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本日は かわら版配信日


松浪さん 田中さんを避けたのは
<右翼>のレッテル 貼られていた人だった からか
人は 人にレッテルを貼る
人は人を 区分けをしたがる
人は 己を守りたいために
2025/12/05(金) 晴れ


<右翼>というレッテル


田中光四郎 話つづく

バーミアンの石仏 タリバンが爆破すると予告
あのとき 俺が止めると言ったのが松波
彼は国境まで行った そのとき五億円持っていった
しかし 石仏 爆発される
パキスタンで噂が流れる
「あの金はどこへいったのか」
田中 衆議院外務委員長・吉田公一を訪ねる
その金の出所を明らかにしてください
最終的には外交機密費は探しようがない

田中さん 松波さんへの嫌悪のはじまり
松波さん アフガンとの縁
1975年から3年 国際交流基金の支援によりアフガニスタン
カーブル大学にレスリングおよび体育の指導者として派遣される
後年 日本でのアマレス大会の折 
田中さん アフガンから4人の選手を自前で連れてく来る
アジア大会のときも選手・役員30人 自前で呼ぶ
そのとき田中さんへ挨拶も 選手たちへの杓子定規の対応に立腹

さて 次は中村哲
何かしゃべってくれと頼まれた ある若手議員の集まり 
中村がこう言った ああ言った ばかり
田中さん
「中村は医者じゃないか 彼は戦う人間ではない
私は兵士として戦った」

田中 → 【私と中村哲は同じ福岡県出身です。彼は徳洲会の医師だったんです。人がやらないことをコツコツとこなすいい男ですよ。私の足も切ってましてね。でも脳神経医です。それなのに足を切ったり、脱臼した肩を入れたり、何から何まで18年間やってきたわけです。年齢は私より下ですから呼呼び捨てにしますが、兵士だった私より、彼の方が高い社会的信用得ているわけです。
 たしかに私は単に戦うだけの人間です。人前に出ておしゃべりすること事態が居様です。「俺は!」と手を挙げてしまえば私らの存在価値はないですよ。でも去年『武道通信』で前田日明さんに会わせていただき本当に嬉しかったですすね。そのとき極真会館の大山館長が私の写真を見て、「彼は武道家の誇りだよ、
同じ武道家として誇りに思う」とおっしゃっていたことを前田さんから聞いたのです。あれだけの人が、草の根の稽古だけしてきた私を思ってくれているのかと、嬉しかったですよ。】

兵頭 → 武道家としてやってこれた田中さん どうやって民俗派とつながり
田中 → 皆さん私のことを右翼という(笑) 日本青年社の錬成塾をつくり塾長やっていた
兵頭 → 日本青年社 そもそも世間からは右翼と思われている
田中 → 右翼ですよ 会長が小林楠扶 住吉会の跡取りで本部長
小林 「田中には構うな 田中は自由にさせておけ」と言ってくれたので
何をしようが誰も文句 言わなかった
党役員会の出て来い とか日教組に抗議に行くぞとか言われても行かなかった

−−−−−−★−−−−−−
後年 オウム真理教 麻原彰晃 逮捕
田中さん 身辺整理し 遺書書き 暗殺 企てる
住吉会 各々も 麻原 暗殺 企てる
小林楠扶 「田中に任せろ 他の者 手を出すな」

まあ 失敗に終わったが
2025/12/03(水) 薄曇り


重版出来!


師走である
スズメ 電線にとまっている
いま早朝 4℃ 寒くないのか
スズメ 曰く
汗腺はないが 
冬は羽毛を膨らませて空気の層を作り断熱性を高める
夏は口を開けてパンティング(開口呼吸)したり
羽毛の少ない足指から熱を放散したりして体温を下げる

「草莽」読者からメール いただく
<フレデリック・クレインス著『戦国武家の生死観 なぜ切腹するのか』
最近 評判ですが  杉山さんのこれまでの発言やコメントの 
焼き直しのようで ちょっと腹立たしい気もしました>

『使ってみたい武士の作法』 2008年 9月25日発行
<たちまち重版>
同著読者からメール
<いまニューヨークに住んでます きのう読みました
日本人であることに自信を持ちました>

更に 2010年 9月25日 再度重版できないので
増補版として発行 

この著 書いたときから
英語版/スペイン語版等
翻訳されること希望していた 
杓子定規でない 熱き心を持った
日本外務省/日本文化科学省 キャリアがいたなら
英語版/スペイン語版等
遠に 翻訳されていたろ

−−−−−−★−−−−−−
田中光四郎/兵頭二十八 対談
タリバン バーミアン石仏 爆破
止めるため 松浪 行く
そのとき持っていった金 5億円
外交機密費 五億円の出所 行方の謎

ペシャワールの医師 中村哲のこと
次回で
2025/12/01(月) 晴れ


日本アフガニスタン協会


兵頭 →田中のアフガンでの今年の難民支援活動を訊く
田中 → ペシャワールで中高生の弁論大会を催す
12,3校が参加 
英語で「日本とアフガニスタンを語る」
9歳から18歳まで    
(同ヘージに掲載された写真を指さし)
この子は広島・長崎で亡くなった人達に黙祷を捧げたいということで
来ている人全員を起立させた

田中 16年前から「日本アフガニスタン協会」をつくる
英語名 「ジャパン・アフガニスタン・アソシエーション」
国連からの委任状 仕事依頼書も この名称

日本に社団法人 「日本アフガニスタン協会」がある
理事長 松浪健四郎
この20数年理事会が開かれた形跡がない
なのに理事長を名乗っている

兵頭 → 弁論大会を47万円で開催できたのに
外務省は5億円の予算をどこで使ったのか不明と
田中さん 最近講演会で発言されたそうですね

田中 → その不明金のことは後で話しますが
私が一番怒るのは 松波は私がやったことを自分がやったように話すこと
カメラマン南条直子 アフガンで地雷を踏み死ぬ
南条が死んで一週間 ペシャワールへ帰ったその日 無線が入る
すぐ大使館に連絡し 駐在武官をイスラマバードからペシャワールまで
引っ張り出す
国境まで来たところで「許可がなければ行くことはできません」
日本の大使館の 熱き心がない杓子定規さに絶望
ビニールのロールを買い 南条の体を持って帰ろうとしたが
埋められて一週間 10月7日 掘り起こす
体がガスで膨らんでいたので
髪を切り カメラから皆 持ち帰り
日本のご両親に渡す
そのときお母さん 夢で娘が真っ黒な顔して廊下を走ってきたと言う
親というものは有り難いもの
自分が親を一生懸命想っているつもりでも
親はその何十倍も子を想っているということ
ところが昨年9月23日毎日新聞朝刊
松波が「南条直子のバラバラになった死体をムジャヒィデンが埋めた」と
南条の体はバラバラになんかなっていない
松波は何も知らない 南条にも会ったことない
それなのに親の想いを踏みにじった
だから毎日新聞に抗議謝罪させます

−−−−−−★−−−−−−
松浪健四郎氏とは多少縁がある
「格闘技通信」で書いてもらっていた
ビクトル古賀さんを紹介してくれた
<サンボブーム>のきっかけをつくった

松浪氏の著作 何冊か刊行した
「杉山さんのお蔭で教授になれました」と冗談を
チョンマゲ議員として話題に
たしか 田中さんから「松浪に抗議する」と連絡
その場に居合わせた
2025/11/29(土) 晴れ


「国軍」とは


兵頭 →
【15世紀末から18世紀に、ヨーロッパの軍事組織も「ゴシック」から「バロック」へ移行したと言われます。つまり、都市に篭る歩兵や騎兵の小部隊では、もう大砲を有する大部隊には勝てなくなり、国王絶対下での巨大な常備軍が整備された。日本の自衛隊もこの延長線上の「国軍」なのだろうと私は思いましが、田中さんは今の自衛隊についてはあまり好感を持たれていないようですね。】
田中 →
【自衛隊は国軍と言ってもですね、彼らは志士ではないのです。職業で、飯を食うための就職です。失業対策事業でしょう。最初は公安隊や警察予備軍だとか。それがそのまま今に続いているに過ぎないということであります。自衛隊の予算が5兆円、その半分は人件費ではないですか。--------
 いまの自衛隊が良い悪いのではなく、公安隊や警察予備軍、失業対策から続けているのが大前提でしょう。】
兵頭 →
【自衛隊は、上から下までダメですか?】
田中 →
【そう思うますね。私は昔、東部方面隊の会計隊長とやり合ったことがあります。この人の弟の嫁が肉屋を切り盛りしていて自衛隊に肉を収めていた。旦那が倒れてしまい未収が出て困り果てた。--------
 その時に三島由紀夫が割腹した建物に入って会計隊に行って考えました。「こいつらの国を守るという感覚では日本には国軍はないものと同じだと。】
兵頭 →
【私も「戦車マガジン」の記者の頃、市ヶ谷に関してはつまらない想い出があります。おそらく島国日本の公的組織ずべてに共通なものが防衛庁にもある。「ソツのない対外庶務」の必要性を解さず、律儀に正面から門を叩く者は、外人であれ邦人であれ、厭な目に逢うのです。しかし「通用門」から覗けば、出世競争」から外れた凄い男達が生きていますよ。F86からずっと乗ってきて、50歳過ぎても体力では20代にも少しも負けないと言い切れりF15で飛んだりする、防府の航空教育隊の名物司令の一佐とか----それは列挙仕切れません。
北海道の部隊をご覧になったことは?】
田中 →
【ありません。】
兵頭 →
【北海道師団と習志野の空挺団は、まだ軍人らしいところがあるはずです。自衛隊は募集難に陥った平成4年からひどく弛んだ時期があったんですが、不況を背景に数年前から規律が復活して、茶髪にピアスは追放。市長で結婚しても営外住居させないとか。当たり前の事態が戻っています。】
田中 →
【習志野には私の弟子がおりまして、自衛隊内で何度も優勝したそうです。確かに中にはまだまともな兵士がいるのですね。】

−−−−−−★−−−−−−
支那には「国軍」はない
共産党の「党の軍隊」
総兵力が約203万5千人 世界最大級の常備軍
核弾頭 600以上
「日本ごときが」とのセリフも出る
2025/11/27(木) 晴れ


スティンガー


兵頭 → 【冷戦の真っ只中で、ソ連が負けそうだとは思えなかった時期ですね。】
田中 → 【当時は戦いそのものがのんびりしてましてね。私たちは夜しか攻撃できませんでした。昼間はヘリコプターやミグが飛びまわっておりました。昼間は移動するだけでヘリコプターが来ても皆座って見過ごすだけ。】
兵頭 → 【スティンガー(歩行携帯式対空ミサイル)の援助はまだ無し?】
田中 → 【ジャーナリストが来て「スティンガー見たか?」と言われ探し回ったのが1987年、翌年になりますと、どこに行ってもありましたね。射手を訓練・指導したのがパキスタンで最終チェックはアメリカ軍がしたそうです。】
兵頭 → 【それは実は変装したCIAだったんでしょうね。】
田中 → 【そうですね。私、アメリカのペンタゴンに呼ばれてまして話させてもらったんですが、上議員の部屋にアフガニスタンで使われた第一号のスティンガーのランチャーが壁に飾ってあるのですよ。いつ誰が撃ったかのリストがありまして、確立が97%ですよ。あれではソ連はたまらんですよ。だからスティンガーが戦いを終わられたと私は思っています。担いでも軽く、そんなに難しいものでもありません。操作も簡単なサイト制御がありまして、横には強いと思うんです。ただ上下サイトには弱いです。上下合わせるには大変な努力が必要です。】
兵頭 → 【スティンガーのIFF(敵味方識別電波送受機)の操作はどうしましたか?】
田中 → 【自衛隊をはじめ、近代国家にはIFFがあるそうですが、このときにはついていません。でも3,4つのスティンガーは持っていました。補給の時にパキスタン国境でスティンガーが渡されるのです。武器庫にはあらゆる武器が一杯ありました。その武器庫を作った時、サウジアラビアのサヤフというグループが200人ぐらい義勇兵としてきていたのです。その中にウサマ:ビン・ラディンがいたというのです。】
(次頁に田中さんがスティンガーの発射訓練をする写真)
兵頭 → 【その「義勇兵」と「傭兵」との区別、全共闘崩れが70年代にすり込んだ日本の青年向けエログロジャーナリズムでは、いまだにできていません。
 傭兵について興味本位に肯定的に取り上げらたりするのは、傭兵はカネ次第で祖国にすら銃を向けるかもしれない「人間のクズ」に他ならなず、国際法上も義勇兵とはまるでことなった扱いを受けることが分からないでしょうね。】
田中 → 私も日本テレビでのニュースに出させてもらったんですが、その時「雇い兵といして戦った日本人がいる」と言われたので日本テレビには二度と行かないと思いました。その時代の先端を走っているジャーナリストがその程度の認識ですから語るに足りません。】

−−−−−−★−−−−−−
米国がウクライナにトマホーク巡航ミサイルを給与したらどうなるだとうか
アフガンのスティンガーとなるのだろうか
プーチン大統領 新たな段階のエスカレーションにつながると恫喝するからには
アフガンのスティンガーとなるのだろう

支持率 凋落していくトランプ大統領
人気挽回にトマホーク巡航ミサイルを給与するんじゃないか
2025/11/25(火) 薄曇り


義勇兵


自衛官 基本給 全世代引き上げへ 
自衛隊の階級名変更検討 諸外国の軍隊に準拠
1佐→大佐/1尉→大尉
新政権 自衛隊にテコ入れ

十八ノ巻
【特集 自衛官の『葉隠』
 自衛官に捧ぐ――国軍たりうるか、武士たりうるか】

◎対談 自衛官殿 特集の前に読んでいただきたく候
田中光四郎/兵頭二十八

兵頭 → 【現代史を論ずる「国際派」。日本人の中に第一次世界大戦のとき、日本人は無理しても地上軍をヨーロッパに派遣して、英米との協調を深めておくべきだった、との高説を垂れる人が多いですね。なら、あんた方は1979年にソ連のアフガン侵攻が起きたときアフガンへ義勇兵として赴こうと考えたかい? そう発想して故・マスード将軍の反ソ部隊に身を投じたのは田中さんだけでした。
 じつは第一次世界大戦のとき、多くの米国人が、政府の参戦を決める前から、どんどん個人で義勇兵になるためフランスに渡っていたんです。当時の日本政府にも義勇兵の出国を止める権限はなかった。しかし日本からはごく少数の金持ちパイロットが駆けつけただけ。要するに、昔も今も、日本人大衆に決定的に欠けている発想が「義勇兵(voluntere)」なんだろうと思ういます。
 残念ながらソ連なきアフガンは自ら混迷状態に陥っているようです。】
田中 → 【それはラバニがタジク人、マスードもタジク人、ヘラートのイスマル・ハンもタジク。それでタジクが大きな力を持って安定され一番困るのがパキスタンですね。そのパキスタンがシュウトゥをたててタリバンを作り上げてひっくり返したわけです。それが原因です。
 私は1984年に日本でアフガンの2組の難民に会って決意し、生きて帰れるとは思いませんでしたので、身の回りを整理してアフガニスタンへ行きました。1985年の2月に向こうに行って、ずぐ戦い始めました。】
兵頭 → 【そもそもの決心のきっかけは?】
田中 → 【私は武道家の端くれでございますから、最後のギリギリのところで「いざ死ねる時に死ねるか」というのが私のテーマなんですね。
 44歳の時に武道の最後のステップにかかっていたような気がするのです。
いま振り返ってみますと、「いざ死ぬ場所で本当に死ねるのか」という自分自身の存在確認がありまして、「ここなら死ぬる」と思ったから行ったわけです。
飛んでくる弾に向かい、ここまで来たのをかわしてみたいとか。武道家というものは欲が深いものでありまして、ギリギリまで見たいというものがあるのです。】

さてさて はじまりはじまり

−−−−−−★−−−−−−
第一次世界大戦中 「義勇兵」として参戦した日ノ本の人々がいた
カナダに移住していた約200名の日ノ本人
人種差別に苦しむ中で カナダ軍の義勇兵として参戦し
フランスの西部戦線などで勇敢に戦った
また たった一人の日本
「日本人初のエースパイロット」滋野清武
フランスに渡り義勇兵としてフランス軍の空を守った
2025/11/23(日) 晴れ


憂国


相矛盾する二人の武蔵
新免武蔵(キャリア)/岡本武蔵(ノンキャリア)
日本浪漫派の最後の二人
三島由紀夫と五味康祐にも 見ることができる

三島由紀夫(本名平岡公威{きみたけ}
祖父→初代樺太庁長官 父→農林省局長
公威 学習院〜東大〜大蔵省キャリア

五味康祐
大阪灘波の映画館の息子
明治大在学中 陸軍に召集 
その後 辛苦をなめながら筆一本で生きてきた

さて 本題 『柳生稚児帖』
三島の死から三年後に書かれた

五味は多くの時代小説を書いてきたが
刀そのものに強い執着をみせたのが『柳生稚児帖』
攘夷と開国
いい変えれば伝統と近代の相克を踏まえて
日本浪漫派の命題 「日本とはなにか」の問いに対する答えを
この小説で示そうといた
しかし この面白すぎる長編小説に仕上げてしまったため
五味の読者には届かなかった
三島の死から三年後に書かれた

長編五十一章 十九章に当たる「侠客」
慶応四年 品川沖から脱走した旧幕府軍隊 房総沖で台風に遭い
威臨丸は清水港に漂流 駐屯の官軍に攻撃され搭乗員は敗死
その屍体は海に投げ捨てられ葬る者はいない
清水の侠客次郎長 旧幕府軍の死者を収容し 手厚く葬った

五味 次郎長に こう云わす
「(幕府から明治維新)それで本当にまっとうな世の中になったと言えるのか
そんな疑念がふと次郎長の胸の中をかすめた」

1945年 敗戦
戦後民主主義を唱える文化人から保田与重郎『日本の橋』 伊藤静雄『わがひとに与える哀歌』も
一切が否定され 抹殺されたことへの思いが重なるのであろう

五味の内なる思いを憂国といわずしてなんと呼ぼうか

−−−−−−★−−−−−−
『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』
(原題: Mishima: A Life In Four Chapters)
先の「第38回東京国際映画祭」にて日本初上映
2025/11/21(金) 晴れ


明日は武道通信かわら版 配信日


高市総理の台湾有事「存立危機事態」
チャイナ共産党 これ幸い

若者の“日本化” 中高年にも浸透
チャイナ共産党 恐怖心 持っていた
“日本化” いつしかアンチ共産党となる

訪日自粛要請
日ノ本留学 検討要請etc
すべて因はコレ

チャイナ 共産党独裁体制だから
人民 従うそぶり見せているが 
本音は「不{フー}」
チャイナ留学生 皆 本国に戻りたくない
日ノ本で就職したい が本音

訪日自粛要請とやら 長くは持たない
放っておけばよい

−−−−−−★−−−−−−
中央大法科大学院教授 野村修也

日本が『台湾を守るために』武力行使する話だと思って批判している人がいるらしい。これは全くの誤解。台湾有事に伴って『中国が米軍に武力行使し』日本に存立危機事態が生じた場合に、『米軍を守る可能性』の話」と説明。
 
そして17日の更新では「『台湾が国ではないことを知らないのか』と罵倒する反論が来る。恐らくこの人は、存立危機事態の第1要件である『我が国と密接な関係にある他国』に『台湾』を当てはめていると誤解しているのだろう。しかし、この『我が国と密接な関係にある他国』は同盟国アメリカ等を指していて台湾ではありません」と改めて記した。
 
さらに野村氏は続くポストで「『中国の内政に干渉するな』との批判も受けるが、全くのお門違い。日本政府は、自国の防衛の話をしているのであって、『中国は一つだ』という主張に何ら口を差し挟んでいません。にも関わらず、我が国の防衛論議に反感を抱いて、『汚い首は斬ってやる』などと発言する方が、よほどの内政干渉です」とつづり、「『日中共同声明や平和友好条約に違反するつもりか』との批判も来るが、全くの的外れ。中国側が条約を破って先に武力行使をした場合の話をしているだけ。この場合でも日本は防衛ないなどと馬鹿な約束はしていない。それでは尖閣や沖縄は取られ放題になる。勿論、日本は中国に先制攻撃をすることはない」と述べた。

わが市{まち} 一ツ橋大学法学部教授
何と答えているのだろか
2025/11/19(水) 晴れ


キャリア ⇔ ノンキャリア


五味康祐 それまでの時代小説 一変させる
歴史小説でなく 
珍しい話/奇談/逸話に剃った物語
ひと口で云えば 伝奇小説
次々に世に問い そのいずれもベストセラー

いままでの時代小説 
『大菩薩峠』机竜之介 → ニヒルなアウトロー
吉川栄治 『宮本武蔵』 → ストイックな求道者
ではない 

五味康祐 長編 『二人の武蔵』
1956年8月〜1957年8月 読売新聞 掲載

相矛盾する二人の武蔵
新免武蔵(キャリア)/岡本武蔵(ノンキャリア)

武蔵の出身地 作州(美作)/播州かの出身地争い。
そこからヒントに
作州出身武蔵/播州出身武蔵という
<二人の武蔵>の共存という設定

吉岡一門を相手にする戦い/一乗寺の決闘などで
心ならずも二人の武蔵は協力し 勝利を得る
そこに女性主人公の千珠、江戸の剣豪、夢想権之助、
老剣豪の佐々木岸柳 将軍師範の柳生宗矩という登場人物
それらが入り乱れる展開
キャリア ⇔ ノンキャリア この対立構造
五味の人生からしての五味のテーマ

『踊る大捜査戦THE MOVIE』興行収入 101億円
『国宝』 170億円突破(11月現在)
キャリア ⇔ ノンキャリア 対立
永遠のテーマやも知れぬ

次回 晩年最高の未完傑作
『柳生稚児帖』

−−−−−−★−−−−−−
大映映画 1960年 安保の年 
長谷川一男 → 平田  市川雷蔵 → 岡本 勝新太郎 → 佐々木小次郎 
大映オールスター
実家から一番近い映画館 沼津大映 徒歩 20分ぐらい
観にいった記憶はないが
沼津大映の館主の娘がやる英語塾 通っていた

小学生のとき 書道塾/絵画塾も通ったなぁ〜
何 一つ モノにならなかったなぁ〜
2025/11/17(月) 晴れ


追悼 五味康祐{やすすけ}


松本清張 『或る「小倉日記」』
昭和二十七年(1952)二十八回芥川賞 よく知られているが
もう一作 同時に受賞した『喪神{そうしん}』
隠棲した剣客から妖剣の奥義を授かる若者を描く
作家は五味康祐

『喪神』につづいて
『柳生連也斎』『桜を斬る』など 
従来の芥川賞作家には見られない 物語性に富んだ江戸初期を
背景にした数奇な時代小説であった

『喪神』は人間 誰しも持っている臆病な自己保全本能を描き
『柳生連也斎』では影を踏む瞬時が生死の別れ目となす二人の剣豪の勝負を
『桜を斬る』では講談の寛永御前試合の想定を得て
二人の剣士が吹上御苑の八重白花の「氷室の桜」を斬って争う

難解な観念小説 イデオロギー小説に飽きた純文学読者に
他愛もない通俗時代小説に満足できない読者に
五味康祐の出現は 小説を讀む喜びを見出した

【刀と日本人・続 小川和佑 第五話 
日本浪漫派作家・五味康祐
憂国に見る日本の心と刀 
――五味康祐の未完の傑作 『柳生稚児帖』
   武道の真髄と憂国を説く】

次回で
2025/11/15(土) 晴れ


追悼 室戸半兵衛


「椿三十郎」 
あのラストシーン 一昨日 観た U−NEXTで
室戸半兵衛(仲代達也)/見守る若侍たち
血飛沫が舞い上がる 
こと知らされていなかった

黒澤の台本
<勝負 一瞬に決まる 血飛沫 >
それだけ

担当の技術者 血飛沫が舞い上がるシーン 
準備するのに1ヵ月 
あ〜だ こ〜だ 試行錯誤
代役を使ってのリハーサル 何度も

殺陣師 あ〜だ こ〜だ 試行錯誤

撮影当日
室戸半兵衛 自分が斬られ死ぬ 何らかの形で血がでること知っていた
胸にパイプをつけられたから 
当の技術者 「心配しないで ちょっと血が出るだけだよ」

室戸半兵衛 椿三十郎 両者 
袂から両腕を出し 睨み合う
両者 抜刀までの25秒 カウントダウン
担当の技術者 25秒 カウントダウン後 
液体の圧力 かける

大量の血飛沫が舞い上がる 
室戸半兵衛 演技でなくホントに驚く  
見守る若侍たちも 演技でなくホントに驚く

1秒にも満たない一瞬の衝撃
当時 スローを早送りする技術などない

殺陣師 後日 云う 「逆抜き不意打ち斬り」
椿三十郎の劍 早く抜くため 五寸(15cm)短くした
椿三十郎(三船敏郎) 何度も何度も練習したそうだ

天然理心流 居合形にもあった
向こうから歩いてくる敵 間合いに入った瞬間
片膝をつけると同時に 鞘をひっくり返す 上の刃を下に
して抜刀 柄は逆手に握り 下から斬り上げる

椿三十郎も 柄は逆手に握っていたな

きのう
U−NEXT Netflix で
「用心棒」 「切腹」「影武者」も観た
2025/11/13(木) 曇り


朝日の光の中に散る山桜


アノ有名なシーン 以後
ヘリゲル 疑うことも 問うことも
思い思うこととも きっぱりと諦める

稽古をはじめて五年目のある日
阿波 ヘリゲルに試験を受けさた
ヘリゲル 見事及第 免許状 授けられる
(先に記した 礼の免許状)
ヘリゲルが日本を去るとき
阿波 自分のひと弓をヘリゲルに
メデタシ メデタシ  おわり

あとにつづく 「神秘的な沈思法」とかは省く
<神秘>とか ドイツ神秘主義のウンチク
でも最後の一言のみ記す

【かの「武士道」の根があるのであるあるが、これをもって日本人に最も特有なものとするのは間違っていません。そして、これの最も純粋な象徴は、朝日の光の中に散る山桜であります。このような泰然自若{たいぜんじじゃく} として生を離れる。すると、それは個々の生活ではなく、全存在の究極の意義を初めて充たし、それを示現するものです。】

−−−−−−★−−−−−−
射場で  一度  
【無心】らしきものを体験した
「パーン」という的を射抜いた音で 我に返った
弦を引く 矢を放つ
憶えていない

剣道でも 一度ぐらい あったかもしれない
憶えていない
弓道は <静>であるから
憶えていたやも知れぬ
2025/11/11(火) 晴れ


「心で射る弓」弓禅一如


ヘリゲル 九時ごろ 阿波宅へ
阿波宅と隣り合っている道場へ
阿波 細長い一本の線香に火をともし
それを的の前の砂に立てる
それから阿波 ヘリゲルら(通訳ら) 射場へ

【先生は光(射場の電球)をまともに受け立っているので、まばゆいほど明るく見えました。そして線香の微かに光っている点は、極めて小さいので、やっと見えるか見えないくらいでした。先生は相変わらず、ものも言わず自分の弓と二本の矢を取りました。先生は一本目の矢を射ました。
 それは音で命中した事がわかりました。二本目の矢も音を立てて打ち込まれました。第一の矢は見事に真ん中に立っていて、第二の矢は第一の矢の根に当たって、それを二つに裂いていました。
 私はそれを射場へ持っていきました。先生はそれを見て、考え込んいられましたが、やがて次のように言われました。
「私は、この道場で三十年間この方稽古していて、暗いときでも的がどの辺にあるかは知っているはずだから、一本目の矢が真ん中に当たったのはさほどたいした出来栄えでもない、と貴方は考えられるかも知れない。しかし、二本目の矢はどう見られるか。これは「私から」でたものでも、「私が」当てたものでもない。そしてこんな暗さで一体狙うことが出来るものかどうかよく考えてご覧なさい。それでもまだ貴方は狙わずに当てられないと言い張れるのか。まあ、私達は、的の前には仏陀の前と同様に頭を下げようではありませんか。】

これが アノ有名なシーン 

ヘリゲル この講演から七年後に書いた
『Zen in der Kunst des Bogenschiesens(弓術における禅)
『弓と禅』には こうある

「阿波に弟子入りした。しかし、狙わずに中てる事という阿波の教えは合理的な西洋人哲学者に納得できるものではなく、ヘリゲルは本当にそんなことができるのかと師に疑問をぶつけた。
阿波は、納得できないならば夜九時に自宅に来るよう、ヘリゲルを招いた。

真っ暗な自宅道場で一本の蚊取線香に火を灯し、三寸的の前に立てる。
線香の灯が暗闇の中にゆらめくのみで、的は当然見えない。
そのような状態で、阿波は矢を二本放つ。
一本目は、的の真ん中に命中した。
二本目は、一本目の矢の筈に中たり、その矢を引き裂いていた。
暗闇でも炸裂音で的に当たったことがわかった。
二本目の状態は、垜(あづち)側の明かりをつけて判明した。

この時、阿波は、「先に当たった甲矢は大した事がない。
数十年馴染んでいる垜(あづち)だから的がどこにあるか知っていたと思うでしょう、しかし、甲矢に当たった乙矢・・・・・・これをどう考えられますか」

これを“禅語”で云えば
「心で射る弓」弓禅一如

後日談は次回
2025/11/09(日) 雨


矢は 中心から出て 中心に入る


そのようにして一週間 二週間と経ち……
ひと月 ふた月と経っていった……
三年目になりました
されど 例の「技の無い技」に四苦八苦

四年後のある日
的の前に立たされた
いままでは 巻藁{まきわら}
2メートルほど先に置かれた大きな稲藁
今度は28メートル離れた的(霞的)
直径36センチ(尺二)

ヘリゲル → 当てるには どうしても狙わなくては
阿波 → いや 狙ってはいけない
的のことも 当てることも 考えてはいけない
弓を引いて 矢が離れるまで待ちなさい

阿波が射ると 矢は的の真中へ
阿波 → 貴方は私が射るのを よく観察したか
私が目をほとんど閉じていたのを 見たか
私は的がぼやけて見えるまで 目を閉じる
すると的は 私の方へ近づいてくる様に思われる
これは心を深く凝らさなければ達せられないことである
それは私が仏陀と一体になることを意味する
さすれば 矢に 有と非有の不動の中心に 
矢が中心にあるというのは 我々の目覚めた意識を意味する
矢は すなわち中心から出て 中心に入る
だから貴方は的を狙わずに 自分自身を狙いなさい
貴方を射当て 同時に仏陀と的を射当てる

ヘリゲル 十年 二十年 弓術を習っても 
弟子のレベルのままの多くの弓道家を知っている 
自分の日本滞在には限りがある
ある日 阿波を訪ね
「私は的にあてるということが理解できない」と
阿波 → 貴方を先に進ませる最後の道が一つだけある
それは使いたくないが 今晩 もう一度 来るように

さて アノ有名なシーン 次回に
2025/11/07(金) 晴れ


本日は武道通信かわら版 配信日


巷 ドジャース・ニュース もちきり
その むかし むかし
週刊ベースボール 連載
大和球士 「プロ野球三国志」
校正 不必要 句読点の赤字マーク 「<」入れるだけ
ゆえに 担当 新人杉山

原稿に「ダジャース」
「ドジャース」と赤入れ
校了の折
編集長から
「ダジャース」でいいんだ 直すな

大和球士
戦前 社会部記者からスポーツ部へ
大東亜戦争 真っ只中
大和魂 野球博士 ドッキング
ペンネーム 大和球士に

戦後 ラジオ解説者も
川上のホームラン 「弾丸ライナー 」とネーミング

大和球士さん 草葉の陰から
大谷のホームラン
なんというネーミングしただろうか
2025/11/05(水) 晴れ


旗日


そうか きょう 祭日か
そうか 旗日か
「旗日」と云っても 孫らは知るまい

国民の祝日 → 家庭で国旗を掲げて祝う
父 玄関先に日の丸 掲げてしたシーン
記憶の引き出しにある

祭日のわけ
「文化の日」
なぜ この日?
マッカーサー憲法 公布の日
「自由と平和を愛し 文化をすすめる」
<自由と平和>
マッカーサーが呉れたというのか

退社の折 お別れ会 式出物代わり カードを配った
表面 居合道着で日本刀を構えたポーズ写真
裏面に一筆
《戦後半世紀、
無抵抗にイエローヤンキー化した我ら日本人が、
己の心の身丈に合ったトポスを
見つけるための砦となるのが武道である
――『武道通信』創刊!》
7−1 1998

新首相
『武道通信』 讀んでいただろうことは
想像に易い
2025/11/03(月) 晴れ


技の無い技


日本人とヨーロッパ人との 物の考え方と違い
連綿とつづき 真中当たりに
「阿波先生の教え」との見出しがある

ヘリゲルが阿波の教えを受ける経緯は省く
稽古をはじめ ヘリゲルが抜き差しならぬ所に陥ったとき
阿波は云った
【「貴方が弓を正しく引くことができないのは、貴方が肺で呼吸するからです。
息をゆるり下へ押し下げて、腹の皮を程よく張らせなさい。痙撃{けいれん}的に圧迫せずに、息を止めておいて、どうしてもいなければならない分だけ呼吸しなさい。その様に呼吸できたなら、それで力の方へ移されたことなるから、貴方は両腕を緩めて、力を抜いて楽々と弓を引くことができる様になります」と言われました。
それを実証するために、先生は自分の強い弓を引いて、私に腕に触ってみるよう言いました。実際、先生の両腕は何もしていないように緩んでいました。】

ヘリゲル ときが経つにつれ この呼吸法 できるようになる
次に 矢を放つ
新しい課題が増えた 「離れ」 
ヘリゲル これ以上できないと 
aufgeben{アフティブ }(ギブアップ )

阿波 云う
貴方は いまが離すときと「感ずる」か 或いは「考える」るとき
矢を話そうと「思う」
貴方は意志をもって右手を開く
つまり貴方はその際 意識的なのです
貴方は無心になること 
矢がひとりでに離れるまで待っていることを
覚えなければいけません

ヘリゲル チンプンカンプン
阿波 更に云う
貴方は何もしてはならないのです
考えても 感じても 欲してもいけない
技の無い技とは
完全に無我になり 我を没することです
そして 貴方が全く無になったと思える様になれば
そのとき貴方は矢を放ことに成功するのです

阿波とヘリゲルの間に当然 通訳はいた 
東北帝国大学のドイツ語の教師だろう
通訳さんも大変だったろう
「無心」 当時のドイツ語にあったのだろか

ヘリゲルが云う
ヨーロッパ人が知っている 或いは 知っていると思っている
「思想的」な仏教と いうからには 
「無心」とのドイツ語 あったのであろう
gedankenlos{ゲザンノノース}
であろうか
「技の無い技」
通訳さん どう訳したのだろうか

アノ有名なシーンまで まだ届きそうもない

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拙者 第二外国語 ドイツ語 
リルケの詩 原文で讀みたいと
5年間 学んだ

覚えている語は
Guten Мorgen(おはよう)
Guren Abend(こんばんは)
Ich liebe dich(私は貴方を愛しています)
これだけ

英語が万能だと 
英語がデカイ顔している昨今
第二外国語 不要論
2025/11/01(土) 晴れ


 弓術における禅


オイゲン・ヘリゲル講演に戻る
 かたぐるしい翻訳
以下 箇条書きにしよう

射手の自分自身との対決
射手 自分自身を的にしていて
しかも 自分自身を的にしているのではない
日本の弓術師範の間での言葉
弓を射るとき 一切が一に
「不動の中心」となる
その時 技は無いもととなり
弓を射る事は矢を持って射ないこととなり
射ない事は弓と矢なしに射ることとなる
※「不動の中心」→「正鵠{せいこく}」
弓道の的の真ん中を意味する
 
そして結論的に こう云う
かの「思想的」な仏教ではなく
日本で<禅>と呼ばれている
 
オイゲン・ヘリゲル講演 ページ数11頁
(小さな写真が5点ほどあるが)
講演時間 どのくらいであったろう
多くの聴衆  っぱりわからなかった のでないだろうか
原題
「Die ritterliche Kunst des Bogenschiessens」(騎士的な弓術)
 西洋では滅んだ騎士道 日本では武士道として連綿と生きていると
ヘリゲル博士 云いたかった

ヘリゲル博士 七年後(1948)出版
『Zen in der Kunst des Bogenschiesens(弓術における禅)』
(英語訳/ポルトガル語訳も刊行)
これで 弓道=禅となり
<禅>が世界的に広まった
 
文中写真の中に 賞状がある
「段位 オイゲン・ヘリゲル
五段ニ列ス
昭和四年六月二十日
大日本帝国
 大射道教主 阿波見鳳(研造)」
 
戦前の大日本弓道会の五段でなく
阿波研造が創った流派 「大射道教」の五段
オイゲン・ヘリゲルが語る弓道は
阿波研造の弓道である
 
 弓を引いたことのない御仁も知る
アノ有名なシーンは 次回に
2025/10/30(木) 晴れ


ボナー・フェラーズ


オイゲン・ヘリゲル講演 間断{かんだん}

“国民的”朝ドラ
主人公 小泉セツ & 小泉八雲
恒文社刊「小泉八雲作品集」 
そのむかし 古本屋に売らなきゃよかった
来年あたり 値が張るであろう

ベースボール・マガジン社 
内定し 社長と面談
履歴書の「特技」の欄 
若気の至りで 哲学的文面 連ねていた
社長 「どういう意味だ」
「一日中 天井を見ていられる」
社長 ホテルの天井 見上げ大笑い
「恒文社だな」と一言
ベースボール・マガジン社 前身は恒文社
国立町 大学通り 路地の借家からはじまった

ベースボール・マガジン社 一度 倒産
更正法 解け 
ベースボール・マガジン社 恒文社 合体
で 狙われた≠ヌおり 恒文社へ出向

さて 本題
GHQボス マッカーサーの軍事秘書 
ボナー・フェラーズ准将{じゅんしょう}※(大佐の上 少将の下)
対日心理戦を担当

フェラーズ 
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の著作 愛読
日本文化に深い理解と敬意
いまで云う <親日家>

マッカーサー  天皇 戦争犯罪人で訴追の方針
これにフェラーズ 反論 
円滑な占領統治が困難と

<マッカーサー憲法> 第一条
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
この一条 ボナー・フェラーズやも知れぬ

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昭和天皇 全国各地 行幸 発案
昭和21年2月から
欧州の王制知っているマッカーサー 驚愕 
「殺されるゾ」
が 各地住民 大歓迎
(昭和21年2月から昭和29年8月まで
米国統治下の沖縄を除き)

マッカーサー フェラーズの意見
正しかったと合点
マッカーサー 親日家になったかどうか 定かでないが
『Bushido: The Soul of Japan』(新渡戸稲造『武士道』)
讀んでいた
フェラーズも讀んでいた

元気づく“保守派”諸君
内に篭もるな 
海外に発信せよ
2025/10/28(火) 晴れ


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Colorful Diary Falcon World