■同じ飯を食う仲
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元軍のてつほう(鉄砲)に悩まされたみたいだが? 日ノ本側の記録をよく読めば 元軍は退却時の<めくらまし>として投げつけるだけだった 攻撃用の武器ではなかった 兵頭氏 自説 曰く 犬は花火をひどく恐れる モンゴル人は 馬を喰いに集まってくる狼を追撃するために あんなオモチャを作ったのではないか 狼が逃げ散るぐらいだから 馬も人も驚くと思ったのだろう これが有効な兵器でなかった証拠に 日ノ本は輸入してはいない
話は 元に戻るが 日ノ本の馬はモンゴル馬より貧弱ではなかったか? 支那事変のとき 現地で蒙古馬と支那馬を調達したのだが 牽引力は日ノ本軍の国産馬より弱かった
江戸の世の農作馬は確かに小さい 蒙古馬/支那馬に負ける これは妊娠した牝馬に重労働をさせてしまうから 仔馬が小さくなる しかし 武家屋敷の馬は高さ145センチほど 「平家物語」に出てくる最大の馬「生咬{いけづき}」くらいあった それでも英国軍の4歳馬と比べたら「ポニー」だが 馬力は負けてはいない モンゴル人は馬のことはよくわかる 日ノ本軍の馬を見ただけで これはヤバイと怖れたのではないか
乗馬術もうまかったか? 今の世の競馬騎手が落馬して 脊椎を損傷する事故がしばしばある 昔の乗馬も命がけ 乃木希典は成人してから馬の練習 始めた 日記を見ると 門を出たところで すぐ落馬し 頭を強打 人事不省 何度も ひどいめにあっている
これを鎌倉武士は子供にも強いた 関東武士の鑑とされた斎藤実盛の「乗るとは知れども落つる事なし」と 評したようになるまで 何人の子らが死んだか 鎌倉武士は 生涯ロデオ大会をやっていたみたいなもの 馬と同じ稗の飯を食いながら 「同じ飯を食う」仲だった 当時の者たちですら「キツイ」と感じていたはず 大河ドラマですら再現できない世界の一つ
だから 鎌倉三代たたないうちに 御家人たちは 文化的生活に慣れ 元の質素に戻ろうとはしなかった 小説家 脚本家 学者の想像を絶した世界が 日ノ本には確かにあったのだ
「弓と馬は少年時代から訓練しないとモノにならない」 は鎌倉武士の格言 そのとおり 刀は違う あとから修業しても兵法者になれた
2025/04/30(水)  |
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