■文武浸透
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虚無の根 = ニヒリズム ニヒリズムといえば ニーチェ ニーチェ <消極的ニヒリズム> <積極的ニヒリズム> ふたつ あると ニーチェ もし『葉隠』 讀んでいたら これこそ積極的ニヒリズムだと 喝采したやもしれぬ
【生命は虚無の根――絶たんとした武士道の冒険】 西部氏 最後に『葉隠』で〆る
*そう ここで云っておこう 「氏」は「し」と讀むのではない 武士語で「うじ」と讀ませる 以後 ご了承を
いま 讀んでいたら ※そう ここで云っておこう「読む」 と「国」だけは旧字にこだわり 「讀む」「國」 いま一つ「言う」は「云う」 そう もう一つ 「日本」は「日ノ本」 祖国は美称でいい 他国に押しつける「中国」 通史的呼称の「支那」でいい
本題に戻ろう 朱子学 → 知(文)と行(武)を分離したまま 陽明学 → 分離したあとで結合させる 西部氏 見事なレトリック で これは根本において間違った解釈だと 西部氏 朱子学/陽明学の「文武両道」 間違っていると
三島由紀夫を例にとり 西部氏 「文武両道」は短絡的だと 「文武浸透」だと 三島 自らの行為 納得させるため 『文化防衛論』『太陽と鉄』を書かねばならず 自衛隊のバルコニーから檄文を撒かなければならなかった
【西部 → これまでの武士道「論」において見過ごされがちであったのは文武の相互浸透というという点である。つねに確認させられるには、決断の連続を認めたのが文章に外ならないという一事である。わかりやすい例でいうと、文は「寸{すんてつ}鉄人を刺す」ごとくに他者を傷つけうるし、逆に「物言えば唇寒し」のごとく自分を危地{きち}に追いやることもできる。-------- そしてその影響付与という作用は、他者への介入という意味で「武」の要素を伴うといってよい。そのような意味で、知(文)と分離することは不可能なのだ。--------私のいいたいのは、少なくも可能性としては、文(知)それは自身に死活の感情が込められていることである。】
−−−−−−★−−−−−− 大仰に云えば 業界誌からの脱皮した「週刊プロレス」 編集長の記事 「文武浸透」であった
2024/12/24(火)  |
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