■日常の生活空間
|
<其ノ三> 【格闘技と武道――その決定的違い 同じ条件での勝敗は武道の一部であって全体ではない 勝敗を超える生活空間が戦場となる生死の戦いである 吉峯康雄】
本来は格闘技ではなかった柔道 空手 中国拳法までもが 格闘技という言葉でくくられる しかし これは実際にはきわめて危険な状態である なぜなら 同じ格闘技としてみられる」ことが何とも偏頗{へんぱ} (かたよった)な見解を生み出すからだと 吉峯氏{うじ}は最初に言う 決定的な違いは 戦いの場をどこに想定してるかであろう と
江戸の世の逸話を出す 尾張徳川家に某武芸者がいた 相撲好きな家老 お抱えの関取との試合を強制する 力士 廻し一つ 武芸家 大小を差して出てきた 行司 咎めると 「拙者は武士として立ち会うのだ」と一言 関取が掴みかかろとしたところ 素早く抜刀 袈裟懸けで斬って捨てた 「武士の勝負とは かくの如きものと心得まする」 その場を去った
これに対する反論があることを 吉峯氏 述べるが 最後に 「同じ条件で個人の強弱を比べ合う」ことは武芸の一部であって全体像ではない 武道において道場の稽古や試合は 演劇の楽屋や稽古場に過ぎない では舞台に相当するのは何かというと 日常の生活空間なのである
【武士の生死観では、山本常朝の『葉隠』の中で、将軍家の兵法指南である 柳生宗矩{むねのり}のところに入門を希望した者の話が印象的である。 宗矩はその若者をひと目見て「貴殿は一流に達したと見えるが、何故に入門を願うのか」と問うと「私は剣を一度も学んだことはありません。ただ幼少より、武士は命を惜しんではならぬと言いきかされてたので、普段もそのように心がけて、今では死を恐ろしいと思わなくなりました」と答えた。宗矩は感心して「兵法の極意はその一言である。 それならば、改めて剣を学ぶ必要はない」と印可の巻物を授けたというのである。 生死の悩みを解脱した者に、もはや兵法は必要でない、ということであるが、おそらく 武道が格闘技ともっとも相容れないのはここではないだろうか。】
2026/06/17(水)  |
|