■「象徴の武士道」
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武道に秘められた花 そのつど 時と所と象徴を得て うつろった 武と花の象徴が 日本刀に求められるようになったのも そういう うつろいのひとつである
そこには時代変化のなかで 二度にわたる“事件”が関与したと 松岡氏は考える 刀狩り 一度目 戦国の世の末 集団としての武道は解体し 一人ずつの剣法者が自身を鍛える道 拓かれる その自身の内なる武道を鍛えるため 朱子学 陽明学が発達した 二度目 明治 武門の廃止とともに 刀剣所持が許可制になっていった もはや刀は武器でなく 刀は武器の「魂」にならざるを得えなくなっていった 日本刀は象徴化されていった 「象徴の武道」というべきである
このように「武の花」が象徴的に転移していったということは 別の言い方をするなら 一本の日本刀にすべてを託せる 「沈黙の力」とでいうものが限りないほどの内部の力を持たねばならぬ その日本刀は もはや人を殺傷するものではないからだ またそれは 一本の刀に 日本における武道に変遷のすべてを 万感をもって去来させる「おもい」を対応させることでもあった
世阿弥は「秘すれば花」と言った 現代の武道は 何も語らないかに見える 一本の日本刀に 万事を読み取る力と ともに (武道を)蘇生させるしかなくなっているかもしれない しかし そのことは「秘すれば花」であっても 「言わぬが花」でいいはずはない
−−−−−−★−−−−−− 毎朝の儀式 野袴に筒袖のなりたちになったとき 腰に脇差(小刀)を差す 拙者なりの 「秘すれば花」
2025/09/24(水)  |
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