HOME

アイコン
OLD NEW

“美”


柴田錬三郎
 『大菩薩峠』 机{つくえ}竜之助 念頭に書いたと云う
 『眠狂四郎』 

転びバテレンと武士の娘のハーフ
劍を円を描くように大きく回し 相手を誘い込んで斬る
アノ 円月殺法

映画  眠狂四郎 → 鶴田浩二  東宝(1956〜195)
当たらず
大映京都 眠狂四郎 →  市川雷蔵 (1963〜1969)
大当たり
その後 松方弘樹 当たらず
『眠狂四郎』 → 市川雷蔵 なる

シバレン(柴田錬三郎)
なぜ 転びバテレンに犯され生まれた子 にしたのか

シバレン 徴兵検査 乙種第三 召集 逃れるが
二年後 衛生兵として召集
輸送船で南方へ派遣される途中 米潜水艦の魚雷に遭い乗艦が撃沈
七時間漂流 奇跡的に味方の駆逐艦に救助される

シバレン 
敗戦国日本生きるに 
眠狂四郎になれとも云いたかったのか

『眠狂四郎』 と共に 大映の二枚看板となる 『座頭市』
原作 子母澤寛{しもざわ かん}  原作は 仕込み刀ではなく長ドス

映画化 三隅研次ら監督によって新たな人物像に
さらに 勝新太郎によって脚色・肉付けされる 

三浦氏
【人は、なにを“美”と感じるのかで、その人の生き方が大きく違ってくるように思う。美は理屈でない。その人間の真情であり、真情を基とした行為である。
たとえその行為がつたなくとも、時代に合わなくとも、そして古びていても、美は美であり、“美”と感じるか、感じないかは、その人間が祖先から受け継いできた遺伝子、感性、それに環境によって育成された感受性としか言いようのないものがある。
そんな私がここに挙げたい名品の一つがある。 】
三浦氏が挙げたのは
子母澤寛 『新撰組始末記』

子母澤寛の祖父 上野・彰義隊で闘い 五稜郭で闘い 
敗れのち北海道・厚田村へ
祖父の手ひとつで育てられた子母澤寛
賊といわれた祖父の無念の真情を 『新撰組始末記』に注いだ
讀賣新聞在社中 休日 十二時間も記者に揺られ京都へ
新撰組隊員を知る古老たちを訪ねた

机竜之助も 眠狂四郎も 好きになれなかった三浦氏 
近藤勇 土方歳三らに“美”を感じた

−−−−−−★−−−−−−
TVドラマ  『新撰組始末記』 (1961)
よく観たなぁ〜
近藤勇 → 中村竹弥 
三橋美智也の主題曲「あゝ新撰組」 良かったなぁ〜
♪武士という名に 命をかけて 新撰組はきょうも行く
レコード抽選にてプレゼント
当たる 届く あのペラペラのやつ
テレビ応募とやら これが最初で最後

ちなみに 母方のご先祖さん 幕臣
父方 越後長岡藩主 縁者
ともに戊辰戦争 敗者 賊軍
2024/08/26(月) 晴れ


丹下左膳


三浦氏 語りつづける
机{つくえ}竜之助のニヒルの系譜

東映チャンバラ映画 よく観たなぁ〜
中村金之助 大川橋蔵 東千之介らイケメン剣士より
大友柳太朗の丹下左膳 カッコよかったなぁ〜
右目がつぶれ 右手がない 隻眼隻腕{せきがんせきわん}
敵の刃 右目をはらい そして 右腕を薙いたのだ

丹下左膳の出現 昭和三年(1928)
林 不忘{ふぼう}  『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』
これを伊藤大輔が映画化
丹下左膳 → 大河内傳次郎{おおこうち でんじろう}
豊前なまりで「シェイハ タンゲ ナハ シャゼン」
このセリフ 大友柳太朗の丹下左膳も吐いていた気がする

歌舞伎にはじまり 映画会社もこぞって丹下左膳
東亜キネマ →  団徳麿
マキノ・プロダクション →  アラカンこと嵐寛寿郎
日活 →  大河内傳次郎
筋書きもさまざま それぞれ独自の魅力を発揮して大ヒット
だが 衣装は 黒襟の白の着流し これも戦前から戦後へと引き継がれる

敗戦後 嵐寛寿郎は<鞍馬天狗>
よく観たなぁ〜

ニヒルな剣客像  机龍之介から
大佛次郎 『赤穂浪士』の堀田隼人
土師清二『砂絵呪縛』の森尾重四郎
そして 敗戦
そして 『眠狂四郎』 現れる

つづきは 次回

−−−−−−★−−−−−−
チャンバラ映画 
刀と刀がぶつかったとき 
刀の発する音を擬音で「ちゃんちゃんばらばら」と表現した
それを略してチャンバラ映画と呼ばれた

チャンバラ映画も終焉を迎えるときがきた
昭和三十七年(1962) 『椿三十郎』
あのラストシーンの殺陣
台本には ひと言 「一瞬で決まる」
殺陣師(久世竜) 居合術から考案し
椿三十郎(三船敏郎)/室戸半兵衛(仲代達矢)と
何度も何度もリハーサル
で あのラストシーンの殺陣
2024/08/24(土) 晴れ


大菩薩峠


三浦氏
<日本の敗戦は私が大事にしていたものすべてを突き崩した>
教科書からは“忠” “孝”の文字が消され
柔剣道 軍事訓練は廃止
読み物からは“義理人情”さへなくなったと
変わって出てきたのは “自由主義” “民主主義”
きのうの悪が善になり 善が悪になった

中学一年歳  三浦実 
ただただ うろうろしていたと述懐
軍国少年であったろう  拙者の叔父
ハングレになったと述懐していた

三浦氏 そんなころ出合ったのが 『大菩薩峠』 
情も理も無視して己の欲するままに人を斬り 女を犯し
無目的に生きる 元・甲源一刀流の盲目の剣士 
机{つくえ}竜之助

三浦氏 そんな竜之助の剣に少しの美しさも感じなかった
竜之助のようなニヒルな武士を主人公にする作者
中里介山{なかざとかいざん})
真の武士を知らないのでないかと

 『大菩薩峠』
大正二年(1913)から昭和十六年(1941) 三十年近くにわたる
四十一巻にのぼる一大巨編 長編時代小説
『都新聞』『毎日新聞』『読売新聞』などに連載
で未完 なぜならば 中里 昭和十九年 没

中里介山
明治十八年生まれ 西多摩郡羽根村(現・羽村市)
軍国少年三浦氏からみれば<悪>の人だった
幸徳秋水/堺利彦/内村鑑三の社会主義者と親交を結び
「大逆事件(幸徳事件)」
中里の交友関係者の中からも多数の逮捕者・刑死者 出す

中里 剣とは無関係  郷土からして甲源一刀流は知っていたろうが
竜之助の「音無しの構え」
相手が討ってくるまで動かずに相手がしびれをきらして
斬りかかってきたところを討つ技
相手の刀と一度も刃を合わさず音が鳴らないので音無し

どこから考案したのか
藤沢周平と同じ 剣術者からの取材からか

藤沢周平 なぜ『蝉しぐれ』 書いたか
“城下町” 書きたかった
いまの世の 私たちが還りたいと願っている日本があるからだ

中里介山 なぜ  『大菩薩峠』書いたのか
なぜ 四十一巻も書きつづけたのか 

軍国少年三浦 大人になり知る
 『大菩薩峠』 
「登りの道は救菩薩 下りの道は下化衆生{げけしゅうじょう}」
という仏教の教えに着想を得ていたことを
*仏語:上には菩提 (ぼだい) を求めると同時に
下に向かっては衆生を教化 / 救済 すること

中里介山
救済されたくて でも
がなかなか 救済されなくて 書きつづけていたのか

−−−−−−★−−−−−−
安岡章太郎だったか
入院し ベッドでの退屈の日々 
 『大菩薩峠』 完讀してやろうと思ったとの文章を讀む
わが街の図書館 全巻揃っている
よし 讀んでやろう
記憶では一、二巻で挫折
安岡章太郎も完読 できかかったのではないか
吾ら すでに救済されていたから
2024/08/22(木) 薄曇り


武道通信かわら版 配信日


きょうも “太陽がいっぱい” か
きょうも 受験生 酷暑にマケて “受験生ブルース” 唄っているか

jジョー・ブラックによろしく
2024/08/20(火) 晴れ


軍国少年


【懐に時代小説、心に日本刀  時代小説礼讃!】
十ノ巻  
【立川文庫から時代小説遍歴
軍国少年 日本男児の理想と正義
男らしく戦って、いさぎよく死ぬ、少年期のこの死生観は、
戦時下の時代と立川文庫的小説によってつくられた。】

藤岡 弘 拙者らの敗戦後少年より 
一回り上の 軍国少年
マガジンハウス「鳩よ!」元編集長 三浦 実

小学生あがる前  立川文庫表紙 
《そこに描かれた勇壮な武士の姿に 六歳の私は強烈な“美”を感じた》
祖母から話は聞いていた 赤穂浪士
小学生低学年では 吉川英冶/大仏次郎らの講談社版
小学生高学年では 立川文庫  『真田幸村』 『猿飛佐助』 『霧隠才蔵』 …………

立川文庫
明治末から大正にかけての、「書き講談」による文庫本シリーズ
一九六篇 刊行
小学生・三浦氏 もっとも好きだった 敬愛したのは 真田幸村
敗北を覚悟した<敗者>だったからだ

《そうした小説上の人々と私が親しく交わっていたのは、国が国民に見事に死ぬことを求めていた太平洋戦争の真っただ中だった。…………
時代の空気と、私の読む小説がぴったり一致していたといえる。私は自分の机に
“花と咲き、花と散れ”という言葉と
“勇敢は男子第一の美徳。情弱は男子一の悪徳”という
薩摩藩の兵児教育のスローガンを書いて貼り付けたりしていた。そう生きたいと心から願っていたのだ。
小学生の私は、天皇と国のために一身を捧げること悔いなしと考える軍国少年だった。
男らしく戦って、いさぎよく死ぬ。それが日本男児として生まれた者の最高の理想であり、正義だと思ったからである。
私のそうした死生観は、戦時下という時代と立川文庫的時代小説によってつくられたものだった。
しかし、日本の敗戦は私が大事にしていたものすべてを突き崩した。》

 颱風の去って 酷暑 カムバック
つづきは 次に

−−−−−−★−−−−−−
藤岡 弘 拙者らの敗戦後少年も軍国少年ほどでもないが
<死>は身近なものだった
戦死者の話 十分 聞いていた
空想の時代劇の中で 何度も斬られたし 切腹していた

恐山の禅僧 曰く
「前向きに考えよう  やりがいを持とう 
という“ポジティブが善”の風潮が強まる中で
ネガティブな感情を言葉にできない若者が増えている

<死>を遠ざけた結果である
2024/08/18(日) 晴れ


敗戦記念日


【蘇れ!日本刀
少年時代に観た時代劇が、いまの私の夢を育む
藤岡 弘】

藤岡氏とは同じ昭和二十一年生まれ
同じ敗戦後少年 
気分はシンクロされている

あっ そう きのう敗戦記念日
そう 軍学者 昔 云っていた
敗れたと宣した八月十五日 
靖国参拝するのは 英霊に失礼だ

藤岡氏に戻す
原稿依頼の際 自宅訪問
快諾  このような本にぜひと
先に弊誌を送っておいた

あっそう 藤岡氏にはチャンネル櫻にも出てもらった
(『週刊 武道通信TV』)
拙者と同じ “育ちの良い“敗戦後少年だった

次 
1ページコラム「床几」
【ライフルと白鞘{しらさや}  佐久間保男】

ライフル射撃選手/指導官(自衛隊)が鞘師になる
佐久間 →  射撃はその日の温度、湿度、風向き、試合会場の地形といったあらゆる状況を計り、周到な準備をした上で精神統一をし、標的に向け狙いを定め引き金を引く。冷静な判断と精神統一が大事な競技。

佐久間 →  (鞘の基本の)白鞘づくりは、まず材料の選定、木取り、板割り、形取り、鞘と柄の部分の切り分け、刀の形に形取りした面を鞘専用の鑿{のみ}を使い、直線面、曲線面を掘り込んで、刀にピタリと合わさるようにする。その呼吸はライフル射撃と共有するものがあった。

ライフル射撃→鞘師
伏線があった
父が愛刀家 / 刀づくりの伝統が残っている新発田市へ移転

刀 本身だけでない 鞘があって一人前
拵えの鞘 白鞘にはじまり白鞘に終わる
刀剣文化のひとつである白鞘づくりを守りつづけたい

−−−−−−★−−−−−−
その昔 グアム島へ行った
地元のニイチャン 二人  日本人観光客相手に
チャチな射撃場やっていた
記憶では15mほど先に的がある 掘っ立て小屋
小型のリボルバーだった気が
一発 撃った
的に当たった
二人のニイチャン 真顔で驚いていた

グアム島の戦い
総司令官 自決 
約二万人の日本兵 斃れる
2024/08/16(金) 雨


Summer Holiday

あ〜 あしたから夏休みだ〜
学校から 家路に向かう
沼津第二小学校 正門jからの一本道
心で叫んだ 小学生の記憶
四、五年生だったろうか

ランドセル背負って 走っている自分も
オーバーラップされて
記憶の引き出しに しっかり入っている

学校からの開放
朝 学校へ行かなくてよい
一日 何をするか自分で決める
三角ベース  海水浴 漫画貸本屋…………

海水浴 小学生一、二年 保護者同伴
波際で バシャ バシャやっているのを
祖母 日傘差して じっと 見ていた

こう 暑くちゃ 本日は
Summer Holiday
2024/08/14(水) 晴れ


金メダル


jeux olynpiques de paris 
も終わった
レスリング 金メダル 8個  銀 1  銅2

昭和生まれは知っている 
レスリング なぜ「お家芸」になったのか
八田一郎 よく知っている

八田一郎
「ソ連がレスリング強いのはサンボだ」
日本人 「サンボ」 なんて知らなかった
「ちびくろサンボ」は知っていたが

1963年 ソ連からサンビストを初来日させる
1965年 日本サンボ連盟を設立  ビクトル古賀(古賀正一)をソ連に派遣

−−−−−−★−−−−−−
週プロの1ページコラム
「格闘技通信」
サンボからはじまった

格闘技ファンにサンボ熱 高まる
倉庫に長年 眠っていたスポーツ新書『サンボ』 バカ売れ 重版
新刊 佐山聡 『これがサンボだ!』 バカ売れ 重版

週プロ増刊「格闘技通信」 バカ売れ
「格闘技通信」  単独創刊 
空手 柔道 レスリング ボクシング 中国武術…………

「格闘技通信 サンボツアー」 実現
団長として二十名ほど連れ ハバロスクへ 
応募者多くは 柔道 レスリング経験者

ソ連サンビストから基本技学ぶ  して模擬試合
最終日 ハバロスク大学 体育館で日ソ対抗戦
一人ぐらい勝てた者いたか……  惨敗との記憶

「格闘技通信」  総合格闘技の扉 こじ開ける
それまで
どの辞書には「格闘」 しかなかったが
それ以後 どの辞書にも「格闘技」 出現

拙者 金メダリスト編集者 と云えなくもない
ベースボール・マガジン社  金メダル 1個

金メダリスト編集者とは
時代の精神みたいなものと 格闘し 
つぎの時代を読み解く者
2024/08/12(月) 晴れ


真剣勝負


【『蝉しぐれ』の剣戟
小川 武(神道無念流剣術代十代)】
 
小川」氏 日本武道館刊行『月刊武道』編集部におられた
杉山頴男事務所 立ち上げの前
禄を食んでいた時分 近場なので 編集部には ときどき お邪魔していた
それを思い出し 原稿を依頼した次第
 
藤沢周平 『蝉しぐれ』の主人公 牧文四郎の剣戟を
古武道を修練する者が“創作/フィクション”を分析するとの意図である
 
その真実性はともかく
剣道/剣術には無縁だった藤沢周平
小川氏 → 藤沢周平氏も、どなたかに話を聞くとか、それなりの研究はしていのではないか。そうでなければあそこまで、迫真ある撃剣シーンは描けないではないかと思うのだ。
 
「形」についても語る
小川氏 → 形の修業は二十年近く打ち込んで、どうやら形武道の真髄が薄っすらと理解できるようになるが、人はすぐに形のいろいろな場面をいろいろと理由づけする様になる。
それは向上心の表れであるが、わずか数年で理屈を捏ね回すのは控えた方がよい。なぜなら伝統ある業自体に理屈を越えた内容や力があり、……
 
天然理心流の《違った筋を使いたくなるが 変化した側は必ず負ける その経験から じっと我慢する それが「根」 》に通じるものがありそうだ。
 
この原稿で 圧巻だったのは これだ
小川氏 → 幕末の戊辰戦争で実際の真剣勝負を体験された、明治の元勲渡辺昇、
神道無念流宗家関東派初代根岸信五郎の両先生が、このように話された。
「真剣で対峙するということは、実に怖ろしいことで、普段の道場稽古では考えられない心境に追い込まれるものです。喰うか喰われるかの場面では、二間、三間でも対峙した時から真剣勝負の葛藤が始まり、何回やっても間合いなど頭に来ないものだ、ただ意を決して斬り込んで行き、チャリンと音がして決着がつくもので、ただ捨て身で相手にぶつかる以外、活路はない」

先述した
《ときどき、階上から近藤のすさまじい気合が、落ちてくる。》
《「近藤先生が斬り合っているところは見えなかったが、ときどき物凄い気合が聞こえた。えっおっというかん高い声は、姿が見えないが、我々の腹の底へもびんびん響いて、百万の味方にも勝{すぐ}れた》

えっおっ  というかん高い声とは
恐怖心を追い払うためではなかったか
初代近藤内蔵助  
農民たちに  まずは 恐怖心から逃れる方を教えた

−−−−−−★−−−−−−
鎖帷子剣士との撃劍試合
刃引きといえ 防具は完璧
終わって 防具 道着を脱いだとき
臭かった  油汗 かいていた
2024/08/10(土) 晴れ


床几{しょうぎ}


いまは亡き 平井師範からの聞き書き 天然理心流の秘伝
次 
1ページコラム「床几」

この「床几」とのタイトル 思い浮かんだのは
「武道通信」 まだ企画中のころだった
いまはない 国立駅前の本屋で棚を見てまわっていたとき
突然 降って湧いた  棚にある本とは無関係だった

いま吾らが床几を見るのは 戦国時代映画
野に陣営を張るとき 大将ほか主だった武将が腰かける
折りたたみ式腰掛

この「床几」のカット
いまはない 古本屋の店主に紹介してもらった
初老のアマチャア画家 原稿料受け取らなかった
いまは亡き人になっているだろうか

タイトル 「刀剣商の小学校巡回」
川島貴敏{たかとし} (刀剣商 泰文堂)
小学生三年の娘さんから
「おとうさん 火縄銃 お店にないかな」
歴史の授業でポルトガル船が種子島に漂着したところを来週やる
先生から頼まれたと
店主 大筒一挺 学校まで運び そのまま仕事へ

その夜 帰宅し 娘からの報告に びっくり仰天

校長先生  特別授業とし 全校生徒を講堂に集めた
全校生徒 <実物>を鑑賞
先生たちも驚く 大フィーバーとなった

鎧や刀 鑓も実物を見てみたいとなった
これが  全国刀剣青年会の小学校巡回ボランティアのはじまりとなった
「あーこわい」「わーきれい」
どの会場でも 刀を目にした子供たちの反応

−−−−−−★−−−−−−
いまはない 国立駅南口前 喫茶店 「邪宗門」
店内に火縄銃が飾ってあった
 「邪宗門」 店主 時代考証家・名和弓雄氏の実弟
お二人とも いまは亡き人

−−−−−−★−−−−−−
ふと 思い立ち
天然理心流稽古場まで足を運んだ
テレビ撮影が行われていた
女子剣士が増えていた時期だったからだろか
平井師  気分が悪くなり救急車で搬送された
それが最期となった
拙者と同じ 昭和二十一年 生まれであった
奇縁とも 云えなくもない

2024/08/08(木) 晴れ


寛政の千人同心


jeux olynpiques de paris
TV観てたら 思い出した
弓道/剣道/居合 やる前
フェンシング やった
友人  フェンシング部つくろうと
ふたりして 剣 買った
暇をもてあましていた留年時だろう

フェンシング剣  三種ある
フルーレ/エペ/サーブル
フルーレ 初心者用
ならばフルーレ だったろう
袋に入れた剣もって 学内 歩いていた記憶だけ
三日坊主で終わったのだろう

フルーレ → 背中を含む 胴体のみの<突き>だけが有効
エペ →  足の裏も含む 全身の<突き>だけが有効
サーブル →  頭 腕を含む 上半身に<突き・斬り>が有効
(日本刀と違い両刃)

中世の西洋剣術にも 流派はあったのだろう

−−−−−−★−−−−−−
天然理心流 免許皆伝の懸位にある
「浮き島の位」 こうある
<荒海の水につれそう浮島の沖の嵐に心うこかす>

懸位とは遠く隔てた位との意味であろか
天然理心流の極意中の極意か

旧かな 新かなに直すと  濁点が入る
<嵐に心うごかず>
「時代の荒海がこようとも そこから動くな 根だ」
とでも解釈しただろうか 近藤勇
近藤勇 「浮き島の位」  土方歳三に話しただろうか
話していたはずだ

天然理心流の≪根≫ 
寛政の千人同心
敵は西から来る 倒せ
幕府を守れ
2024/08/06(火) 晴れ


あす 武道通信かわら版 配信日


朝廷の内部抗争 武士の力を借りた
保元の乱  平治の乱
 『保元物語』 『平治物語』を生む
結果  武士の存在感が増し
源平合戦の 治承の乱 寿永の乱へ
『平家物語』を生む
盛者必衰の理をあらはす

猛暑必衰の理をあらはす のは いつであろうか
2024/08/04(日) 晴れ


合気術


『燃えよ剣』で 百姓剣法と蔑まれた天然理心流
それは 二代目 近藤三助 戸吹村(八王子市)
三代目 近藤周助も小山三ツ村(町田市)
四代目 近藤勇も上石原(調布市)の宮川久次郎の三男
皆 庄屋 豪農といっても農民出

二代目 三助 合気術の達人
初代内蔵助 死に際に授かったとの逸話だけ残る
合気をかけられた者 身動きできなくなる
二代目以降 伝えられていない
中極意目録免許の内に
「木刀五本は当流の表なり 気術を増して行うべし」
<気>は連綿と伝えられていった

『燃えよ剣』 池田屋の章
近藤勇以下 沖田総司らが池田屋に踏み込み 斬り合いになるシーンがある
《「土方先生、二階は近藤先生と沖田、永富の両君ぐらいでどうやら苦戦しているようだ。
土間は私が引き受けますから、様子を見にいらっしゃればどうです」といった。が、歳三は、動かなかった。副長として階下をまもって近藤にできるだけ働きやすくさせ、…………ときどき、階上から近藤のすさまじい気合が、落ちてくる。「あの調子なら、大丈夫さ」と歳三は笑った。》

『新撰組異聞』  谷三十郎
「近藤先生が斬り合っているところは見えなかったが、ときどき物凄い気合が聞こえた。えっおっというかん高い声は、姿が見えないが、我々の腹の底へもびんびん響いて、百万の味方にも勝{すぐ}れた」

二代目以降 伝えられていない合気術 
<気合>とし四代目まで伝えられていた

また こんな逸話も
日野の佐藤彦五郎の道場で沖田が稽古していたとき
歩いて十二、三分かかる渡舟場まで聞こえたという

−−−−−−★−−−−−−
野稽古 日本刀の重さある木刀 腰には差さないで 手にし
雑木林の中  「エイ! ヤー! トウ!」と  
歩いて二十二、三分かかる西国分寺駅まで 届くように気合を発す

その昔 土方歳三の墓に足を向けたとき
墓石の上に花束が添えられていた  境内で若い女性の姿があった
『燃えよ剣』 の威力 さまざまと実感

足を伸ばし 多摩川川べりへ 人影もなかったので
むかし あったろう渡舟場あたりで「エイ! ヤー!」と発した
2024/08/02(金) 晴れ


八王子千人同心


江戸開闢  して 家康  遺言
「敵は必ず西から来る」
家康 江戸の西の守りとして
甲州武田の遺臣団 八王子とその近郊の村に土着させる
ここは江戸の水源地であり 
日光と鎌倉街道 そして東海道と甲州街道の交流点
江戸の守りとしてつくられたのが
八王子千人同心

とき寛政  露西亜/亜米利加/英吉利 開港を迫る
先の天明打ち壊し一揆 全国の広がっていた
内外に不穏な動き
そんなとき 松平定信 老中に
松平定信  家康の遺言 思い出す
定信 八王子千人同心 再編成せよ との命

ここで 平井師の疑問に戻る
武州多摩の地に 古くから柳剛流 甲源一刀流が根を張っていた
そして八王子千人同心も 稽古はしなくなったがプライドだけあった

なのに 初代 近藤内蔵助 すんなり入れたか
ましてや三鷹から八王子までは 領地(尾張徳川) 幕府の鷹場でもある
人の出入りには厳しかったはずだ
研究書のいくつかを読んだが 書かれていない

史書の事実はないが 状況証拠はこうだ

近藤内蔵助 江戸両国薬師堀に道場を持っていた
表看板 尾張柳生一門 裏は「お庭番」
近藤に命が下る  武州多摩へ行け

これは幕命 
柳剛流 甲源一刀流 主にも密命として伝わる
これが「すんなり入れた」理由だ

こんな史料が残る
寛政八年(1796) 相模国の門人
「切り紙」「目録」を 
同年 武州多摩の門人も同じく
相模国まで行っていた
海防のためであろうか
両国薬師堀の道場の門下生たちも動いていたのではないか

内蔵助  没  資料に残る
文化四年(1807) 没す 享年は不明
2024/07/31(水) 晴れ


近藤内蔵助


天然理心流 習いはじめたころ
平井師範の弟と 同輩とみえる門弟
ふたりして 極太木刀で ゴンゴンと音をたて 打ち合っていた

天然理心流だけが使う木刀
大店の武道具店だと「天然理心流の木刀」とある
長さ102cm 元の太さ20cm 先は5cm 重さ2k
元 半分しか握れない
手首を鍛えておかないとヤバイ

この図太い木刀 
天然理心流初代 近藤内蔵助{くらのすけ}が
鹿島神宮で折れた枝を拾って
木刀の代わりにしたのがはじまりだとのハナシ

拙者 想うに このハナシ フェイク
手首と握力を鍛えるため
『刃隠』で旗谷さん 語っている
くそ握りでなければ(動物/人)斬れない

天然理心流 開祖 近藤内蔵助
素性 はっきりしない
天保十四年(1843) 刊行 『新選武術流祖禄』
<遠江の人 刀術に優れ 天然理心流を名乗り
門人に近藤三助というものがおり 武州八王子にその門人多し>
とだけ
*遠江=静岡県西部 遠淡海{とおつおうみ} (浜名湖)のある国の意味
ちなみに 近藤勇 天保五年生まれ  土方歳三 天保六年生まれ

鹿嶋神道流系譜に 近藤内蔵助の名があることから
<遠江浪人 諸国を漫遊し 修行し  鹿嶋神道流を学び
晩年 天然理心流を完成させた>
との通説が生まれた

この天保十四年  「町人の武芸禁止令」 
 『燃えよ剣』にも出てくる
「位は桃井 技は千葉 力は斎藤」 武芸好きな江戸っ子の通説

桃井 → 桜井八郎 鏡新明智流{きょうしんめいちりゅう}の士学館
千葉 → 千葉周作 北辰一刀流の玄武館
斎藤 → 斎藤弥九郎 神道無念流の練兵館
他にも小野派一刀流 直心影流 東軍流などが競っていた
町人 剣術ブーム なぜ生まれたかは 置いておこう

新撰組  京の 「池田屋事件」(1864)で名を馳せた八年前
京へ上る 浪士組{ろうしぐみ})が結成された九年前 万延元年(1860)
『万延元年武術英名禄』 刊行
関八州(関東) 諸流派 分別わかる 剣術紳士録 まあ高段者というところか
これを見ると
柳剛流一四九名  北辰一刀流一三六名
つづいて 天然理心流 神道無念流  共に六十四名
甲賀一刀流 三十二名  小野派一刀流 直心影流 共に二十七名
全二十二流派中 天然理心流 三番目

 『燃えよ剣』
≪(浪士組応募)檄文 江戸府内おろか近国の剣道道場へ飛ばした。「檄文?」
近藤は、不審である。「この試衛館にはきていないが」「それは」山南は、気の毒そうな顔をした。江戸では安政中期以来、剣道道場は三百近くもできたが、こんな聞いたこともないような百姓流儀の剣道道場にまで檄文がまわって来るはずもない。≫

司馬遼太郎  『万延元年武術英名禄』 手にしていたろう
小説では 試衛館は百姓流儀のいも道場でなくてはならない
小説はそれでいい
小説は歴史的事実を伝えるものではない 
空想的空間をつくりあげ 人々の心を躍らせるものだ

歴史的事実の近藤勇 土方歳三 
檄文の内容 とうに知っていた
江戸城本丸から直に届いていた
2024/07/29(月) 晴れ


天然理心流の秘伝


天然理心流 習いはじめて 一年後あたりか
平井師範 拙者に こういった
四十二年にわたり当流を修行し 身をもって実感していることがある
このときから 何年 経っただろう

十ノ巻で “証言”された (拙者の聞き書き)
【天然理心流の秘伝  
平井泰輔{たいすけ} 天然理心流九代】

補:天然理心流 四代・近藤勇→五代・甥で養子の近藤勇五郎 
六代・不明 七代・近藤新吉 新吉の撥雲館道場で教えを請けた
八代・加藤伊助 平井師範 中学のときから加藤伊助に師事

さて 平井師範が語る<秘伝>とは
司馬遼太郎 『燃えよ剣』が創り出し 通説となった
天然理心流
試衛館{しえいかん}
新撰組
木っ端微塵にするものだった

平井師範の「身をもって実感」したのは
天然理心流 勝つための剣法でなく 相打ち剣法ではないか
一人“探索” はじまった

新撰組隊士末裔から切紙 五本の形を手に入れる
序中剣{じょちゅうけん}  平正眼{ひらせいがん} 斜剣{しゃけん}
手鏡剣{てかがみけん} 山形剣{やまがたけん}

五本とも脇構えからの相打ちだった
真剣は重い 長く構えていると脇構えが楽だ
古くからある実戦に即した構え

相打ちは まず相手の力を凌ぐ力がなくてはならない まず「力」である 
相打ちの太刀筋を何度も繰りかえしていると
違った筋を使いたくなるが 変化した側は必ず負ける
その経験から じっと我慢する それが「根」
<力と根>が天然理心流の基本  加藤伊助師から教わる

 『燃えよ剣』  
≪実をいうと天然理心流という野暮ったい喧嘩剣法で、近藤などは一つ覚えのように
「一に気組、二にも気組。気組で押してゆけば、真剣、木刀なら必ず当流は勝つ」といっていたが、道場の試合は弱い。≫

「力」と「根」が 「気組」となったのだろう
司馬遼太郎 執筆にあたり 膨大な資料 手にしたことだろう
その中に「気組」 あったのだろう
 
初入門許された者 最初にもらう
目録免許 に「決心」の項
人は生まれながらにして器用な者と不器用な者にわかれる
だから不器用な人は人が稽古を一やれば百やれ 人が十やれば千やればよい
といい 「唯士道一息裁断の勝負」とある
これを近藤勇 こういったという話も加藤師から聞いた
「なあ〜に 剣術なんてものはな 勝負なんぞにこだわらず
常に稽古してりゃ〜いいのさ
体さへ動かしてりゃ〜いざというとき 誰だって仕事ができるもんさ
修羅場に立ちゃ〜上も下もね〜」
 
「血判神文書」も 残っていた
あらゆることが門外不出とされている
当時の人の血判は いまの世の者には想像できない
なぜ農民が多い入門者からも そこまでにして秘密を守ったか

天然理心流の秘伝
次回につづく
2024/07/27(土) 晴れ


雑感

 
話はつづく どこまでも
佐川幸義のつづき → 織田信長 →日本人の原動力 → 西郷隆盛
 
前田 → 塩田先生 腰をピッと張れと
腰の張り方がすごく大事だと
★拙者 誰に云われることなく 腰の張り 大事だと
角帯をするようになる
ゆえに 通常着 和服となる
といっても 野袴に筒袖
 
津本 →九十五歳 風呂につかりながら眠るがごとく亡くなる
★入浴中 浴槽内での年間死亡者数は四千人
交通事故死者数とほぼ同数入浴中のウトウトは失神と同じ
拙者 湯船につかるのは ぐっすり寝たあとの早朝
ぬるま湯で三十分 ほど
気をつけるのは 湯船から上がるとき ゆっくりと
 
津本氏 → 織田信長 もうちょっと生きていたら
ヨーロッパより先に産業革命をやっていた
困難にぶつかっても工夫し乗り切っていく
知恵や戦国時代のエネルギーはなくなっていない
★この対談から四半世紀たった
津本氏 享年八十九 肺炎
墓場の陰から何を思う

津本氏 → イギリス公使 オールコック 『大君の都』
その中に日本は強い 日本人一人に俺たち二、三人でかかっても負けるかもしれない
一対一では日本人の方が強いと書いてある
★祖母 『大君の都』 讀んでいたわけではないが
敗戦後少年の孫に云った
「日本の兵隊さん 一対一なら負けなかった」

前田  → いま『現代小説』に西郷隆盛をお書きになっていますが
『下天は夢か』で信長を 『夢のまた夢』で秀吉 『乾坤の夢』で家康を書かれていますが 西郷隆盛は三人と比べてみてどうですか
(これはMCのせりふ  題名『巨眼の男−西郷隆盛』)

津本氏 →  比較するということでなく 西郷隆盛 わかわからないところがある人で
生きているよりも死ぬほうへ考えが向かう
天道思想というもの 全部天命だと 沖永良部島に流されたとき論文みたいなもの書いているんです
それからあの征韓論 あれは一体何だという疑問が起きてくる
(ここでMCがの征韓論の真意 いい始めたのは大久保利通 西郷は道義心で自分が話しにいこうと  それが征韓論は西郷ということに)

津本氏 →  西郷が月照と心中する現場にいた平野国臣がそれを一部終見していて
全国の志士に伝えた 西郷とはこんな男だと
それで全国の志士たちは皆 西郷を信用した
だから六千何百人も西南戦争で戦死しても鹿児島では
今でも西郷隆盛の悪口を云う人は一人もいない
★ご先祖さん 沼津兵学校から西南戦争へ参戦
2024/07/25(木) 晴れ


皮膚の中の筋肉の動き


【「合気揚げ」という座り技があって、正座して向かい合うんです。先生の膝に置いた拳を向かいあった弟子がぐっと握って押さえつけるんです。すると何十年もやっている弟子が悲鳴をあげてふっ飛ぶんです。
 私にやっみなさいと言うんです。他の人にはなかなか拳を持たせてくれないんですけど、私は何度も持たせてもらったんですね。一瞬、畳の上にビューとふっ飛ばされているんです。あれはまっすぐの力をちょっと外すんですね。三十年習っている弟子にも絶対に教えない技、いま教わったこと覚えておかなきゃダメだよと言って、教えてくれたこともありました。私は二、三回教わたんですが、一時は覚えたつもりでも、ずぐに忘れてしまった。】

佐川幸義 相撲のテレビ 欠かせず観ていた
【千代の富士が好きだったんです。 あいつは合気が 合気とまではいかないが、あいつには教えたらわかるなと言っていました。それで非常に熱心に見ていました。】

前田 → 千代の富士には合気の素質があったんですね。体が小さくても横綱を長く張れたのも合気の素質だったんですか

【ええ、生まれもった資質、感性でしょうね。石舟斎は「一合の器に一合の水。一升の器には一升の水」と言ったんです。だからその人のもって生まれた資質がないと。武田惣角が何百人、何千人教えたかわからないけど、そのうちで合気が本当にわかったのは佐川幸義一人でしょう。やはり素質ですよ。
 佐川先生は十七歳で、合気道とは何かがわかったと言ったんです。皮膚の中の筋肉の動きと、パッと出会ったときの角度、それで決まると言いました。でもそのわかったtぉいうのは今から考えると非常に単純で、それからだんだんと進歩していって、七十歳のときに初めて合気ができるようになったと。
  それ以上に、私にはいろいろ話してくれましたけど、結局わからなかったんですよ。】

佐川幸義 津本氏に書いてほしかったんだ
津本氏の弁 
木村達夫氏 『透明な力―不世出の武術家 佐川幸雄』 刊行
書かれていることは 先生から教えていただいたこと大体同じこと
でも木村氏 二十五年も稽古している だから先生の技がわかるんでしょう
そばで見たら何もかも

文庫本の帯 「魔法としか思えない」津本陽

【塚原ト伝、伊藤一刀斎、宮本武蔵とかいう一流の剣豪、あれやはり合気ですね】
2024/07/23(火) 晴れ


「相気」


佐川幸義{ゆきよし}  津本氏に合気柔術の小説 書かせようとした
津本 → 先生の合気がわからなかった 高弟たちがわからないのですから
私にわかるわけない それで書かなかった

前田 → 養神館 塩田剛三先生と生前 二、三回 対談したことがある
先生に技をかけてもらう 自分 少林寺拳法の段 もっているですが
少林寺の決めて動きを静止するというのとちょっと違う
パッと固められたとき 痛みとかいうのはたいして感じない でも外そうとすると
姿勢がグッと崩れるんです 自分の姿勢が何だか知らないうちに自然に崩れちゃう
何でかわからない 不思議だなぁという感じでした
『武道通信』の杉山さんが『格闘技通信』の編集長のとき
塩田先生の技に驚いて これをどう説明しようかと考えて
たとえば相手を一本の綱の上に立たせてしまう状態に置いてしまうのではないか
そうすれば、どんな大男でも指一本で落とせる
津本 → 理屈ではそういうことでしょうね

そう 理屈では である
塩田剛三氏の道場 養神館をアポ無しで訪ねた
高田馬場 社から近かった 昼過ぎ 三時か四時か 
入門者 中年の男性 三人ほどいた
組み合ってから塩田剛三氏が肩をポンと手を叩くと コロンと転んだ

「合気」 元の言葉は「相気」
明治の世 以降 「合気」となる
大東流 武田惣角{そうかく}の造語であろうか
いままでの柔術の「相気」とは違うと アピールしたかったのではなかろうか

稀有な達人しか使えない神業であろう
しかし もし 「合気」にレベルをつけるとして
一から五までの五のレベルをつけるとして
凡人でも五は使えるのではないか
使っているのではないか

相手の気と合わせる  相手の気を飲む 気を払う
日常生活でも 使っているのではないか

余談だが 拙者 蚊と気が合らしい すぐ食われる
ひとより先に寄ってくる
2024/07/21(日) 晴れ


あす 武道通信かわら版 配信


驟雨{しゅうう} に 
慌てて洗濯物を取り込む主婦
ランドセルを頭に被り 慌てて走る小学生

驟雨 の驟 馬が早く走るとの意味
小学生 にわか雨(俄雨)なら知っておろう
村雨{むらさめ}とも云う  群れた雨の意味

驟雨 ひとつで 異常気象と姦しい

「日ざかりに 白く渇き 驟雨に黒くぬれる道」
城下町の道である
2024/07/19(金) 晴れ


OLD NEW


Colorful Diary Falcon World