■由比正雪→山鹿素行 軍学塾ビジネス
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三代将軍家光の世 慶安四年(1651) 由比正雪の乱(慶安の乱) 由比正雪 経歴/慶安の乱 等 検索すれば情報ワンサカ 省こう
正雪 長じて江戸に出て軍学を講義 (学塾の名称「張孔堂{ちょうこうどう}」中国の歴史上で名軍師と称された「張良(張子房)」と「諸葛孔明」の二人に由来して名付けられた) 一時 門弟千人を超えた (ウキ検索では三千人とあるが千人超えが正しいだろう)
門弟 大名も混じっていたが99%は浪人 当時の譜代/親藩大名 まだ財政緊迫していなかった いつまた乱世がおこるやもしれぬと有能な家来の頭数を揃えていた ゆえに この慶安の世に浪人をしていたような武士 言っては悪いけど 無能な連中ばかり
火事だ!と騙され素手で飛び出したところうを捕まった丸橋忠弥(一味の実行部隊長)のことを想起するとわかるでしょう (歌舞伎のヒーローも いまの世の軍学者にかかると味噌クソ)
無能な連中ばかりであったが 正雪の非凡な経営の才を褒める このおびただしい浪人たち 束脩{そくしゅう} (入学金)/月並銭{つきなみせん}(月謝) 納めていたはずない と軍学者 むしろ逆に 正雪が「口入れ屋」(転職エージェント)となって各地の大名に就職を斡旋していた可能性が高いと その資金 どこかの大名 野心心からスポンサーに
のちの山鹿素行も 江戸市中で軍学塾を開いていた その門弟 大名も含めおびただしい数 幕府からすれば「由比正雪の再来」と懸念され 赤穂へ<流刑> 素行は明らかにすべての門弟から束脩や謝礼を徴収していて ビジネスとして成立させていた
武人のための「塾」がビジネスとして世間に認知されるようになったのは 享保期 八代将軍吉宗の世 家光の世から凡そ七十年後 吉宗 「享保の改革」の一つ 武芸の再興を図って幕府が武芸者を登用すると それで 最初の道場ブームが起きる
2026/06/29(月)  |
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