■そして 荻生徂徠
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杉田玄白 「自分の医学開眼にあたっては一冊の兵法書」 書いた徂徠 【松岡 → 私は青年時代からしばしば徂徠を読んできたのだが、 その徂徠に兵学思想が満水していることは四〇代になるまで気がつかなかった。 『孫子国字解』なぞのほかに、先に紹介した『鈴録』二〇巻があったのである。 徂徠は白石の戦史にも対抗していた。】
素行 軍師のシンボル 物部氏の家系との自負 その徂徠が『鈴録』の冒頭に掲げた一句 「兵は国の大事」 徂徠 支那儒学を日本儒学に読み替えたように 孫子を読み替えた そして日本の兵学を「陣法」と「戦法」と「軍略」の 三つに分けて考えるべきだと最初に指摘した 「国の大事」にはこれらを混乱していては役に立たないと また それには「形と勢」「奇と正」「虚と実」を それぞれ分けて議論すべきだと
【松岡 →たいしたものである。いま、日本の軍事は「陣法」「戦法」「軍略」の三つのすべてがごっちゃのままにアメリカに負っている。 少なくともこれらを分別し、日本独自のものをもつべきであると徂徠は言ったのだった。 しかし、ここで話を最初に戻してしておくと、こうした徂徠の兵学が玄白の医学にも応用されたことである。「医は仁術なり」というけれども、むしろ医は武術なり」であった。 これは、江戸の儒学というものが二つの目的をもっていたことと関係ある。 ひとつは国政のための学問であろうとしたこと、ひとつは人間のための学問であろうとしたことである。 国政の学には当然ながら兵学が含まれている。もともと江戸幕府の国政は、秀吉の朝鮮戦役の失敗から学んでつくられている。 当時、世界最強といわれた日本の武士団が朝鮮の戦法に敗れたことは、江戸幕府をして根底的な組み立てに走らせた。国防論と戦争論を組み替えることこそが幕府の国政の第一義であった。 人間学には、医術が含まれる。もともと武は医の応用である、一打殺傷の技術も、致命傷を与えることも、あるいは間接技を決めることさえ、医学の論理に基づいている。 徂徠の学問は、そうした二つの学の頂点に立っていた。玄白がこれを学んだのは当然のことだったのである。 それにしても江戸時代の思想というもの、つねに自身の身体と進退を兵学としてとらえていたのである。】
2024/11/11(月)  |
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