■「武士道というは……」の一言に要約されているもの
|
最後になる 西部氏の言葉に耳を傾けよう
【西部 → 近代とはパーフェクティビリティ(完璧なものになれる資質)という概念が、 十八世紀中葉の啓蒙主義の時代に尊敬されたことからもわかるように、愚か者が大量発生した時代のことだ。だから武士道が過去の帳{とばり}のなかに隠れてしまったのは当然のことだ。-------- 精神に垂直運動を忘れた精神は、まるで蟹の横這い運動のように水平運動するばかりである。-------- 自分の精神は早々と錆びつき崩れ落ちていく。このアンバランスを耐えがたいと思うのは、我が国についていうと、是非をなく武士道のことを想い起さずにはおれなくなる。 事実、武士道というものが百年ほど前までは存在していた、という記憶だけが現代日本人のおけるモラル・マインド(道徳心)の証{あかし}となっている有り様なのだ。】
【西部 → 生きながられることを最高価値とすると、義を見捨てることの方が延命にとって都合がよいのである、というニヒリズムが強まる。つまり、人間の生命こそは一切のニヒリズムの温床であり、それゆえ生命尊重の価値にあっては、愚鈍であれ蛮勇であれ、狡猾であれ、許されることになる。 このニヒリズムの根を絶つ必要が「武士道というは死ぬこととみつけたり」の一言に要約されているのであるから、やはり偉い古人がいたものだというほかない。】 【西部 → 「right」は名詞としては権利であるが形容詞としては「正しい」ということである。物事の正しさはどこからやってくるのか。それが自らの欲望からやってくると思う人間だけが、人間の基本的権利などという。自らの欲望を伝統の精神によって律すべきだと考える者は、歴史と道徳に基づく人間の基本的権理を尊ぶ。日本の思想史にあって、<権利>を否定し<権理>を追い求めた者の代表が、やはり武士達なのだ。
−−−−−−★−−−−−− 福沢諭吉は『学問のすすめ』で「right」を「権利」ではなく「権理」と訳した 諭吉の「理」へのこだわり 一万円札の顔 福沢諭吉 消えた 武士道も消えた
2024/12/26(木)  |
|