえ」と祈ることに他ならない
南北朝に足利尊氏と直義が全国に建てた安国寺や利生塔
それから室町時代の義満が建てた相国寺は不特定多数の戦死者を弔う施設
死者の霊を慰め 供養するのは 骨が埋葬されている寺であって神社ではない
その寺の名は「俺が日本の政治を仕切り日本国の平和を維持する」と同時に
無名戦死者にも同情しているぞと宣伝していた

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本地垂迹説
誰が最初に考え出したのか
日本人の宗教観の柔軟さと云えば
恰好はつくが…………

古代の人々は、なぜ死者を埋めたのだろうか
その理由 まだ完全にはわかっていないが
腐敗を本能的に嫌う
腐敗した死体 病原菌や害虫を媒介する可能性がある
人々は死体を埋めて
これらの危険から身を守ろうとしたのかもしれない

兵頭二十八氏の論法 推し進めれば
死を「穢れ」と捉え 神聖な神社の敷地内に持ち込まない神社
しかし 埋葬する墓 寺にある
本地垂迹説 ここからではないか?
拙者の推論


2026 衆議院解散総選挙
その結果に推論は まだ
2026/01/27(火) 晴れ


武家が神の前で誓うのは


狩猟や戦闘で死を日常風物としていた 東北人
京都人の陰陽五行思想を信じても 何のご利益はない
源頼朝  東国(坂東)武士
五行思想の枠外で生きているという印象をことさら京都人に印象づけて
彼らに畏怖の念を起こさせようと図った

室田泰一 『鎌倉武士の精神』
源頼朝 法華経(天台宗)を信奉
石橋山合戦でも観音像と法華経念珠(数珠)を帯びていたが
日とか方位の縁起をかつぐことはなかった
(三代実朝になると公家と同じ迷信にハマる)

この頼朝や北条氏が持っていた武家の合理精神が受け継がれてかなかったら
日本が江戸時代に「近代」を準備することは到底難しいかった
しかし 武家の棟梁が 自分の死だけでなく 
一族や国家の未来の命運と常時向き合っているならば
あながち神仏祈願を捨て去ることはできない

頼朝 地元の鶴岡八幡宮に命じて
法華/仁王/最勝王などの鎮護国家の三部の経典
大般若経/観音経/薬師経/寿命経など片っ端から読誦させている
地元を離れれば 伊勢 鶴岡 鹿島 熱田 加茂別雷社などの神社に参拝を重ねる

これは神に救済を求めるのでなく 神の前で誓う 
すなわち戦闘者兼為政者としての決意を固める儀式だった
実朝の「おすがり信仰」とも無論異なる

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織田信長 桶狭間の戦いの直前
熱田神宮へ立ち寄り
今川義元の大軍を相手に必勝祈願と 
よく記されているが
コレ おすがり信仰ではなく
神の前で 必ず勝ちます と誓ったのだ

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神道 肉食 少しも忌む  不吉 穢れたことではなかった
これが平安時代 突如 京都で禁止された
人民の間であまりにも優勢である原始宗教と
それをバックにした反仏教の政治勢力を 寺院が弾圧するための政略
と唱える学者もいるが
支那の道教  長生きのため肉食はしない方が良い
としていたことも無視できない

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「近代」を準備することができなかった支那
ゆえに 日清戦争 敗北
この屈辱の心的障害(トラウマ)
いまの習近平支那共産党にも連綿と
これが「反日」の根元
2026/01/25(日) 晴れ


「ミソギ」


「ヒ(おひさま)」信仰以外
日本の土着文化として
「清浄潔斎{しょうじょうけっさい}」思想
<儀式の前 酒や肉食を断ち 沐浴{もくよく}心身を清めけがれを払うこ>

沐浴にはうってつけ 
日本の面積あたり 年間降水量 熱帯でない国として世界最多
しかも日本人は他の国と違って 森林の伐採を戒めてきた
おかげで支那のようなハゲ山の国にならず済んだ
支那の川は黄河も揚子江も泥が混じってひどい濁り水
病原菌 うじょうじょ 沸かさねければ飲めない
日本では雨がいったん地下水となって川になるために 陸水が清流
さらに日本の土地の斜面は急。島国で流路も短い
川に一時的にゴミや微生物が混入しても すぐ海に流され
ずぐに元の そのまま飲める清流に戻る

ここから
「ミソギ」「ハラエ」という発想が自然に生まれた
人も川で身を洗えば病気や悪いことは全部水が流してくれる
石器時代から考えていた
大和朝廷が何度の遷都しているのも 
人口密度による 水n穢れからくる
ミソギの発想からかもしれない

−−−−−−★−−−−−−
ローマ時代 浴場「テルマエ」
大きな人口が一箇所に密集すると
風呂の水はなかなか交換されず
下水が上水に混入して衛生が悪化
貴族までもが流行病にさらされることになった

ガンジス川での沐浴(スナン)
ヒンドゥー教徒にとって過去の罪を浄化し
魂を清める最も重要な宗教儀式
が 水質汚染が深刻 不衛生極まりない

国立市水道水
利根川・荒川水系(東村山浄水場など)の補給水と
市内の地下水(深層地下水)を組み合わせて供給されている
地下水が約5〜6割を占める時期もあるものの
地下水は硬度が高くカルシウム・マグネシウムが多い特徴があり
都からの補給水と合わせて
水質検査を年4回実施水質は常に水道法基準を満たしている
さあ きょうは 国立 水道水の湯につかろう
2026/01/23(金) 晴れ


<道教>に気をつけろ


大昔 原始の世…………
男たちの出陣 必勝祈願
「祖先の霊」 「自然の霊」に捧げた
『日本書紀』  神功{じんぐう皇后渡海征伐のとき
「東に神の国あり日本といふ…………必ずその国の神兵とならん」
半島の敵国人が降伏してきた(文献上「神国」の初出{しょしつ})

いつの頃から 他国には無い日本だけの国教としての
神が信じられるようになる

そこへ 仏教と偶像が持ち込まれる 6世紀
日本と朝鮮半島の間には 税関もビザもなく 誰っでも行きたいとき行ける
人事交流関係ができていた

この仏像という彫刻品  インドで創始されたものではない
シャカ入滅後 何百年も経ってから いまのアフガニスタンあたりで
西から来たギリシャ造形美術の影響を受けて そこで製作された

そのモロにアーリア人顔の仏像が「端厳{たんげん}」なのに驚いた天皇
これを礼すべきや と有力族長たちに詰問
蘇我氏 「この新思想 自分の権力のため利用できるな」 と導入に賛成
物部氏と中臣連鎌子 権力のある蘇我氏に宗教権威まで与えたら
天皇家は乗っ取られると懸念
「異国の宗教は<国の神>が怒るからダメ」と反対
『日本書紀』に書き残されている
西暦553年前後のこと

この<国の神>とは 基本的に先祖信仰
しかし、注意せねばならぬことは
当時の有力豪族の大半は支那大陸に親戚や知り合いを持っていた
そのため既に日本の土着信仰の中にも道教の影響が及んでいた

黒坂勝美博士らによれば
『日本書記』『古事記』の劈頭部分には
もともと大昔の日本人が思い付いたはずもないような神話が書かれている
たとえば 男女の神様が国を産む
そのさいに 男の神様が柱の周りを右に回るか 左に回るか
あるいは 男女のどちらかが先に声をかけるかが問題となっているが
これは 右または女を陰とし 左または男を陽とする
道教の考え方
大昔の日本人は 右とか左のどちらが先に----
なんてことはどうっでもよく 悩まなかったはず

こうした陰陽思想だけでなく 「十干{じゆっかん}」とか「方位占い」も
みんな道教がルーツ
そして「五箇条」「五十塔」「五輪(塔)」「五常」「五色」----のように 
明治15年の『軍事勅諭』にまで影響を与えている数字の「五」の重視も
儒教や密教に混ざって入ってきた道教式「五行」の思想

道教 支那の六朝時代(西暦3〜4世紀)
大陸の民間に普及 それが大和朝廷が漢字を使って史書をまとめようとする時期にあたっていたので 日本の神話に余計な陰陽説が混入してきた
仏教よ り遥か遅れて成立した道教が
仏教以上に道教が盛行したのはなぜか?
仏教と違って露骨に長生きを願う世俗性に加え
庶民のアタマでなんとなく理解できてしまうレベルの似非科学性が
とても魅力的であった

原始時代の日本人 ただ「ヒ(おひさま)」からすべてがはじまると思っていた
伊勢神宮の「天照大神」が その人格化
*「太陽」→陰陽思想にの名称 「月」は太陰

原始時代の日本人に おてんとう様より以前の話は無い
そんな世界を考えない民族だった

口承伝説は人々が認めたストーリーしか後代に伝わりませんから
筆記史よりも古代人の考え方を推測する手がかりとして重宝だった
書き文字史料は たった一人の筆記者による意図的でいいかげんな書き加えがあっても後世まで遺る場合がある

どうも記紀に出てくる天照大神より以前の登場人物は
ずべて支那の道教思想の影響下に
渡来人が付け足したでっち上げだ

−−−−−−★−−−−−−
衆議院解散  で この選挙
与党・野党対決など関係ない
日ノ本人の
<嫌悪支那>度合が試される
2026/01/21(水) 薄曇り


明日は武道通信かわら版 配信日


≪映画監督 田中絹代≫
フランスで“発見”される

吉永小百合99本記念映画
『映画女優』(1987)
田中絹代 半生記
監督田中絹代のシーン ワンカットも無し

田中絹代 監督第一作
『恋文』( 1953 )
半生記は それ以前であったか
『月は上りぬ』(1955年)
『乳房よ永遠なれ』(1955年)
『流転の王妃』(1960年)
『お吟さま』(1962年)

フランス映画関係者
女性監督の先駆けとして評価
全六作品 フランス全土の映画館上映
上映は大反響を呼び
その上映は現地メディアもこぞって取り上げた

長澤まさみ
映画監督にならんか
2026/01/19(月) 晴れたり曇ったり


一服千考{いっぷくせんこう}


世界一の<面>をICTで分析
剣道を科学する
仙台大学付属明成高校剣道部顧問

数年前 世界選手権個人戦優勝選手 安藤翔
足に貼りつけたセンサーで
足の重心 下半身の動かし方
で 安藤の面打ちを「見える化」
安藤の面打ち
左足の重心が親指球と呼ばれる親指の付け根から親指にかけて集中

安藤談
「昔から剣道 根性論や精神部分が強く言われてきたが
ICT機器で明確にすると 指導する側もどこが悪いか 
強化していかない所が分かってくる 指導者としてもやりがいがある」

もう一題

福岡「剣道まつり」小森敏也
「剣道を外に出したい」

小森 「剣道は閉じた世界にある」
礼儀/精神力/根性
それだけで剣道のすべてが伝わるとも思っていない

剣道の本質は もっと人間臭い場所にあると感じた
剣道は経験者だけのものでない
剣道の価値は 剣道をやってない人にこそ 届くべきだ
生き方としての剣道
考え方としての剣道
人と向き合う技術としての剣道

拙者の剣道
いや 刃引き劍法
昔に戻ったフリ できる
幕末 戦国に
相手を斬ったフリ できる
快感!!
2026/01/17(土) 晴れ


土着信仰


【現代日本が喪失した靖国
武士道と宗教と靖国
 武士道を国家の機軸とするなら我が国の「国教」は如何に……
維新政府の国民国家の装置であった靖国神社は如何に変貌したのか
                       兵頭二十八】

宗教史と武士道史の過去からの「対応」について
私見を述べます
と軍学者 前向上

して本題に入る前の前説 
土着信仰としての「柱信仰」
軍学者の旧著『日本の高塔』
五重塔のてっぺんに突っ立つている「相輪{そうりん}」
九個の輪っかが直線的に連なる意匠
他の仏教圏の卒塔婆{そとば}には見られない
あれは何なのか?
南アジアによくある「樹木の象徴」ではない
軍学者 ごく単純に「ヒトの背骨」を表していると

弥生時代以前の日本には 南洋から来た人も多く棲み着いたよう
パブア=ニューギニアでは 人が死ぬと土中に埋葬ぜず
地上何メートルかで幹が折れているような大樹の頂に遺体を乗せ
鳥葬
さらに1年以上も風雨にさらした後
すっかり白骨した遺体の頭の部分だけを家族が自宅に持ち帰って
適当な場所に安置する
これに近い習俗を持った部族が日本にいたとしても不思議でない

出雲大社をはじめ 日本の神社の御神体は木の柱
天照大神を祭ってあるはずの伊勢神宮でも 
本殿の床下になぜか太い柱がただ埋まっている
このような「柱信仰」の実際のカタチから考えると
それは「天と地を結ぶもの」とし敬われたと理屈ぽく考えるよりは
単に 昔は柱の上で先祖の遺体を骨にしていた
その記憶が仏教伝来以後も日本人の中に生きているのだと見た方は自然

興味深いことは 古い寺の多層塔の設計のなかにすら
「構造材でない芯柱{しんしら}」がある
また曽我氏が建てた飛鳥寺の塔の中心柱を支えるための重要な礎石
塔心礎{しんそ}には 匂球{まがたま}などが埋められていた
本来の寺院の塔は その基部には舎利{しゃり}(仏骨)を
納めることになっているはずなのに
日本では寺が最初から土着信仰と融合していたことは ほぼ確実
それは東西いずこの地へ行っても 必ずある
土着の古い宗教は
新しい外来宗教の理論的純粋さを
変容させてしまうだけの力を長く保持する

次号へつづく
2026/01/15(木) 晴れ


戦死者の霊


特集
【軍学者「兵頭二十八」を読む
――兵法を放棄したこの国を憂うとき――】

その一
【軍学者に問うてみた
なぜ軍学者と名乗るのか――兵頭二十八
右、質問を編集部から受けた。古来の軍学思想家の逸話を記す】
見開き二頁 二節を抜粋

《西洋の戦術、支那の兵法、本朝の軍学も、やはり生存の哲学に他ならない。
愉快でたまらぬのは、戦場の安易な秘訣は戦いの知識の独占にあるはずなのに、
古来の軍事思想家は、それを敢えて公理化し、文字に記し、巻物にしたためて、
他人に教授し、後世に伝えようとしてきた。彼らはじつは博愛主義者だ。他人と自分の不幸を見てきた人々に違いない。私はそのような人々の末席に連なりたく願う。軍学者の名乗りは、その希望に背駆{はいち}しない。》

《クセノフォンは25〜26歳の3年間、ソクラテスに師事して、後に騎兵戦術の開祖になった。プラトンは20歳から8年間、最晩年のソクラテスに師事し、その刑死をみたことから、正義の問題と、霊と死の問題で、終生悩み続けた。ミイラの伝統のあるエジプトまで旅行して、それを知ろうとした。ついにプラントすら、正義の霊は死後にどこかで酬われ、幸せを得たのだと信じた。
いま、日本では、戦死者の霊をどう祀るべきかについての定見が失われ、混乱を増そうとしている。軍学者として、これを黙って見ていることはできないのである。》

次回 【武士道と宗教と靖国】
2026/01/13(火) 晴れ


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