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「権力」とは


【氏は「権力」という言葉を好んで使う。
氏の定義によればそれは人間が、あるいは ある国民が
どれだけ苦難や不測の氏から遠ざかっていられるかという要素をのことを言う。
当然のことながら「平和」「人権」といった言葉をうまく採用した方が解かりやすいのは明白である。しかし現代日本語におけるそれらの言葉は、あまりにも手垢が付き、歪められて使われ尽くしており、到底氏の思想を語る具としては適しえないものであるが故に、あえてこの言葉を選ばざるを得ないところに氏の立場の困難がある。

「バキューン、ドカーン」でない軍学とはいったいいかなるものであるか、
氏は右翼的な暴力讃仰者でも戦争の悲惨面を拡大して語ろうとする人でもない。
国家武力についてすらあくまでも民族の「権力」(平和繁栄の権利)を保持し続け、
あるいは万一不幸な事態に遭遇することが、自らの内存する矛盾でそれを拡大するようなことがあってはならないという立場から、それは具体的に手順を踏まえて学究すればどういうことなのかを、きわめて冷静に、論理的に語ろうとする人である。
平和国家という最も望ましい姿を維持し、安定した安全な生活を国民が確保しておく理想のために、祈ることや目を背けていることでは得られないものを最低の努力で確保するためには何がどのくらい、どのような努力とコントロールが必要なのか。
おそらくは、氏の著作ほど透徹に感情やタブーを排してこの問題を語った論述は見ることが難しいであろう。】

−−−−−−★−−−−−−
兵頭さん 自衛隊一任期(2年)満了で除隊
同年 神奈川大学外国語学部英語英文科入学
なぜ 除隊したか なぜ 大学へ行ったか
なぜ  江藤淳に心頭したのか
日米戦争開戦の流儀が国際公法上の「侵略」に該当しないとの言動
戦後の欺瞞を突いた流儀であったのだろろう
2026/03/09(月) 晴れ


後世唯一の歴史資料


【兵頭氏は著作表題を一瞥しただけでは、直ちに解り難いひとである。
個々武道行事に同連する機会を得て最初に受けた印象は、
「緻密な人、繊細にも通じるかと思うほど柔らかい感性をもった人」
そしてまことに正直な人である。】

兵頭さん 山本さんから火縄銃 撃たせてもらったのか
兵頭さんに習志野駐屯地に誘われたことがあった
戦車の前とか 拙者 写真をバチバチ撮られた
兵頭さん ひょうきんなところがある

【氏の著作のひとつの柱は明治維新以前大戦までの日本軍の兵器武器に関する
膨大なな調査研究である。これは先進各国のなかでまともな軍事博物館も公開研究施設もないという、平和を祈るにも反省するのもなにも戦争と平和という現象そのものを直視し分析しようということ自体を放封印してしまった奇妙な我国においては、恐らく他国のものに比して満足し得る後世唯一の歴史資料となるものであり、その博覧緻密はただ一人の作業としては誠に驚くべきものである。
しかしこの貴重な著作活動そのものがかえって氏の本質を見え難くているのが残念ながら事実であろう。氏は自らを「軍学者」と名乗る。軍学とは何か、軍学者とは何者か。
字面から測るに「戦争のやり方を研究する人」「戦争が好きな平和思想に反対の人」
風貌としてはいかつい髭と羽織姿の圧迫感を押し出しているような人。いささかマニアックに兵器武器を語り、外人部隊とグリーンベレーに憧れる軍事オタク…………「ミリタリーマニア」】

「ミリタリーマニア」のほとんどは ナチスのミリタリーグッズ・ファン
兵頭さん 習志野駐屯地のどこかで話した

イスラエル/USA 正装軍服より
たしかにヒットラードイツ軍正装軍服 カッコイイ
2026/03/07(土) 晴れ


山本伊佐夫


春の節句 
春うらら から 一変 冬の逆戻り

次回 読者が読む「兵頭二十八」<二>
【孤高の軍学者
封印された学問、軍学とはなにか
イデオロギーによらず、事実正視を企てる白ル{はくせき}の哲人
                山本伊佐夫(戦史/砲術史研究家】

山本さん 亡き人になって何年経つだろう
叡智の哲人であった
「武道通信かわら版」で長く 執筆いただく
■「武士・騎士・紳士」
 この違いを知ると洋の東西が見える

PCモニターの前に置かれている 鏃{やじり}
山本さんから頂戴いたものだ
山本さんが脳裏に浮かぶ

明日は
武道通信かわら版 配信日
2026/03/04(水) 晴れ


戦場カメラマンからみた軍学者


【床几
兵頭流兵法
加藤健二郎(戦場カメラマン)】

加藤氏 曰く
軍事評論家 大上段から物申すタイプ
そんなこと考えていたころ 防衛庁オピニオンリーダーの集まり
兵頭二十八に会う
で 兵頭に 火縄銃撃ちましょう カヌーをやりましょう
と誘われる

兵頭の著作 讀む
《旧日本軍の砲兵は、大砲を引く馬の世話が大変だったので、兵法は馬臭い》
ということが書かれていた点 妙に印象が残っていると
また派手な火力戦闘よりも地味な陣地構築を説く姿勢に共鳴する

兵器についての細かい点、歴史認識の見直し研究などから
兵隊の心理 長い目広い目で見た中長期戦略まで 
兵頭の見識・分析はかなり幅広くカバーしていて鋭い
現場の体験を重要視している上で 学者・研究者として勉強は一流
さらに他人の意見をよく聞くからこそ 可能になったのだろう

−−−−−−★−−−−−−
『有坂銃』(1998)四谷ランド刊
最強のロシア陸軍に対抗する最新式の歩兵銃と野戦砲
その開発にかけた明治のテクノクラートの足跡
むさぼるように讀んだ記憶
欧米の火砲に劣る日本軍 一死報いる

2026/02/28(土) 晴れ


上野千鶴子のイデオロギーから開放


【読者が読む「兵頭二十八」<一>
常識を打破する一行
社会的文脈でない、<世界の誰一人気づかない事実>を
多くの読者と共有したい………それが私の願い(兵頭二十八)
松永太郎 翻訳者 多摩美術大学講師】

【現在の日本で 兵頭氏の著作を論じることのできる人間は
むろん私を含めて一人もいない
氏に匹敵する知識、見識、眼識を備えた人がいないからである】
松永氏 100%の推し活  

【南北戦争の直後、米国南部にはクランが自然発生した。クランが地域自警活動を超えて、フェーデやゲリラ抵抗組織に変ずる可能性があったから北部人も報復を恐れ、
無法なマネは慎んだ。」(『武侠都市宣言』
ここを読んで、本から目を上げ、しばらくもの思いに浸らなければ、兵頭氏の本を読みむ楽しみはあらかた失われる。
私の推測で言えば、直接、この一行に関するだけで、少なくとも20冊以上からの情報が抽出されているはずである。そして、この一行は、少なくともあなたの「常識」を破壊したはずである。
楽しみというのは、軍事を語る上で不謹慎だろか。そうでもない。読むのが苦しみである本は、そもそも読むことがっできない。さらにもう一つある。
上野千鶴子東京大学教授によれば「男が欲しいと思ったとき自分で調達できるのが自立」なのだそうである。
私の家のまわりの猫は「男が欲しいと思ったときには自分で調達」していた。
上野千鶴子東京大学教授は、犬猫のレベルを自立と呼ぶ。戦後民主主義からフェミニズムに至る戦後イデオギーは、犬猫のレベルを自立と呼ぶに至ったのである。
私たちは、そんな変なイデオロギーから開放される必要があるだろう。誰しも、おそらく上野教授を除いて、犬猫の境涯に身を落としたくないからである。
私は、そのとき、兵頭氏の本が、重要な考え方の道筋を与えてくれると思っている。
しかし、それは一般の人間の言うことであり、やはりまず徹底して読みこなす必要があるだろう。そのことを申し上げて駄文を終わりたい。兵頭氏の名誉を損なわなかったことを望んでいる。】

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クラン(clan)
元々はスコットランドの氏族や一族を指す言葉で
現代では主にンラインゲームにおいて、共通の目的や趣味を持つプレイヤーが集まって結成するコミュニティやチーム(ギルドのようなもの)

フェーデ(Fehde)
中世ヨーロッパにおいて 個人の権利が侵害された際
法的な救済機関が未発達な社会で自ら武力行使を行って
報復・解決を図る自力救済行為のこと
2026/02/26(木) 曇り


8・15 攘夷にとって不吉きわまる日


「遺族会」と利益を共有する「日本戦友連合会」も
昭和30年8月14日に
終戦時の自決烈士(特攻隊)の鸚彰慰霊祭を
昭和31年8月14日に
また 殉国緒霊鸚彰慰霊祭を
昭和32年8月15日には
大東亜戦争戦争殉国英霊祭を
それぞれに靖国神社内で執り行ない
昭和33年には同慰霊祭を8月15日 九段開会で実施

こうした運動にあおられる形で
ついに政府の全国戦没者追悼式も 
昭和38年から靖国神社のすぐ隣りの
武道館で 8月15日に開くことが恒例化していく

しかし 『ベルサイユのバラ』ブームや 田部井淳子さんによる女性初のエベレスト登頂昭和50年(1975) 遺族会の根拠を磐石にする
靖国神社法案が最終的に断念されたのは
軍人と遺族への国家の援助は
もう十分な水準を回復したと国会議員の大方が判断したからだ

にもかかわれず遺族会の票を頼む代議士ら
「8.15公式参拝」に力点を起き変え
運動を続けたのは いったん獲得した政治家への影響力を保とうと図ったからだ

三木/福田/鈴木と歴代総理 これに乗ったが
支那が中曽根総理に
それを中止させるという「外交上の大勝利」を上げたことから
今日までつづく靖国の本質には霞がかけられている

日清戦争中 靖国神社では 月毎に「戦勝悲願祭」が催行されていた
これが本来の靖国神社の仕事ではないだろうか

靖国神社は 維新前後は長州藩の団結の霊場であり 
日清戦争前後は国民国家が攘夷を勝利を祈る場所となったが
日露戦争後から陸海軍の私的宣伝施設のようになり
敗戦後は国民の軽薄腰向けぶりが悪影響して
近代日本の懴悔の場に変質されつつある

近代日本のために一命を捧げた戦死者が
8・15などという攘夷にとって不吉きわまる日に
わざわざ神社に呼び出されて
大きくお祭りしてもらいたいはずがあるかどうか
読者は常識で判断しましょう
2026/02/24(火) 晴れ


遺族の靖国神社 私物化


現在まで続いている「8・15と靖国の一致的強調」とは

東京裁判/マッカーサー憲法
大東亜戦争 日本の戦死者 全員 悪人
ゆえに 新憲法の政府
遺族年金も恩給も 支払う筋はない

しかし 一家の家族を失った遺族と 老齢の元軍人
戦後の食料難とインフレ 生きてはいけない
やむなく彼らは
「自分達は戦前政府の犠牲者だ」というポーズ
軍人恩給の復活運動を進めた

昭和47年ぐらいまでは 社頭での8・15の仰々しいイベントは抵抗
しかし 日本遺族会や旧帝国在郷軍人会/戦友会の何百万もの票をあてにした
政治家のパフォーマンスのせいで
次第に靖国と8・15とは大衆の意識上に重ねられ
国民の団結と国家の勝利を祈念し士気を高揚させる場だったものが
あたかも国家の「歴史反省」の場のようになっていった

日本遺族会の母体 昭和21年から翌年にかけ結成
その規約  第4条
「本連盟は………平和日本の建設に邁進すると共に 戦争防止と
世界恒久の平和の確立を期し 以って全人類の福祉に貢献することを目的とする」
早くもマック憲法の枠組み内で「犠牲者」「被害者」のスタンスに切り替えている

遺族会は昭和25年 参議院選全国区で大票田ぶりを発揮 
会長を当選させたが 恩給復活の法律は占領下であるためなかなかできない
そこで昭和26年2月 皇居に近い一ツ橋共立講堂で
「第一回全国遺族代表者大会」を開くなどアピールを重ねた結果
やっと昭和27年 遺族年金(年5万円)と弔尉金{ちょういきん}(十年国債)を
支給する通称 「遺族援護法」を成立
軍人恩給は7年ぶりに部分的復活

しかしいくら占領下とはいえ この7年間の政府の無為は
国民感情を致命的に不健全にした
このあたりから 遺族が靖国神社を私物化しようとする意図が露骨化していく
2026/02/22(日) 晴れ


本日は武道通信かわら版 配信日


“マッカーサー憲法”破棄
憲法改正
やっとこさ たどり着きそうだ

そのむかし  ビートたけし 
ツービート結成前後か
タクシー運転手アルバト
市ヶ谷へ向かっている途中
「三島由紀夫事件」のニュース

ビートたけし 後年
三島由紀夫の「檄」文
「これ憲法にしたらいい」
たしか 「新潮」で語っていた
讀んだ記憶
2026/02/20(金) 薄曇り


軍人恩給


1945年 敗戦
GHQ指令 翌年 軍人恩給 停止
軍人恩給
旧軍人が俸給から1%づつ積み立てていた年金
ある年数以上勤務した軍人 退職時月給の1/3 月々支給された

特に支那事変勃発後 戦地に1ヵ月いれば
平時に4ヵ月勤務したと同じように計算されて 受給資格 3年の内に
内地の景気もよかったことから
それによって優秀な兵隊が満期になっても
「こんな手厚い援護が得られるなら除隊せず 下士官になってずっと軍人でいようかと
思わせた

この軍人恩給 戦死した場合 遺族年金となる
たとえば二等兵で戦死し 死後二階級特進し 上等兵になった場合
一等兵の月給を基準に 遺族に年金が支給された

GHQ さすが傷痍軍人手当だけは残したが 
軍国主義の温床であったとして 打ち切った
当時 多くの人 たちまち家計に窮した

ここから 現在まで続いている「8・15と靖国の一致的強調」が
はじまることとなる

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白装束の 片足のない
傷痍軍人 路上に立っていた
五、六歳だった拙者に 
祖母 小銭を掌にのせ
渡してこいと
白装束の傷痍軍人が手に持つ 箱に入れた
祖母
敗戦後も 軍国婦人であった
2026/02/18(水) 晴れ


帝国陸海軍の私物


靖国神社の意義上の混乱が始まった
その一つが 旧暦→新暦 
旧暦 太陰暦から太陽暦の切り替え(明治6年2月)
このときどうやら切り替え 計算ミス
鳥羽伏見開戦記念日/上野戦争勝利/会津降伏記念日
函館降伏記念日
さらに 明治10年 西南役平定記念日
こんがらかって 
明治12年「東京招魂社」が「靖国神社」と改名に合わせ
大祭は11月6日を重んじ 他の大祭は廃止 
さりながら一年一回では物足りないので
ちょうど 半年ずらして5月6日を新設 年二回に

軍学者 これに「お彼岸」の発想があると
春分/秋分 遠い彼岸の西方浄土

ところが この大祭日 またやも変更された
明治38年  
アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊で結ばれた
日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約
ポーツマス講和(9月5日) 以降

海軍凱旋観艦式(10月23日)
陸軍凱旋観兵式(4月30日)に
この 年二回に
昭和の終戦まで続く

たしかに幕末からロシアの巨大な驚異を
武士でなかった国民が将士となって退けた日露戦争
「攘夷」のビックイベントであることは疑いもない
であるが
攘夷は日本という国民国家に生命があるかぎり
永久に必要な運動
それは一度や二度の戦争で済むものではない

ゆえに軍学者 これに異を唱える
特定の戦役の勝利を記念した大祭日を当座に定めてしまったのは
いかにも不見識であった
靖国神社の大祭として永遠にすさわしくあり続けるのは
伏見開戦の日か
さもなくば正月元旦だと思えなくてならない

靖国神社は 明治45年をもって
国民国家の神社から
帝国陸海軍の私物の神社に逆戻りしていまった
国家指導者の歴史観が浅簿{せんぱく}になった

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このたびの<早苗圧勝>
攘夷だと気付いている国家指導者 何人おるだろうか

『武道通信』創刊前夜
退社記念カードに こうメッセージした
「戦後半世紀
無抵抗にイエローヤンキー化した我ら日本人
己の心の身丈に合ったトポスを
見つけるための砦となるのが武道である
――『武道通信』創刊!」

一草莽の士の
「攘夷」宣言であった
2026/02/16(月) 晴れ


招魂


明治12年 東京招魂社 
靖国神社と名を改める
「維新政府の装置」から「日本国の装置」へ性質が変る
そして日露戦争を境に 戦死者は「英霊」と呼ばれる
藤田東湖『生気歌の詩』が出典

戦前/戦後 
合祀はあくまで
死者の霊を呼び寄せ 祀{まつ}ったり鎮める儀式
「招魂」であって
霊を慰め、冥福を祈る
「慰霊」の意味は薄かった
たとえば昭和12年11月18日 
支那事変 最初の戦没者慰霊祭
それは靖国神社 中心のイベントではなかった

東京招魂社 大祭日 当社 勤祭日といわれ
伏見で戊辰戦争の第弾が放たれた旧暦1月3日
上野の彰義隊が背走した5月15日
会津が降伏した9月23日
函館戦争が終わった5月18日

明治2年 
全国の官社や祝部〔はふりべ〕を支配する
神祇官{じんぎかん} 
この1月3日を「御一新の基」 大祭日とするを提案
しかし 政府 年一回では不満  同意しなかった
そこから靖国神社の意義上の混乱が始まった

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傘張り浪人 参議院選出馬の折
軍学者に連れられ 靖国神社へ
「勝ちます」と 
英霊の霊を呼び寄せ  誓う場であるから と
2026/02/14(土) 晴れ


遷都 江戸か 大阪か 薩長のいい分 


きのう  建国記念日
後年 2月9日 早苗記念日を呼ばれるか
そんなことナイカ

春に降る雪 木々に積もり 
葉を食い荒らす害虫
吸汁して樹勢を弱める害虫
幹に穴を開けるを害虫
らを凍死させてくれる

一方 小鳥たち 餌がなくなる
「一方を立てれば」 「あちらが立たず」

篤姫の母上 娘・於一{おかつ}に云う
「一方聞いて沙汰するな」
傘張り浪人 早苗に云う
「一方聞いて沙汰するな」

さて 靖国神社の興り

英/米/仏/オランダ 四国連合艦隊
下関海峡から長州藩(萩藩)を攻撃
馬関戦争
長州藩 その翌年
その戦死者を祀る場を現場近くに建設
これが慶應一年  長州藩の招魂社 第一号
「赤間関新招魂社」となって
以後 攘夷戦の死者 招魂社に分霊されるという習わしとなる

維新が達成された明治元年五月
寛永6年以降の志士の魂を京・都東山に祀っている
このときの勅嗣の主旨
「みをなげうち 皇国を挽回しようとした者をよみする
国家に大勤労あった者の名義を堙滅{いんめつ}させない」

明治元年六月二日 総監・有栖川宮 旧江戸城の西の丸大広間
上段の間に神座を設け 官軍戦没者のための招魂祭を執行
そして 明治二年二月 九段坂上に「東京招魂社」を設けた
これは翌三月に東京が正式に首都になるのに合わせた
(社殿の完成は明治五年)

その前に  ひと悶着
ここからは傘張り浪人の弁

薩摩藩  大阪を新首都にしたいと考えいて
その場合兵庫・湊川神社に靖国神社の機能を担わせるつもりだった
薩摩の大久保利通
江戸(東京)は旧幕府の力が強すぎる
新しい政府の体制(王政復古)を確立するには
幕府の色(武士の色)薄く 物流・経済の中心である大阪がふさわしいと
大阪を世界に開かれた商業・貿易都市として発展させ
近代国家の基盤とする狙い

片や長州藩は江戸
長州の木戸孝允
江戸 100万人の大都市
徳川幕府の主要な行政機関、施設(城)
インフラがそのまま活用できる
京の公家勢力 旧弊から脱却できる
伊藤博文
東北や北海道の鎮撫(ちんぶ)には東京のほうが地勢的に有利

明治二年 京都からの「行幸」の形で天皇が東京へ
そのまま定住する形となった
(正式に法律で首都を移す「遷都」ではなく 新しく都を定める「奠都」であった)

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日本維新の会 『副首都構想』実現のため
大久保利通の像胴建てたら いかがかな
2026/02/12(木) 晴れ


雪景色 つわものどもの夢の跡


♪窓をあければ〜
 積雪がみえる〜

雪 積もっていた
ベランダの桟 6cm
電線 3cm

隣家の屋根に雪ふりつむ
向家{むかい}の屋根に雪ふりつむ
シンとした 静けさの朝

開票速報
騒々しい今晩
明日 未明
雪景色 つわものどもの夢の跡

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祖父 脳梗塞で床に
祖母に
布団の上に地図を広げさせ
いま日本 どこまで攻め込んだかを
聞いていたそうな

真草や つわものどもの夢の跡
2026/02/08(日) 晴れ


靖国神社の原型 その心


「日本史は 開国と攘夷でだけで説明できてしまう」
『神武の精神』 の佐藤堅司 曰く
幕末から明治末にかけて
攘夷と開国どちらにも対応できそううな宗教は神道だけ
それは倒幕に都合よく また維新政府の天皇制の普及にも都合がよく
さらに未曾有の対外国戦争全国を団結させるあtめにも都合がよかったと
軍学者 考える

対米開戦直後 つくられた 『進め一億火の玉だ』
その二番 「靖国神社のおん前に 柏手打ってぬかづけば
父子兄弟らが 今頼むと声がする」
誰にでも説得的であったのではないかと 
軍学者 考える

靖国神社の原型
幕末の長州藩内 開国が攘夷で大きく割れようとしていた
そこで藩主毛利敬親 宗教行事によって君臣の結び付を再強化しようと考えた
(村上重良『慰霊と鎮魂』)

まず 藩史上の忠烈の臣を対象に 
毛利氏菩提寺(臨済宗)で仏式供養を行ったのが1851年 
つづいて 忠義の戦死者すべてを過去帳に載せ例祭日も定めた
その二年後の(ペリー来航の年)には 
こんどは神式にて忠死者 戦没者の招魂祭が行われた

軍学者 思うに
骨を納め 死者の直接供養をするのは江戸時代では寺でなければならいが
その仏式供養をいくら盛大にやっても 
藩主の臣下を思う気持は下々にも伝わるかもしれないが 
臣下庶民の気持ちが盛り上がってくるかといえば そんなに効果は期待できなかった
そこで君臣が一体となって気勢を高め団結心を固められるような祭式を欲する
のであれば 
やはり 死より生に向いた神式でなければいかんと
これは自然に考えられたのではないでしょか

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傘張り浪人 思うに
衆議院選 この高市ブーム
政府と国民が一体となって 
気勢を高め団結心を固めようと欲していると
考えられるのではないでしょか
2026/02/06(金) 晴れ


明日は武道通信かわら版 配信日


忙中閑あり ……杉山頴男
今号 強弓のもののふの話だ
『太平記』からの抜粋がある
一月二十九日付け 兵頭二十八氏
『平家物語』 『太平記』を比べている

拙者の比較はこうだ
『平家物語』  貴族の理念の物語
『太平記』  武士の理念の物語

元和偃武で 戦{いくさ}できなくなった武士たち
 『太平記』 が唯一の憂さ晴らしであった
そして それが
幕末 エネルギーとなって爆発
2026/02/04(水) 晴れ


判官贔屓


月が替わり二月となる
旧暦の正月 この二月の中旬である
旧暦と云えば
「ときは元禄十五年十二月十四日…………」
赤穂浪士討ち入りの日

旧暦 十二月十四日 
いまの世の新暦で云えば 
一昨日の31日であった
江戸の町 雪が振る時期であったが
あの日の夜 月がでていた
雪が降っていた方が 臨場感は高まる 絵になる
脚本家 雪を降らせた 
それはともかく

赤穂事件 朱子学界を二分させた
大義名分論(君臣義あり)でYesするか
幕府の秩序を乱す私闘ということでNoとするか
朱子学が掲げる「忠」と
社会秩序の「和」のどちらを重視するか
朱子学界を揺るがす論争を巻き起こす

庶民の江戸っ子
難しいことは分からない
判官贔屓で赤穂浪士を応援した

衆議院選も後半に突入
各党の公約 
多くの国民  信じていない
さて 判官贔屓 どこへ流れるか
2026/02/02(月) 晴れ


朱子学の最もいびつな部分


もともと 支那の歴史哲学では
人民の向背{こうはい}(従ったりそむいたりすること)が
天の意思とする
ゆえに 殷から周 周から奏 奏から漢 漢から隋
隋から唐 唐から宋と
漢民族の王朝が次から次へと交替するのも
「天=人民」がそれを望んだ結果であって
滅ぼされたしまった最後の帝王はすでに徳が失われていたのだ
と解釈されてきた

しかし 宗朝が北方の蛮族である金に圧迫され南方に逗寒{ピンイン}し
*逗寒→寒さを誘う 支那の詩歌に登場 日本語の辞書に無し 
最後は南宋の皇帝とともに 元に滅亡させられる(1279)

さすがに「これが本当に人民の意志なのか?」
知識人は疑がざるを得なかった
宗の道義や礼教は漢民族の正統なのであり
金や元は正当性のない夷荻{いてき}だから 
そんな革命や放伐は受け入れるべきではない 知識人はと断固主張した

ところが日本では 君主が間違っていたとしても
臣下{しんか}はこれに忠でなければならないという 
朱子学の最もいびつな部分(幕藩体制には最も都合の良かった部分)
が強調され 定着した
徳川時代の末期には 朱子学的論理が庶民である戯作者にまで浸透し
勧善懲悪の超大作『南総里見八犬伝』を生み出す
「南総」とは「南宋」のシャレで 一度傾いた君国を七生報国思想で生まれ変わった義士が復興して メデタシとなる

著者の馬琴は 清国が英仏に侵されつつあるニュースに強い危機感を受けていた
ちょうど 明が清に亡ぼされるとき 生きていた水戸光圀が
朱子学と太平記の思想で『大日本史』を集大成(これは孟子の造語)したのに 近い気分があったのだろう

しかし 江戸時代の朱子学の普及は 幕府の思惑とは裏腹に 
学者たちを理屈屋に変えてしまった
支那でも日本でも 「義(正しいこと)」を理屈で考えようとするなら
古代支那語をもっと正確に研究して 
孔子の最初のテキストの意味を再び採りなおすべきじゃないかと思うようになった
となると 孟子や朱子学すらすべて批判の対象となる
日本では そこから「国学」が興る
やがて支那よりも日本で先行するのだが その背景事情として
やはり兵学者による「七書」(孫子を筆頭とする七大兵学古典)の読解と 
江戸初l期の山崎闇斎{あんさい}が朱子学の異端だと称した
「武士道」の存在が大きかったと
(現在の兵学者 兵頭二十八氏は云う)

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武士道の「義」とは何か
理屈でも 知識や理論でもなく
身体性に根ざした 「生き様」「実践」

これに 気付いたのは 
祖父/父の戦国武士の「義」と
朱子学の「義」の「義」の間で
悶々としていた山本常朝の聞き書きをした
田代陣基であった
2026/01/31(土) 晴れ


大義名分


シャカと孔子 どっちが古い人か
インド側の文献が不足しているため よくわからない
しかし 日本に入ってきたのは まちがいなく 
孔子さんの儒教が先

その証拠の一つ
聖徳太子 十七条憲法
「以和為貴{わをもってとうとしとなす}」
論語に「礼之用 和為貴」とある
これを参考にしている 

支那では 
道教は貧民のもの
仏教はブルジュア
貧民 肉食禁止など庶民が守るわけない
儒教は政治家 帝王の特権階級ものだが
徳(徳治主義)と秩序(礼)で統治する
儒教の理想を皇帝の権力と結びつけた
中国の統治構造その代わり 
常に社会全体をどうしようかと考えていたのは 儒教だけ

日本の朝廷 まず儒教を学ばなければと思ったのは当然
仏教は個人救済色が強く
道教になると これはもう明白な「反政府」

歴代の天皇の名に多く「仁」がつく  もちろん儒教の影響
最初に用いたのは清和天皇 諱は惟仁{これひと}
藤原氏の天下になったのだから 天皇家はおとなしくくしていよう
という意味が込められていたのではないか
南朝の天皇が一人も「仁」を使わなかったのは
「臣下の言うなりにはなんらない」との気概かもしれぬ

さて 同じ軍記物でも『平家物語』と『太平記』とでは調子がガラリと変る
『平家物語』が長編詩のようであるに比べ 
『太平記』は とにかく小理屈が頻繁に出て 文学というよりは論文である
ただ 大儀に殉じる楠父子のキャラクターの強烈さ
理屈とリズムがタッグを組んでいる格好良さでは
新しい時代の「講談」に先駆けとなった

『太平記』が理屈が多いのは 
南北朝時代に大陸から朱子学が流入したからだ
朱子学は宗代に140年くらいかかって形成された儒学の一派で
「大義名分」を唱えた

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衆議院解散
「大義名分」が無い と野党
総理
「高市早苗が総理で良いのかどうか」と解散の大義と
この大儀に野党  更に批判轟々

南北朝時代に大陸からきた朱子学
いまの世の国会でも ハバを効かせている
2026/01/29(木) 晴れ


神は ホトケの弟子


ホトケに武運を祈る 武家以前 朝廷周辺から始まる
蘇我馬子 早くも西暦584年 百済仏(石仏)を本尊として自宅の庭に仏殿

仏教を日本全人民の頭の中に入り込ませたのが
本地垂迹説{ほんじすいじゃくせつ}
神はホトケの弟子

たとえば「八幡大菩薩」 
仏(如来)は悟りを完全に完成させた存在
菩薩は悟りを開くことを目指して修行中の存在であるため、
悟りの深さは仏(如来)の方が深いの「菩薩」 ホトケより悟りが浅い
平安時代から鎌倉時代にかけて広まる

話を元に戻し
西暦585年 馬子 政界のライバル 物部氏を攻め滅ぼす
そのとき馬子は同盟した厩戸王子(聖徳太子)は木から四天王像をつくり 
「今若し我をして敵に勝たしめば当に護世四王の為に寺塔を起立し奉るべし」
と誓う
日本でホトケに「武運」を祈願した最初の記録

天武天皇(大海人皇子) 
壬申の乱で勝利 自身が神と同一視されるまでに豪族間で権威を高める
にも関わらず 落飾{らくしょく}(髪を落とす)入道した最初の天皇は天武天皇
このあたりから 天皇が官寺を建てさせ 死なせた敵人の怨霊が暴れないように
祭ることが ごく普通になる
朝廷の武運長久は 仏寺に勅願される

そして庶民には 新しくやってきた仏法の理念で統治するから
いいんだ 偉いんだと思わせた
「鎮護国家」とは 
こうした祭政一致の精神をひっくるめて表す言葉
奈良の東大寺のような やたら巨大な堂字や高塔は
視覚によって政敵や庶民を威圧しとようとしたものだ

平安時代 政治闘争を反映して「勝」の字が付く寺が競って建てられた
「自分を勝たせたまえ」と祈ることに他ならない
南北朝に足利尊氏と直義が全国に建てた安国寺や利生塔
それから室町時代の義満が建てた相国寺は不特定多数の戦死者を弔う施設
死者の霊を慰め 供養するのは 骨が埋葬されている寺であって神社ではない
その寺の名は「俺が日本の政治を仕切り日本国の平和を維持する」と同時に
無名戦死者にも同情しているぞと宣伝していた

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本地垂迹説
誰が最初に考え出したのか
日本人の宗教観の柔軟さと云えば
恰好はつくが…………

古代の人々は、なぜ死者を埋めたのだろうか
その理由 まだ完全にはわかっていないが
腐敗を本能的に嫌う
腐敗した死体 病原菌や害虫を媒介する可能性がある
人々は死体を埋めて
これらの危険から身を守ろうとしたのかもしれない

兵頭二十八氏の論法 推し進めれば
死を「穢れ」と捉え 神聖な神社の敷地内に持ち込まない神社
しかし 埋葬する墓 寺にある
本地垂迹説 ここからではないか?
拙者の推論


2026 衆議院解散総選挙
その結果に推論は まだ
2026/01/27(火) 晴れ


武家が神の前で誓うのは


狩猟や戦闘で死を日常風物としていた 東北人
京都人の陰陽五行思想を信じても 何のご利益はない
源頼朝  東国(坂東)武士
五行思想の枠外で生きているという印象をことさら京都人に印象づけて
彼らに畏怖の念を起こさせようと図った

室田泰一 『鎌倉武士の精神』
源頼朝 法華経(天台宗)を信奉
石橋山合戦でも観音像と法華経念珠(数珠)を帯びていたが
日とか方位の縁起をかつぐことはなかった
(三代実朝になると公家と同じ迷信にハマる)

この頼朝や北条氏が持っていた武家の合理精神が受け継がれてかなかったら
日本が江戸時代に「近代」を準備することは到底難しいかった
しかし 武家の棟梁が 自分の死だけでなく 
一族や国家の未来の命運と常時向き合っているならば
あながち神仏祈願を捨て去ることはできない

頼朝 地元の鶴岡八幡宮に命じて
法華/仁王/最勝王などの鎮護国家の三部の経典
大般若経/観音経/薬師経/寿命経など片っ端から読誦させている
地元を離れれば 伊勢 鶴岡 鹿島 熱田 加茂別雷社などの神社に参拝を重ねる

これは神に救済を求めるのでなく 神の前で誓う 
すなわち戦闘者兼為政者としての決意を固める儀式だった
実朝の「おすがり信仰」とも無論異なる

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織田信長 桶狭間の戦いの直前
熱田神宮へ立ち寄り
今川義元の大軍を相手に必勝祈願と 
よく記されているが
コレ おすがり信仰ではなく
神の前で 必ず勝ちます と誓ったのだ

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神道 肉食 少しも忌む  不吉 穢れたことではなかった
これが平安時代 突如 京都で禁止された
人民の間であまりにも優勢である原始宗教と
それをバックにした反仏教の政治勢力を 寺院が弾圧するための政略
と唱える学者もいるが
支那の道教  長生きのため肉食はしない方が良い
としていたことも無視できない

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「近代」を準備することができなかった支那
ゆえに 日清戦争 敗北
この屈辱の心的障害(トラウマ)
いまの習近平支那共産党にも連綿と
これが「反日」の根元
2026/01/25(日) 晴れ


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