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明日は武道通信かわら版 配信日

 
風呂に浸かりながら 考えた
支那発のAIモデル「DeepSeek」
本当に 低コストで開発したのか
本当に 米國を凌駕できるのか

それはそれ として
AI戦争 加速させることはまちがいない
日ノ本 在日さんが 頑張ってくれてるようだ
 
風呂に浸かると 本当に生き返るのか
宇宙人のように
それはそれ として
羊水に中に浸っていると 
胎児だった幻想を持てる
地球人は 
2025/02/04(火) 晴れ


お別れ会


10月14日
空は 大空のサムライを心から迎えるように碧く澄んでいた
今年一番の日本晴れであろう
地下鉄乃木坂駅出口の「不撓不屈」のサインを目印に
Web編集員 六人 顔を会わせる
(松下大圭/神埼無限/佐々木建/鈴木健二郎/対馬憲泰/小松直行)

「あっ このサインだ」と云い 通り過ぎて行く若いグループ
武道通信ホームページを読んでいたのだろう
訃報を知らせたそのときから 丸一日で一千のアクセス

記帳を済ませたとき 前田日明も到着した
二人で控え室に向かった 途中 準備が整った式場を覗いた
祭壇に大きな坂井さんの遺影が飾られていたのが目につき中に入った
遺骨と戦闘帽 その前に置かれていた
突然 頭上でクック クックと何かが鳴いた
見上げると前田 ハンカチで目を押さえ嗚咽していた
目を逸らし 泣き止むのを待つ
終わらない 嗚咽 ますます大きくなる

祭壇の前で打ち合わせしていた道子さん こちらを振り向く
目で 前田日明です と
前田 アメリカで長く暮らしている道子さんとは面識はない
道子さん 前田のことは坂井から よく聞いている
14日 会うのを愉しみしている 先日 語っていた

道子さん 前田の傍に来る 前田の嗚咽 止まらない
道子さん 前田の背に手を回し
「さあ 思い切り泣いてください」
祭壇の遺影の前 連れていく
前田が泣いたの見たの 拙者 初めてであった

弔辞 小室直樹氏/山中志郎氏 続いて前田日明
『大空のサムライ』との出会い 坂井さんに初めて会った想い出
男の気概 誇り 教えてもらったことなど話す
最後に 昨夜 坂井さん 夢に出てきたこと

壇上の前田の背 見つめながら 会場に入る前
「軍歌って さみしいんですね」と云った前田の言葉 思い出す
会場には『海み行かば』『同期の桜』など流れていた
「そうだね」と答えたとき
坂井さんと生前 最後にあった日の言葉がが蘇った

地上で死水{しにみず}を幾度もとったが 死んでいくとき 
誰も「天皇陛下万歳」など云わない
死んでいくときは 「おふくろさん おかあさん」 
必ずそう云う 
散りながら肉体が砕けて魂が還っていくところはどこか
それは母親の魂なんだ 
そこに私は 本当の人間の姿をみ見た

式も終わりになったとき ご遺族が挨拶に立った
「父は生前 死んだら葬式も戒名もいらない
ただの坂井三郎で戦友のいるところへ送ってれ
そう申しておりました」

−−−−−−★−−−−−−
白洲次郎 遺言 たった二行
「葬式無用 戒名不用」

近年 “凡人”も「読経なし 戒名なし」
魂が還っていくところ 
“高額”な仏門墓石の下だけでないと
感じはじめているらしい
2025/02/02(日) 降ったりやんだり


市井{しせい}の人


某読者氏からラバウルの写真 二点 メールにて送られてきた
一、海底から熱湯が吹き出していて 浜辺が天然温泉になっていました
戦時中の日本兵は「ラバウル温泉」と呼んだそうです 近くに富士山を小さくしたような山があります
二、防空壕の内部です。天井に地図が描かれていました。
そうか 坂井さんら温泉に入っていたんだ
「生き返った……」などと つぶやいていたか

さて 坂井三郎追悼 つづき

密葬義から二週間ほどたった10月29日
Web編集員の松下大圭さんと坂井さん宅へ伺った
坂井さんの追悼記事の下準備であった
「お別れ会」を控え取り組み中と思い 長居はすまいと思いながらも
坂井家一同と会し 話は尽きなかった

遺骨が安置された祭壇の前に 
坂井さんがガタルカナル上空で九死に一生を得たときの戦闘帽が置かれていた
敵機の戦闘機を爆撃機と見間違えゴーグルを額の上に上げた
そのとき12.7ミリ記銃弾がゴーグルの縁に当たり逸れた
もしゴーグルを外さなかったら弾丸が確実に頭蓋骨を砕いていたろう

有史以前から人類に戦争は絶えることない
勝利を掴む気力 技 戦術を持ち得たとしても運がばければ生き延びてこれなかった いまある我らは皆 それら人たちの末裔である
坂井さんのご遺族も 吾もまた

坂井さんから聞く戦闘 戦争を言葉の上で理解できたとしても
敗戦後育ちの吾らには その体感はない
いま そういう者たちの「戦争論」が満ちている
それはそれで しないよりましだが 得てして正義 不正義の観念論に陥る
吾もまた同じである
そんな吾らが戦争を考える基軸となる存在が坂井三郎であった

「戦争と戦闘は違うんです」「軍閥と軍人は違うんです」「外国と戦うときは内戦思想ではだめなんです」
坂井さんの声が いまでも耳の奥にある

「父は一言で云えば律儀な人でした 自分がこうと決めたことは日々 欠かすことなく続けました」
道子さんが云う
「父は部下が寝るまで起きていて 朝一番に起きていたとみなさんから聞きました」
「母の寝ている姿みたことない と父は云っていました。部下を自分の子と想い 母親を見習ったのでしょうか」

坂井さんは市井の名もない 勤勉な人をよくたとえ話に出す
そういう人がこの世を支えている
坂井さん そう云いたいのだ
そういう人達が自分の國の国難に対し 国家の命として 
それぞれの役割で戦争を戦った
自分もその一人に過ぎなかった
パイロットの道を選んだのは自分である 死は覚悟の上
体当たりを命じられても「命日がちじまっただけ」と思う
だが敗れた
敗軍の軍人 勲章をもらえる義理はないが
「吾ら軍人は軍閥とは違う 天皇陛下から ごくろうさんの一言があってもいいだろう」
坂井さん 云う
かつて市井の人の道徳は天に恥じない人の道であった
天皇責任はイデオロギーではなく 
天から見た人の道に照らしたものだ
天皇も天から与えられた御霊である
そう考えたのではないか

その言葉 「撃墜王・坂井三郎」が云うのでない
市井の人 「三郎」言葉だった
それがこの日 ご家族からの話を聞き 理解できた

−−−−−−★−−−−−−
亡父の出征の折の 杉山家総出の写真
それぞれが それぞれの役割で戦争を戦っていた
2025/01/31(金) 晴れ


密葬義


9月29日 池袋 仙行沙羅ホールにて
親族と生前ごく親しかった方々による密葬義
遺言どおり無宗教葬
前日の通夜でお別れできなかったことから 無遠慮にも参列
喪主の暖子夫人の挨拶の後 参列者による菊の花の献花
順に遺影に向かってお別れした

拙者 遺影に向かってお別れ
胸中でこうつぶやいた
「坂井さん 最後にお会いした折 武道通信にはいくらでも協力しますよと
云ってくださったときの笑顔が忘れられません
あの笑顔には前田日明 杉山らが坂井さんの志を引き継いでいってくれるだろうというメッセージが込められているように思うようになりました
それにしてもまだ早すぎました」
 
休憩の後 棺が運ばれ 祭壇に飾られていた生花を参加者が
次々に棺の中の坂井さんを埋めつくすように捧げた
ご遺族が何度も何度も坂井さんの顔を見入り ハンカチで目を拭う
アメリカ在住のお孫さんの青年と少女 「不撓不屈」サイン色紙を手に
目から涙をあふれさせていた
 
棺を囲んでいた戦友たちから歌声があがった
「ラバウル航空隊」であった
戦友のお一人が歌い終わった後
坂井さんとはよく南十字星を見上げながら歌ったもんですよ と語った
棺は閉ざされ 日章旗が棺を包んだ
棺は車に移され 親族の皆様と火葬場へ向かった
 
沙羅ホールを出たばかりのとき 携帯電話が鳴った
前田日明からだった
明日 アメリカへ行くのに ある許可書の申請を忘れていたことに気づき
どうしても今日の密葬義に行かれなくなったというものだった
密葬儀の際 携帯電話の電源は切っていらから何度もかけたのだろう
前田 昨夜の通夜 深夜 棺の前に2時間いたという
ご遺族の話

 −−−−−−★−−−−−−
ラバウル航空隊
ニューブリテン島(現在のパブアニューギニア)のラバウル基地に結集し 
この空域に展開して戦闘に参加した海軍/陸軍の各航空部隊の総称

「ラバウル航空隊」歌ってみなされ
https://qr.paps.jp/RpDps
2025/01/29(水) 晴れ


最期の言葉


<坂井死と呼ぶと “他人行儀”な気がする
坂井さんと呼ばせていただく>と 巻頭 二十行あたりに
で 以後 坂井さん

後日 次女・次子さんからお聞きした 
坂井さん 死の当日の話

9月22日 米軍厚木基地内 米西太平洋艦隊 設立50周年記念 式典
夜会が催され 坂井さん 招待されていた
その日の朝 少しだるかったが熱もくない
二年前から懇意にしていた第五航空団司令官も同席することから会うの
愉しみにしていたので出席
言葉は通じなくとも心が通じ合う仲と坂井さん 話していた

ダンスパーティーがはじまるというので
こんな爺さんがいてもしょうがない そろそろお暇しようと
席を立って廊下へ出た
そのとき少し気分が悪くなった
その日 坂井さんに動向したのは近所の主治医
たまにおこる貧血か低血圧かと思ったが 計ってみるとあまりに低い

坂井さんに 基地内の病院か日本の病院 どちらがいいと訪ねると
日本の病院 言葉が通じるから
一番 近くの救急病院 綾瀬厚生病院へ

検査に入る前 坂井さんは 仰向けに寝かされていたので
呼吸がしにくいから寝返りうっていいかと聞いた
医師は検査しやすいから仰向けでいてもらいたいと
坂井さん この検査は私が寝ていても出来るんですかと聞く
医師 寝ていてもできます
「じゃ もう眠ってもいいかな」
しかし 検査が終わらない内に症状が急変 意識 戻らず
これが坂井さんの最期の言葉となった

綾瀬厚生病院へ入ったとき 坂井家に病院から連絡
兄(長男)が駆けつけたときは危篤状態

しかし肺は酸素吸入を受けているので延命はできる
奇跡的に1週間 1ヶ月後意識が戻るケースもあるが
ほとんど例はないと説明された兄
日頃 父が云っていた
「自分に意識がない状態で一日でも延命されるのはいやだ」
との言葉から 兄は延命しないと判断
私がその場にいたとしても 同じだろう

父は生前 よく云っていた
「何が起こって自分が死んだかわからなくて
閻魔様にお前、何でここに来たかと聞かれたら
自分が生きてきて してきたことを説明して
送ってもらうべきところへ送ってもらんだ」

享年84歳 坂井さん
魔王にどんな風に話したのだろう
きっと閻魔さん 我々と同じように 坂井さんの話に引き込まれ
1時間のつもりが2時間 3時間となったのではないか
2025/01/27(月) 晴れ


偶然


【現代のサムライ
訃報、密葬儀、お別れ会と過ぎゆく日々、
我が心の坂井三郎を追想する。 杉山頴男】

【9月23日、前田日明から坂井三郎氏の訃報を知らせる電話がなった。
奇しくもそのとき坂井氏の声を聴いていた。
《海軍の戦艦、空母の大型船を入居させる作業は父子相伝なんだ。その時、
私は戦争に負け、陸海軍はセロにされ、平和憲法を作らされたが、ああ、
ここに日本海軍はまだ生きていたと、涙がこぼれた。》
Web武道にのせる『英霊の伝達者―坂井三郎に訊け!』の第2回目の原稿をおこすためであった。】

奇しくも――との偶然、本当にただの偶然であろうか。

吾らがいる四次元(空間三次元+時間一次元)だけでなく
それ以外の次元から飛んでくるのではないだろうか

いま なんだかんだ話題のTVドラマ「ホットスポット」
主演女優 
以前 動画配信サービスParaviで主演 
「それ、忘れてくださいって言いましたけど。」
これも たわいのない日常会話の連続 
何話かで 奇妙な自称宇宙科学者なるものが現れる
自称宇宙科学者 「宇宙は<紐(ひも>で できてる」
これは 十次元まであるとの
神の領域「超ひも理論」を拝借したものだろう

異物が日常生活に飛び込んできても
日常生活は それを飲み込んでしまう
というハナシだ
「それ、忘れてくださいって言いましたけど。」

話がそれた
次回 坂井三郎追想 つづく

−−−−−−★−−−−−−
「ホットスポット」
山梨から見た富士山 
駿河國のガキども
「ウラ富士」と呼んで下にみていた
地元のTV番組 インタビューには来なかったが

沼津港から船に乗って 伊豆巡り
土肥{とい}から見た富士 抜群
2025/01/25(土) 晴れ


宣教師


【国の為に戦った誇り
ボールドウィン・Т・エッケル】
 
大正十三年 宣教師の両親とともに日本へ
幼年時代 日本で過ごす 
英語は話さず 日本語で話すよう教育
十年後(昭和九年) 米国へ
英語を覚えるのに苦労
昭和十一年 再び東京へ
2・26事件 目の当たりに
開戦直前 米國へ

開戦 通訳・尋問担当として
オーストラリアからルソンまで 戦闘を経験
三度負傷したが 運良く本国送還にはならなかった
エッケルが語った前歴

<八年前> ということは1992年 
友人である日ノ本のフリーランス記者に坂井三郎を紹介される
坂井さんが米國軍人と結婚した娘さんをロサンゼルスに訪ねてきた折

マンハッタン・ビーチでの坂井さんとの話を語る
下記 気になったところ

【山下奉文大将を尋問したが 私が会った日本軍人の中で唯一衝動を覚え、
どこの国でも立派に将軍の役目を果たしただろう。生き残った日本軍人の中で私が唯一敬意を評する人だった。】

【神戸の韓国人たちが「自分らは戦勝国だ」といった騒ぎが起こっても、
日本の警察はまったく無力だった。代わってアメリカ軍警察の手によって抑えられた。当時、私は軍警察大佐付きの通訳だった。闇市にはやくざや暴漢が横行していた。戦争の残した傷あとは深く、その愚文んかさを実感した。】

軍警察とはМPだろう
韓国人たちに最初に抵抗したのは日ノ本のヤクザだった

【話の中で坂井さんは、こう言った。
「広島・長崎の原爆投下のように、もし私がアメリア原爆投下を命じられたらおそらくやっていたでしょう。あれは軍事的決断だったのです。】

軍事的決断で国際法など無視
政治的決断でパリ協定離脱などなど

−−−−−−★−−−−−−
宣教師 布教の異郷にて 子らに母国語 話させず
そのむかし讀んだ 日ノ本軍人の回顧録
侵攻地 <鬼畜米>の精神で 牧師夫妻 斬首
牧師夫妻 これも神のおぼしめしと
淡々とした態度だった
日ノ本軍人 人として<負けた>と悟った
2025/01/23(木) 晴れ


遺影


【坂井中尉退隊、帽振れ 山中志郎】
聞き手・松下大圭
 
山中氏の話を聴いてみよう
 
昭和十九年 大村航空隊練習生として 教官坂井中尉の指導 受ける
練習生訓練 B29爆撃機の<激撃>訓練
<激撃>とは複数の戦闘機が敵機へ向かって順番に突進し銃撃する戦法
 
訓練の坂井中尉 鬼のような人だった
その日の訓練が終わりかと思うと 坂井中尉 教官たちを集め反省点を指摘し
今度は教官達の指導をはじめる
 
訓練機の零戦も11型から63型まで数々の改造でエンジンの馬力が大きくなる
すると機体が重くなり 宙返りするにもきれいな半円が描けなくなる
訓練業終了後 零戦が一機上空を飛んでいる
見ると坂井中尉
機上で試し 重い機体できれいな半円が描くコツをつかんで訓練生に教えるため
 
その後 松山を本隊とした徳島四〇七部隊に所属
そこに坂井中尉もおられた
本隊への連絡係として数度 坂井中尉の会う程度
目を悪くされ 空中戦をやることなく地上指導官の任に就いていた
 
戦後 お付き合い 背筋が張るような関係でなく 何でも話せる<坂井さん>
二時間の予定が三時間 四時間にも
『大空のサムライ』出版 ベストセラー
「俺が坂井三郎をここまで育てた」とやっかみ半分の元海軍の人びと
すると坂井さん 「ならばあなたも本を書けばいいではないか
書いた上で議論しようじゃないか」
いつまでもファイトの持ち主だった
     ■
【取材が終わり、山中氏は祭壇に掲げられている遺影を身ながら言った。
「顔に迫力ありますね。 中坊公平さんによく似ているでしょう。自分の信念を持った人の顔はこうなるのです。信念で生きた人ですよ。だから信念もって人と話すから
言うこともとても迫力があります。だから二時間予定が三時間、四時間になるんです」

山中氏のお別れ会での弔辞の最後の声がいまでも耳低に残っている。
「坂井三郎中尉殿、海軍航空隊を退隊されました。総見送りの位置につけ。
帽振れ、帽振れ帽振れ〜」】

−−−−−−★−−−−−−
二時間予定が三時間、四時間になる
拙者も経験した
いまキーボードを打っている顔を45°左に向けると
壁に色紙  「不撓不屈  坂井三郎」
色紙は張られた テレホンカードの写真は遺影
2025/01/21(火) 晴れ


明日 武道通信かわら版 配信日


「ぼくは土星人だ 土星からきた」
そう云った記憶 はっきり覚えている 
周りには同じ学年の子らがいた
小学四、五年生であったか

旧東海道の裏手
大人たちが「新長屋」と呼んでいた実家の裏手
出来の良いシングルマザーの子
大學へはいけなかったが銀行員になったキンちゃん
学習塾開いていた
新長屋の子らが二、三人通っていた
幼き拙者 その中に混じっていたわけだ
子らの勉強机 細長い机が一台 
その子らの前で云った
「ぼくは土星人だ 土星からきた」

どこから「土星人」が出てきたじかわからない
「鉄腕アトム」 マンガ アニメ はじまっていたが
「ウルトラマン」 まだずっと後年だ 

書くという行為 
過去にあったこと 記憶という形で
現在に呼び寄せて記録し 
未来の自分に手渡すという一面がある

この奮戦日記
「武道通信」 一ノ巻から 現在に呼び寄せ記録し
残り少ない未来の自分に 手渡しているのやも知れぬ
2025/01/19(日) 晴れ


奇跡の人


【日本の教育の復興 小室直樹】
「お別れ会」での弔辞に加筆
 
世界航空史における20傑の一人であることを語る
奇跡というしかない 二つの生還劇
部下を一人も戦死させなかった
 
して 昭和十九年七月 特攻第一号
硫黄島基地から米國58機動隊 空港母艦に体当たり
神風特攻隊発足 四ヵ月前だった
して これまた奇跡的に帰還
 
【小室 → 坂井中尉は今後、日本の教育評論家になりたいとおっしゃっていました。
まことに教育日評論家におなりになっていたら、これ以上のことはありません。----
ご自宅に靖国神社方式の神棚を奉って、戦友だけでなく、敵味方の勇士を奉っておられる。
坂井中尉の意思は日本の教育の復興にあります。特に独創的あるのは兵学校教育の評価です。現在の教育に比べて兵学校教育は理想的であったと懐かしむ人は多いのです。しかし、その「理想的」とまでいわれる兵学校教育にも致命的弱点があったと、坂井中尉は分析しておられました。
他山の石として、今こそ傾聴に値する見識です。
その事始めに、大東亜戦争で戦死なさった方々の名誉を回復することだ。それまで「俺は絶対死なん」と、おっしゃっていました。ですから、私は少なくとも坂井氏の上官、斎藤大佐のように百歳まで生きていらっしゃると思っておりました。誠に残念でござおます。 】
 
−−−−−−★−−−−−−
<兵学校教育にも致命的弱点があった>
どこに? 坂井さんから聞いた記憶ない

<特攻第一号> 聞いていた
初の体当たり攻撃命令に
「腹にストンと落ちた」  
戦友と顔を見合わせ互いに笑った

坂井さんの言葉で拙者が一番に心に刺さったのは
「英霊たちは誰も太平洋戦争なんて知らない 大東亜戦争を戦ったのだ」
 
以来 「太平洋戦争」と書かない 使わない
それが慰霊だ
2025/01/17(金) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


論客対談 最後に両者 一言ずつ


在日コリアン
【前田 → 自分の中にある韓国人と、いま半島にいる韓国人とは違うんです。
自分ら家族は大正年間に日本に来たんです。ブラジル移民の一世の一家に天皇皇后陛下の写真が飾ってあったり、3月にはおひな祭り、5月には節句と、日本のしきたり風習を日本人以上に守っていますよね。それと同じことが、我々、大正時代からの在日にも言えるんです、
 本国の人間からみたら在日コリアンは古い奴なんです。大正時代、また昭和初期に来たときの在日の人たちは、当時の儒教的感覚の時間で止まっているんです。だから本国へ帰ると違和感があるんです。
 自分は在日韓国人といわれるですけど、自分で言うといたら在日「李氏{りし}朝鮮人です。李氏朝鮮人から見たらいまの韓国、朝鮮は傀儡政権ですよ(笑)。
精神的に自分達にとってはの祖国は李氏朝鮮(李朝)としか言えないかも知れない。】

東洋とは
【木村 →  前田さんは「東洋」というのは日本、韓国、朝鮮、中国、それらの総称として使っていると思うんですが、「東洋」という言葉もちょっと考えなくてはいけないんです。「東の洋の向こうにある国」という意味で。
 また「東洋」という言葉を意識的に使ったのは日本で、日清戦争の後なんですね。日本が新しい概念としての中国、朝鮮を包含{ほうがん}していくために「東洋」と使ったんです。日本のためになりなさい、ということで使い始めたんです。】

−−−−−−★−−−−−−
ロサンゼルス山火事
「原爆を落とされた後の広島のよう」
現地ニュースキャスター
延焼範囲140平方キロメートル
死者24名確認 行方不明16人

昭和二十年三月十日未明
300機のB29爆撃機 33万発の焼夷弾を投下
延焼範囲4,300平方キロメート
焼家屋約26万7,000戸 死者約8万4,000人
推計100万人が焼け出される

ロサンゼルスの山火事
訂正してほしい
「東京大空襲に及びもつかない小規模」
2025/01/13(月) 晴れ


無意識


木村氏/前田 語り合う
マスメディアの罪→ [表現の自由」という<自己中>
学校教育の弊害→ 引きこもり/いじめ 
何のことはない
二十五年前 四半世紀前と なにも変わってない

いや 変わった
オールドメディアの衰退
ソーシャルメディア(SNS)の台頭
学校教育 タブレット「一人一台」
そして 生成AIの出現

二十五年前の諸問題に
新規の<環>がまきつく
して 人が立ち向かうのは
うわべの知識/教養ではない
生まれ育ちでもない
祖先/歴史に裏書された
無意識

人は 新規の<環>に
無意識で抗う 無意識で受け入れる

生成AI 可か非か 論議せん無い
無意識で決まる
2025/01/11(土) 晴れ


ナショナリスト 洪 思翊{こう しよく}


「前口上」でMC(Master of Ceremonies)拙者 こう記している
《論客は中近東、編集長はアメリカと御両人とも異国での長期滞在で早くから決まっていたものの対談日は11月3日となった。この日は文化の日、もとを正せば天長節、明治節。日本の激動の転換期を象徴する日である。十三回に及ぶ対談で、初めて同世代同士の組み合わせとなる。若い分だけ熱かった。編集長、在日の、その胸中を初めて語った。》

同世代同士の組み合わせ
木村氏 四十四歳 前田 四十一歳

坂井三郎氏の話から三島由紀夫へ
そして 洪 思翊{こう しよく}
【前田 → みんな自分の考え、基本デザインを持っていない。アメリカがどうの、中国がどうのだけ惨憺なるものですよ。自分、山本七平さんみたいな人、好きなんですが、いなくなりましたね。ああいう人。】

【木村 → そう、洪 思翊がフィリピン絞首台に着くとき、黙って逝った。
それに較べ山下奉文は----と書いています。日本の大将より洪さんの方が日本人らしく振舞ったと。】

洪 思翊 朝鮮語読み ホン・サイク
戦犯裁判 一切沈黙を守った
山下奉文{ともゆき} 戦犯の理由に抗議したのだった
死刑台では あっぱれな佇まいであったこととを
かつてのMC 弁明しておく

洪 思翊 朝鮮語読み ホン・サイク
陸軍士官学校卒業後 陸軍大学校へ
日本統治時代に陸軍大学校に入校した朝鮮人
李垠/桃山虔一(李鍵)/李鍝と 洪だけで
洪以外の三人 皇族同様の優遇を受けた王公族

陸軍大学校 卒業後 参謀本部に配属 戦史編纂にあたる
昭和四年 陸軍歩兵少佐 陸軍歩兵学校教官を経て 関東軍司令部に配属
満州国軍に顧問として派遣される
奉天軍官学校(陸軍士官学校に相当)の指導に当たる
満州国軍将校への門戸を朝鮮人移民にも開放
陸軍歩兵中佐となり、1936年(昭和11年)まで関東軍司令部参謀部に

洪 旧韓国軍・日本陸軍士官学校時代からの大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われる が 朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず
いま立ち上がることは良策ではないとして断る
だがその一方 旧大韓帝国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち
その家族を自費を以て支援した
創氏改名が行われた時 最後まで改名を行わず
姓の洪をそのまま氏としたまた、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を生涯身に付けていたとも言われている。

昭和十六年 少将に進級
華北の八路軍を相手に戦う
昭和十九年 比島俘虜収容所長に赴任
終戦を迎えた
皮肉な事に、これが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった
終戦後は、故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だった

洪所長 連合国軍に捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われる
他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行ったが
自らについては一切沈黙を守る
死刑判決を受けマニラで絞首刑

辞世の句
「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」
「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」
なぜ 沈黙を守ったか 辞世の句に書き留めたような気がする

洪 思翊 日ノ本軍人以前に 祖国のナショナリストだった
2025/01/09(木) 晴れ


ナショナリズム


武道通信かわら版 五日でなく四日に配信していた
正月ボケというのだろう

きのう 午後から雨 きょう 朝から雨
やっとお湿り
陸奥ノ國 大雪だそうだ
武蔵野ノ國 小雪でも ほしいところだ

さて 十三ノ巻
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
一水会代表をリクエストしたのは前田だった
どこかで木村氏が朝鮮民族と大和民族に遺伝子的共通性を語っていたとの
前田の弁 その記憶がある

格闘技ファンの鈴木邦男氏とは面識あった

鈴木邦男氏 葬儀
これは以前 記した
鳩山由紀夫 福島瑞穂 列席していた
かつての右翼/左翼の区切り 一水会 無くした
この対談 その魁ではなかったか
タイトル 「ナショナリズムの良心」とつけた
キーワードはナショナリズム

欧州 移民問題で揺れている
米國も 移民問題で揺れている
キーワードはナショナリズム
良心があれば悪心{あくしん}もあるだろう
*悪心{おしん}→吐き気ではない

良心⇔悪心
その線引きは----

次回
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
スタート
2025/01/07(火) 降ったりやんだり


♪あと 二日寝るとお正月〜


「行く年 来る年」
言語としての区切り
言葉による普遍性

今年
「民主主義」
専売特許と自負しているらしい大国 某国で
言葉による普遍性 崩れはじめた
「民主主義」が草刈り場化してきた

大海原を隔てたとはいえ 対岸の火事とは云えぬ

言葉による普遍性
まず 疑え
言語が生まれる前の
言語化されていない知 暗黙知

日ノ本民に共有される暗黙知
《下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちる所へ、
そこ万有の母がある。》

−−−−−−★−−−−−−
仕事初めは 
一月五日 武道通信かわら版 配信
松の内最後 お飾り外す七日
十三ノ巻
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
スタート
2024/12/30(月) 晴れ


死に向かって生き延びる


西部氏につづき
各氏の「武士道とは」に耳を傾けよう

【大保木{おおぼぎ}輝雄
 いまここに居る自分――山岡鉄舟のメッセージ】
≪山岡鉄舟の武道と剣術に託されたメッセージ
武士道とは いまここに居る自分を全身全霊で生き載{き}ることとみつけたり≫

【嘉村 孝  
中世武士道の再発見――武士道を国家の機軸とせよ】
≪江戸期の儒教武士道でなく 明治の官僚主義の武士道でなく
中世の武士道  「葉隠」研究家の一言≫

【吉田翰玄{ふみはる}
武士道でポン!――神のいない我らに武士道がある】
≪IТ時代で“中間”がなくなり “個”がポン!っと投げ出されたとき
西洋の神を持たない我らには武士道があったではないか!≫
“個”から命を懸けるべき一点につながる道 それが武士道≫

−−−−−−★−−−−−−
恐れながら 末尾に拙者の「武士道とは」

死に向かって生き延びる本能 衝動とか 欲望と云い換えてもいい
特攻作戦志願した特攻隊員 
死に向かって生き延びること
歴史修正主義などという浅はかな論議は無用
最期の言葉 「おかあさん」「おふくろ」
死に向かって生き延びる叫び
2024/12/28(土) 晴れ


「武士道というは……」の一言に要約されているもの


最後になる
西部氏の言葉に耳を傾けよう

【西部 → 近代とはパーフェクティビリティ(完璧なものになれる資質)という概念が、 十八世紀中葉の啓蒙主義の時代に尊敬されたことからもわかるように、愚か者が大量発生した時代のことだ。だから武士道が過去の帳{とばり}のなかに隠れてしまったのは当然のことだ。--------
 精神に垂直運動を忘れた精神は、まるで蟹の横這い運動のように水平運動するばかりである。--------
 自分の精神は早々と錆びつき崩れ落ちていく。このアンバランスを耐えがたいと思うのは、我が国についていうと、是非をなく武士道のことを想い起さずにはおれなくなる。
 事実、武士道というものが百年ほど前までは存在していた、という記憶だけが現代日本人のおけるモラル・マインド(道徳心)の証{あかし}となっている有り様なのだ。】

【西部 → 生きながられることを最高価値とすると、義を見捨てることの方が延命にとって都合がよいのである、というニヒリズムが強まる。つまり、人間の生命こそは一切のニヒリズムの温床であり、それゆえ生命尊重の価値にあっては、愚鈍であれ蛮勇であれ、狡猾であれ、許されることになる。
 このニヒリズムの根を絶つ必要が「武士道というは死ぬこととみつけたり」の一言に要約されているのであるから、やはり偉い古人がいたものだというほかない。】
 
【西部 → 「right」は名詞としては権利であるが形容詞としては「正しい」ということである。物事の正しさはどこからやってくるのか。それが自らの欲望からやってくると思う人間だけが、人間の基本的権利などという。自らの欲望を伝統の精神によって律すべきだと考える者は、歴史と道徳に基づく人間の基本的権理を尊ぶ。日本の思想史にあって、<権利>を否定し<権理>を追い求めた者の代表が、やはり武士達なのだ。

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福沢諭吉は『学問のすすめ』で「right」を「権利」ではなく「権理」と訳した 諭吉の「理」へのこだわり
一万円札の顔 福沢諭吉 消えた
武士道も消えた
2024/12/26(木) 晴れ


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