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同朋衆{どうほうしゅう}


茶室といえば
 “一般教養” 安土桃山時代 だが
茶室空間 いつごろできあがったか
正確なところはわからない
博学のひと  松岡氏が云うから そうであろう
鎌倉 平安まで 遡るのか
それはともかく

【松岡 → 茶の湯の発達につれて登場してきたことははっきりしているが、
まだ空間的な変遷の細部はあきらかになっていない。
が、この茶室空間が興味深いのは、そこに数々の道具立てとともに、
作法のようなものが付着し(茶礼)、そこに従来にはまったくなかった
「もてなし/しつらい/ふるまい」の完成がしくまれていったというこである。
これを仕上げたのは、室町将軍のかたわらにいた同朋衆たちだった。
とくに有名なのが足利義政時代を前後した
能阿弥 芸阿弥 相阿弥の“三阿弥”である。】

<三阿弥>
能阿弥{のうあみ}/芸阿弥{げいあみ}/相阿弥{そうあみ}の父子三代の称
代々唐物の鑑識・管理や座敷飾りの指導などを職としたが
水墨画家としても著名である
能阿弥 「白衣観音図」
芸阿弥 「観瀑図」
相阿弥 「山水図襖絵」

彼らは もともと将軍の身辺をめぐる雑役に従事していた者たちだが、
その中には絵師/工芸師/庭師/能/狂言師など
特技を持った芸能人の一団であった
将軍の近侍として仕える同朋衆と呼ばれる者たちも
独自のサークルを作っていた
彼らにはこの時代の芸能をリードする者が多く
能楽の観阿弥、世阿弥父子や
連歌師の頓阿弥/琳阿弥/庭師の善阿弥などがあらわれた

【松岡 →同朋衆はともともは道具立てのための目利きの役目をもっていた者たちであるが、すぐさまスペース」・デザインのいっさいを取り仕切っていった。
床の間のデザインから作庭のデザインまで、かれらがもたらした才能は、今日の日本の美の多くの原型をつくっている。のみならず、かれらは絵師としても茶の宗匠としてもすこぶる有能だった。同朋衆は日本の最初のアートディレクターなのである。】

覚悟と作分
まだ 出てこない
次回へ
2024/09/13(金) 晴れ


空間文化史


さて 久しぶりに  松岡正剛 登場
【武道の中の日本<九>  覚悟と作分】
<作分>  <作文>ではない
作意  作者の意図だ

スポーツには ふさわしいスペースがある
と切り出し
かつての日本では このスペースのことを
「埒{らち}」といった
まだ 本題ではない 間口の話だ

【松岡 → 埒は古代からある言葉で、柵に囲まれた場所のことをさす。
一画といった意味をもつ。その埒の中で事が進み、事が仕切られた。
それを「埒があく」という。閉じた埒の中でなんらかの埒をあけること、成果をあげること、
そこに日本の「場所の精神」というものがあった。日本の格闘技もいつまでもそのような「埒のあけかた」を守ってほしい。】

その後 「埒」は さまざまな場面に出現する
その代表は 「庇{ひさし}の間」などの「間」
庇 → 建物の窓/出入り口/縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。
第二は鴨長明『方丈記』で有名な「方丈」
一辺が一丈(約3m)の正方形 一丈四方。
長明 このスぺースの中で書いたという洒落だ

日本の空間文化史にとって重要な「埒」であると 松岡氏
空間文化史と きたか
大谷のホームラン打球がスタンドに飛び込む野球場
米國の空間文化史なのだろうか

狭い日ノ本の空間文化史のはじまり
「九間{ここのま}」 縦三間、横三間

九坪ほどの部屋
特に縦三間 横三間の部屋
室町時代にはこれが正式の座敷の基準の広さであった 
正方形のリングのようなスペースだ
日ノ本人は 長い間 この九間を最も基本的なスペースとして重要視した

この九間につづいて第三に登場したのが
室町時代に入り流行した「書院」 「会所」
部屋の一隅に「床の間」や「棚」が加わった
これこそが 後の近世近代の“日本間”の試作品となった
と松岡氏

そこへこれらの考え方を破るスペース感覚が出現
それが茶室空間であった

次回 本題の 覚悟/作分
2024/09/11(水) 晴れ


東郷平八郎 乃木希典


さて やっと 「トーゴー」「ノギ」の話だ
エルトゥールル号沈没から十三年
日ノ本 ロシアと開戦
トルコ人 皆 アジア西端から一喜一憂し見守った

アブドゥルハミト二世 観戦武官を
日露 あわせて六十万に及ぶ将兵
十八日間 満洲の荒野で激闘を繰り広げ
世界史上でも希に見る大規模な会戦となった
奉天会戦に従軍させる

この武官 後年 回顧録
「両国民(日本とトルコ)は誠実にして名誉を重んじ 誇り高い国民である
日本の神道はトルコ・シャーマニズムと共通点を持ち
トルコ神話と日本神話の源流は同じものである」

<日本語の教授と友好に関してはしかるべき人材を約束した>
人物が茶人 山田寅次郎
将兵たちは海軍兵学校の練習少尉候補生であったからだ

寅次郎  トルコ人将校に日本語を教えるから貿易を営み
トルコとの架け橋になっていた
その山田
黒海に展開するロシア艦隊の動向を探っていた
山田に協力するトルコ人たち 高台から二十四時間見張っていた
ロシア艦隊が黒海からボスフォラス海峡を抜けて地中海に出 バルチック艦隊と合流するかを探り その動向を逐一日本へ報告していた

奇しくも  「天気晴朗なれども波高し」の秋山真之{まさゆき}
エルトゥールル号の生存者を送り届けた比叡/金剛の練習生の一員であった

日本勝利の知らせに トルコ人 狂喜乱舞
息子や孫の男子に「トーゴー」「ノギ」の名をつけた
という話

オワリに
落日のオスマン帝国を徹底的に解体し
明治維新にならった本格的な近代国家に向けて
決然と歩みだした青年将校らがいた
一九〇八年 こうした将校中心に革命 起こる
青年トルコ人革命
その中に トルコ共和国建国の父 アタトュルクがいた
彼もまた寅次郎に日本語を教わった将校の一人であった

いま エルトゥールル号遭難の場所としても知られる
大島の堅野崎「かしのさき}灯台 近くに建つ
エルトゥールル号遭難者 墓碑は
アタトュルクが献じたものである

−−−−−−★−−−−−−
拙者
日ノ本の○○○○になろうとした
なれこっないとわかったころ
男子が生まれた
○○○○と名づけた
2024/09/09(月) 晴れ


エルトゥールル号


小杉英了さん トルコの話
【トルコ―百年越しの民族感情
イランからの邦人脱出に唯一協力した国、トルコ。
新聞は金の力と伝えた。が、トルコ人なら誰もが知る
日本とトルコとの一世紀前の出来事があった。】


小杉さん 曰く
【日本人のために、危険を犯してまでも救援機を飛ばしてくれたその行為を、
当の日本の新聞が、あたかも金の力であるかのように言うその心根の腐りぐあいもすさまじいが、日頃、経済大国日本の諸外国における振る舞いを、斜に構えて酷評してみせるインテリたちの頭は、目先の利害や力関係で動く人間のあさましさは――まるで自分のことのように――分析できても、百年越しの民族の記憶が突き動かす心情など想像の埒外なのだろう。】

新聞 → 朝日新聞 一九八五年三月二〇日付け
朝日新聞の<心根の腐り> いまでもつづいているのだろうか
朝日新聞のChina Koreaの反日感情の<民族の記憶> いまでも大きく扱う

一世紀前の出来事 → エルトゥールル号の沈没 
明治二十三年 九月十六日 夜
諸氏 よく知ることであろうから省く
「トーゴー」「ノギ」の話だ
いや その前に  やはり一言 付け加えて置かねばなるまい

エルトゥールル号の生存者を乗せた 比叡/金剛 両艦
十月十一日 日本を発ち 翌年元旦 
祝砲の中 イスタンブール港に着く
トルコ側の歓待 熱烈
アジア人にしてはじめて近代化に成功しつつある
Japonya{ジャポンヤ}(トルコ語)が
海軍も漁民も 一つになって
傷ついたトルコ将兵の窮地を救い 手厚い介護の上 
本国まで送り返してくれたのである。

皇帝アブドゥルハミト二世 尽きせぬ謝意をあらわし 友好を求めた

日本将兵 ぴっぱりだこ
軍艦 千客万来
トルコ人 日本人の風俗習慣 何事にも興味津々
中でも皆が切望したのは 日本の武道
資料にある 剣道 柔道 角力(すもう}までもが演武された

1199年 建国以来600年
衰えたりといえどもオスマン=トルコ
尚武の気風を尊ぶ國 オスマン帝国
それが18世紀以来 西南部はイギリス フランスに侵略され
北方は絶えずロシアに脅かされる
そして19世紀末 エルトゥールル号沈没のころ
イスラームを体制理念とした老大国オスマン
動脈硬化の中 弱体化の一途を辿っていたのだった

日本使節団 帰国の途 迫っていたとき
トルコ高官 「日本の海軍士官 数名 このまま残してはくれまいか」
トルコの士官たちに日本語を教え 国交を深めたいのだ と

将校の残留はかなわなかったが 日本語の教授と友好に関しては
しかるべき人材を約束した

歓迎の熱風一過 比叡/金剛 イスタンブールの港を発ったのは
予定より大幅に遅れた二月十日のことであった

長くなった
「トーゴー」「ノギ」の話は 次回で

−−−−−−★−−−−−−
某君の総裁選出馬表明で
選択的夫婦別姓 是非 巷でにぎやかだ
『真似てみたい武士の妻の作法』で書かなかったかな
江戸の世の武士夫婦 <強制的夫婦別姓>
妻の羽織の家紋も実家の家紋

拙者 総裁選出馬表明の折
<夫婦別家紋>を呈す
2024/09/07(土) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


新聞に 小さな数字しか並んでない一頁があった
もったいない
この一頁に記事を載せればいいのに
高校生の俺 怒った

株の急落のニュース  巷で姦しい
株というもの
拙者 高校生のとき同じ
いや いまは 無関心

株も投資も 無関心
2024/09/05(木) 晴れ


「武」とは


床几
【「武」の素描
大保木不全{おおぼき ふぜん)教員】

名には覚えがある  会ったことがある
どこの誰であったか 記憶 甦らない

「武」とは 「武」の字義は
<戈[ほこ}を止{とどむ}>
天下泰平を願う 江戸の世で もてはやされた
が コレは大嘘だというハナシだ

大嘘の出所
中国の後漢時代 許慎{きょしん}の「説文解字{せつもんかいじ}」
説文解字とは 字を組み合わせて、新しい意味を表す漢字
<戈>と<止>を組み合わせ 「武」との漢字つくる
これが<戈[ほこ}を止{とどむ}> と流布

大保木氏 
これに ある種のいかがわしさを感じた
詭弁さを感じた 
で 中国語言語学者 藤堂明保先生 と出会う
「止」とは とめるのでなく、趾{あし}で進むこと」
と教わる

藤堂明保の著書 『武の漢字・文の漢字』
【◎「説文解字」の「武」については、『春秋左氏伝』を典拠としていて、左氏某が、
彼自身の作り上げた「武」に対する考え、彼の「戦争感」を述べたにすぎない。
◎「武」といいうのは「戈」(武器)をもって止{あし}で進むこと」、つまり危険をおかし
困難を切り開いて、荒々しく突き進むことを表しているのである。
◎武、腑、舞は同系のことばであって、そこには「むりをおかして荒々しく前進しる」
という意味が流れている。
『春秋左氏伝』をはじめ、歴代の儒家の書は、この「武」の原義をわざとねじまげている、
と言わざるをえない。】

そうか 幕府の御用儒者 「これだ!」と 喜んで家康に上奏したのだ

大保木氏 〆
「戈」(武器)をもって止{あし}で進むとき
近世武道家は「平常心」「無心」が必定と説いた
【大保木氏 → 過日あるご縁で、鉄舟の柔らかくて強い黒跡に参ずる幸運に恵まれた。そこには「剣術の極意は風の柳かな」とあった。己自身が「折れず、曲がらず、よく切れる」日本刀になること(無刀)を提唱した人の言葉である。】
2024/09/03(火) 雨


時代小説はつづくよ どこまでも


十ノ巻 時代小説特集 つづく
【時代小説、剣客列伝
剣客、秘伝のこころ 
上泉伊勢守から千葉周作まで、多くの剣客を語りついできた時代小説。
彼らの極めた剣の奥義は、天地の摂理を畏敬した心法であった
杉田幸三】
◆司馬遼太郎<千葉周作> 
北辰一刀流と無外流
◆池波正太郎<上泉伊勢守>
活人剣の妙締{みょうてい}(真髄)
◆司馬遼太郎<宮本武蔵>
喝当の打ちと四戒
◆大森曹玄<示現流>
刀は抜かぬ、是秘伝
◆八尋舜右{やひろしゅんすけ}
二刀構え柳雪刀
◆吉川英冶<柳生石舟斎
刀は無用なりけり

【説話「大名の女腹切り
武士の妻―松平安芸守吉長夫人節子
武士の妻は奥向きの采配はすべてゆだねられていた
梅本育子】

十ノ巻 時代小説特集  オワリ
あっ まだ あった 一作 飛ばしていた

【時代小説SHOW]へのご招待
時代小説羅針盤 ―失われたサムライ・スピリットを求めて
「サラリーマンの癒し、愉しみ」の先入観は崩れた。
時代小説はいまや世代、男女の枠を超え、読まれている
理流 (「時代小説SHOW」主宰 】

《理流 → 「時代小説SHOW」のホームページを開設したのは、96年5月、当時、時代小説をコンテンツにしたサイトは、他に一つもなかった。》
「武道通信」創刊より二年前
時代小説特集ということで HPにアクセツし
理流を知り 原稿を依頼したわけだ

まあ HPご覧なれ いまでも健在  天晴れ!

−−−−−−★−−−−−−
映画にもなった『武士の家計簿』(平成十五年)(2003)
劍をとっても………… いやいや 剣をとらなくとも
武士物語は ありつづけられること証明した
2024/09/01(日) 雨


「道」


武道通信かわら版で綴っている軍記物
強さへの憧れ 通奏低音どころか
執拗低音で響いている

三浦 実氏 「強さとは」との命題を出し
哲学的命題とし 一足飛びに
「日本は哲学なし」 中江兆民の言葉
【さぁ困った! 大変だ! と慌てたあなた! 朗報です。日本には、西洋のようにギリシャの時代から脈々と続くような体系的哲学はなくても、実践、経験によって緻密に練り上げられた「道」ってモンがあるんじゃないですか!】

そうか 當麻蹶速{たいまのけはや}だしてきたのは 「道」か

【この「道」非常にシンプルな、それでいて非常に厄介なモノなんです。
當麻蹶速の「強さとは」という命題の「道」的答えは。「頓に争力」すること、それも「生死を期はず」。西洋哲学のように脳味噌を使い、言葉を費やして答えを求めるのでなく、体を削って、命を張って答えを求める。考えより、まず行動、それも命を張った。で、その張り方は、「覚悟を決める」って肩肘った類でなく、淡々と、ときには清々しくも「死は結果」として受け入れるという張り方をする。結果より手段に重きを置く。】

「坂上の雲」 の坂の 向こうへつづく道
タイトルの意味が見えた

西洋近代哲学が生んだ文明が臨界に達しようとする いま
それに代わってくれる思想  「道」が何かをみせてくれそうな気がする 
と 吉田氏
して 洒脱さの極めで閉じる

【まっ、浅学の徒が、道なんてモノをこじつけようとしても、この程度ですわ。
と言うことで、先人のお知恵を拝借して締めようと思います。『この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道なし。踏み出せばその一歩が道となる。迷わず行けよ。行けばわかる。』(byアントニ……じゃなかった、一休宗純)】
2024/08/30(金) 台風


當麻蹶速{たいまのけはや}


三浦 実 軍国少年 日本男児の理想と正義
次 
1ページコラム「床几」
【坂の向こうにつづく道
 HP奉公人吉田翰玄{ふみはる}】

吉田氏  アポとった記憶ない
どなたかの紹介か 記憶ない

改めて  二十五年ぶりの讀む
タイトル 坂の向こうにつづく道  とは
「坂上の雲」 の坂の 向こうへつづく道なのだろう
文中に そのような文はなにもない
比喩に長けた御仁だ

冒頭 いきなり 『日本書紀』
【「四方{よも}に求むに、豈我{あにわ}が力に比{なら}ぶ者有らむや
何{いか}にして強力者{ちからこわきもの}に遇{あ}ひて
死生{しにいくこと}を期{い}はずして
頓{ひたぶる}に争力{ちからくらべ}せしむ
時代小説というお題を頂戴して悩みました。無い知恵絞りました 知恵熱が出そうです。】
洒脱だ

【で、挙句、思い浮かんだのが、夢枕獏著「本朝無双格闘家列伝。
その中に 『日本書紀』の當麻蹶速{たいまのけはや}と野見宿禰{のみのすくね}
の闘いを題材にした話がある。わたしも夢枕氏同様、蹶速の「死生{しにいくこと}を期{い}はずして、頓{ひたぶる}に争力{ちからくらべ}せしむ」の言が、彼の慟哭に思えてシビレました。これぞ「時代小説」の浪漫。】

HP奉公人吉田翰玄 検索しても出てこない
HP奉公人と名乗りながら
Google  Wikipedia圏外の御仁であろうか
何者であろうか

全文 掲載したいほどだが そうもゆかぬ
つづきは 次回で

−−−−−−★−−−−−−
夢枕獏氏 UWF援護射撃のインタビュー 座談会によく出ていただいた
「格闘技通信」とタッグを組み 時代と格闘した御仁だ
2024/08/28(水) 晴れ


“美”


柴田錬三郎
 『大菩薩峠』 机{つくえ}竜之助 念頭に書いたと云う
 『眠狂四郎』 

転びバテレンと武士の娘のハーフ
劍を円を描くように大きく回し 相手を誘い込んで斬る
アノ 円月殺法

映画  眠狂四郎 → 鶴田浩二  東宝(1956〜195)
当たらず
大映京都 眠狂四郎 →  市川雷蔵 (1963〜1969)
大当たり
その後 松方弘樹 当たらず
『眠狂四郎』 → 市川雷蔵 なる

シバレン(柴田錬三郎)
なぜ 転びバテレンに犯され生まれた子 にしたのか

シバレン 徴兵検査 乙種第三 召集 逃れるが
二年後 衛生兵として召集
輸送船で南方へ派遣される途中 米潜水艦の魚雷に遭い乗艦が撃沈
七時間漂流 奇跡的に味方の駆逐艦に救助される

シバレン 
敗戦国日本生きるに 
眠狂四郎になれとも云いたかったのか

『眠狂四郎』 と共に 大映の二枚看板となる 『座頭市』
原作 子母澤寛{しもざわ かん}  原作は 仕込み刀ではなく長ドス

映画化 三隅研次ら監督によって新たな人物像に
さらに 勝新太郎によって脚色・肉付けされる 

三浦氏
【人は、なにを“美”と感じるのかで、その人の生き方が大きく違ってくるように思う。美は理屈でない。その人間の真情であり、真情を基とした行為である。
たとえその行為がつたなくとも、時代に合わなくとも、そして古びていても、美は美であり、“美”と感じるか、感じないかは、その人間が祖先から受け継いできた遺伝子、感性、それに環境によって育成された感受性としか言いようのないものがある。
そんな私がここに挙げたい名品の一つがある。 】
三浦氏が挙げたのは
子母澤寛 『新撰組始末記』

子母澤寛の祖父 上野・彰義隊で闘い 五稜郭で闘い 
敗れのち北海道・厚田村へ
祖父の手ひとつで育てられた子母澤寛
賊といわれた祖父の無念の真情を 『新撰組始末記』に注いだ
讀賣新聞在社中 休日 十二時間も記者に揺られ京都へ
新撰組隊員を知る古老たちを訪ねた

机竜之助も 眠狂四郎も 好きになれなかった三浦氏 
近藤勇 土方歳三らに“美”を感じた

−−−−−−★−−−−−−
TVドラマ  『新撰組始末記』 (1961)
よく観たなぁ〜
近藤勇 → 中村竹弥 
三橋美智也の主題曲「あゝ新撰組」 良かったなぁ〜
♪武士という名に 命をかけて 新撰組はきょうも行く
レコード抽選にてプレゼント
当たる 届く あのペラペラのやつ
テレビ応募とやら これが最初で最後

ちなみに 母方のご先祖さん 幕臣
父方 越後長岡藩主 縁者
ともに戊辰戦争 敗者 賊軍
2024/08/26(月) 晴れ


丹下左膳


三浦氏 語りつづける
机{つくえ}竜之助のニヒルの系譜

東映チャンバラ映画 よく観たなぁ〜
中村金之助 大川橋蔵 東千之介らイケメン剣士より
大友柳太朗の丹下左膳 カッコよかったなぁ〜
右目がつぶれ 右手がない 隻眼隻腕{せきがんせきわん}
敵の刃 右目をはらい そして 右腕を薙いたのだ

丹下左膳の出現 昭和三年(1928)
林 不忘{ふぼう}  『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』
これを伊藤大輔が映画化
丹下左膳 → 大河内傳次郎{おおこうち でんじろう}
豊前なまりで「シェイハ タンゲ ナハ シャゼン」
このセリフ 大友柳太朗の丹下左膳も吐いていた気がする

歌舞伎にはじまり 映画会社もこぞって丹下左膳
東亜キネマ →  団徳麿
マキノ・プロダクション →  アラカンこと嵐寛寿郎
日活 →  大河内傳次郎
筋書きもさまざま それぞれ独自の魅力を発揮して大ヒット
だが 衣装は 黒襟の白の着流し これも戦前から戦後へと引き継がれる

敗戦後 嵐寛寿郎は<鞍馬天狗>
よく観たなぁ〜

ニヒルな剣客像  机龍之介から
大佛次郎 『赤穂浪士』の堀田隼人
土師清二『砂絵呪縛』の森尾重四郎
そして 敗戦
そして 『眠狂四郎』 現れる

つづきは 次回

−−−−−−★−−−−−−
チャンバラ映画 
刀と刀がぶつかったとき 
刀の発する音を擬音で「ちゃんちゃんばらばら」と表現した
それを略してチャンバラ映画と呼ばれた

チャンバラ映画も終焉を迎えるときがきた
昭和三十七年(1962) 『椿三十郎』
あのラストシーンの殺陣
台本には ひと言 「一瞬で決まる」
殺陣師(久世竜) 居合術から考案し
椿三十郎(三船敏郎)/室戸半兵衛(仲代達矢)と
何度も何度もリハーサル
で あのラストシーンの殺陣
2024/08/24(土) 晴れ


大菩薩峠


三浦氏
<日本の敗戦は私が大事にしていたものすべてを突き崩した>
教科書からは“忠” “孝”の文字が消され
柔剣道 軍事訓練は廃止
読み物からは“義理人情”さへなくなったと
変わって出てきたのは “自由主義” “民主主義”
きのうの悪が善になり 善が悪になった

中学一年歳  三浦実 
ただただ うろうろしていたと述懐
軍国少年であったろう  拙者の叔父
ハングレになったと述懐していた

三浦氏 そんなころ出合ったのが 『大菩薩峠』 
情も理も無視して己の欲するままに人を斬り 女を犯し
無目的に生きる 元・甲源一刀流の盲目の剣士 
机{つくえ}竜之助

三浦氏 そんな竜之助の剣に少しの美しさも感じなかった
竜之助のようなニヒルな武士を主人公にする作者
中里介山{なかざとかいざん})
真の武士を知らないのでないかと

 『大菩薩峠』
大正二年(1913)から昭和十六年(1941) 三十年近くにわたる
四十一巻にのぼる一大巨編 長編時代小説
『都新聞』『毎日新聞』『読売新聞』などに連載
で未完 なぜならば 中里 昭和十九年 没

中里介山
明治十八年生まれ 西多摩郡羽根村(現・羽村市)
軍国少年三浦氏からみれば<悪>の人だった
幸徳秋水/堺利彦/内村鑑三の社会主義者と親交を結び
「大逆事件(幸徳事件)」
中里の交友関係者の中からも多数の逮捕者・刑死者 出す

中里 剣とは無関係  郷土からして甲源一刀流は知っていたろうが
竜之助の「音無しの構え」
相手が討ってくるまで動かずに相手がしびれをきらして
斬りかかってきたところを討つ技
相手の刀と一度も刃を合わさず音が鳴らないので音無し

どこから考案したのか
藤沢周平と同じ 剣術者からの取材からか

藤沢周平 なぜ『蝉しぐれ』 書いたか
“城下町” 書きたかった
いまの世の 私たちが還りたいと願っている日本があるからだ

中里介山 なぜ  『大菩薩峠』書いたのか
なぜ 四十一巻も書きつづけたのか 

軍国少年三浦 大人になり知る
 『大菩薩峠』 
「登りの道は救菩薩 下りの道は下化衆生{げけしゅうじょう}」
という仏教の教えに着想を得ていたことを
*仏語:上には菩提 (ぼだい) を求めると同時に
下に向かっては衆生を教化 / 救済 すること

中里介山
救済されたくて でも
がなかなか 救済されなくて 書きつづけていたのか

−−−−−−★−−−−−−
安岡章太郎だったか
入院し ベッドでの退屈の日々 
 『大菩薩峠』 完讀してやろうと思ったとの文章を讀む
わが街の図書館 全巻揃っている
よし 讀んでやろう
記憶では一、二巻で挫折
安岡章太郎も完読 できかかったのではないか
吾ら すでに救済されていたから
2024/08/22(木) 薄曇り


武道通信かわら版 配信日


きょうも “太陽がいっぱい” か
きょうも 受験生 酷暑にマケて “受験生ブルース” 唄っているか

jジョー・ブラックによろしく
2024/08/20(火) 晴れ


軍国少年


【懐に時代小説、心に日本刀  時代小説礼讃!】
十ノ巻  
【立川文庫から時代小説遍歴
軍国少年 日本男児の理想と正義
男らしく戦って、いさぎよく死ぬ、少年期のこの死生観は、
戦時下の時代と立川文庫的小説によってつくられた。】

藤岡 弘 拙者らの敗戦後少年より 
一回り上の 軍国少年
マガジンハウス「鳩よ!」元編集長 三浦 実

小学生あがる前  立川文庫表紙 
《そこに描かれた勇壮な武士の姿に 六歳の私は強烈な“美”を感じた》
祖母から話は聞いていた 赤穂浪士
小学生低学年では 吉川英冶/大仏次郎らの講談社版
小学生高学年では 立川文庫  『真田幸村』 『猿飛佐助』 『霧隠才蔵』 …………

立川文庫
明治末から大正にかけての、「書き講談」による文庫本シリーズ
一九六篇 刊行
小学生・三浦氏 もっとも好きだった 敬愛したのは 真田幸村
敗北を覚悟した<敗者>だったからだ

《そうした小説上の人々と私が親しく交わっていたのは、国が国民に見事に死ぬことを求めていた太平洋戦争の真っただ中だった。…………
時代の空気と、私の読む小説がぴったり一致していたといえる。私は自分の机に
“花と咲き、花と散れ”という言葉と
“勇敢は男子第一の美徳。情弱は男子一の悪徳”という
薩摩藩の兵児教育のスローガンを書いて貼り付けたりしていた。そう生きたいと心から願っていたのだ。
小学生の私は、天皇と国のために一身を捧げること悔いなしと考える軍国少年だった。
男らしく戦って、いさぎよく死ぬ。それが日本男児として生まれた者の最高の理想であり、正義だと思ったからである。
私のそうした死生観は、戦時下という時代と立川文庫的時代小説によってつくられたものだった。
しかし、日本の敗戦は私が大事にしていたものすべてを突き崩した。》

 颱風の去って 酷暑 カムバック
つづきは 次に

−−−−−−★−−−−−−
藤岡 弘 拙者らの敗戦後少年も軍国少年ほどでもないが
<死>は身近なものだった
戦死者の話 十分 聞いていた
空想の時代劇の中で 何度も斬られたし 切腹していた

恐山の禅僧 曰く
「前向きに考えよう  やりがいを持とう 
という“ポジティブが善”の風潮が強まる中で
ネガティブな感情を言葉にできない若者が増えている

<死>を遠ざけた結果である
2024/08/18(日) 晴れ


敗戦記念日


【蘇れ!日本刀
少年時代に観た時代劇が、いまの私の夢を育む
藤岡 弘】

藤岡氏とは同じ昭和二十一年生まれ
同じ敗戦後少年 
気分はシンクロされている

あっ そう きのう敗戦記念日
そう 軍学者 昔 云っていた
敗れたと宣した八月十五日 
靖国参拝するのは 英霊に失礼だ

藤岡氏に戻す
原稿依頼の際 自宅訪問
快諾  このような本にぜひと
先に弊誌を送っておいた

あっそう 藤岡氏にはチャンネル櫻にも出てもらった
(『週刊 武道通信TV』)
拙者と同じ “育ちの良い“敗戦後少年だった

次 
1ページコラム「床几」
【ライフルと白鞘{しらさや}  佐久間保男】

ライフル射撃選手/指導官(自衛隊)が鞘師になる
佐久間 →  射撃はその日の温度、湿度、風向き、試合会場の地形といったあらゆる状況を計り、周到な準備をした上で精神統一をし、標的に向け狙いを定め引き金を引く。冷静な判断と精神統一が大事な競技。

佐久間 →  (鞘の基本の)白鞘づくりは、まず材料の選定、木取り、板割り、形取り、鞘と柄の部分の切り分け、刀の形に形取りした面を鞘専用の鑿{のみ}を使い、直線面、曲線面を掘り込んで、刀にピタリと合わさるようにする。その呼吸はライフル射撃と共有するものがあった。

ライフル射撃→鞘師
伏線があった
父が愛刀家 / 刀づくりの伝統が残っている新発田市へ移転

刀 本身だけでない 鞘があって一人前
拵えの鞘 白鞘にはじまり白鞘に終わる
刀剣文化のひとつである白鞘づくりを守りつづけたい

−−−−−−★−−−−−−
その昔 グアム島へ行った
地元のニイチャン 二人  日本人観光客相手に
チャチな射撃場やっていた
記憶では15mほど先に的がある 掘っ立て小屋
小型のリボルバーだった気が
一発 撃った
的に当たった
二人のニイチャン 真顔で驚いていた

グアム島の戦い
総司令官 自決 
約二万人の日本兵 斃れる
2024/08/16(金) 雨


Summer Holiday

あ〜 あしたから夏休みだ〜
学校から 家路に向かう
沼津第二小学校 正門jからの一本道
心で叫んだ 小学生の記憶
四、五年生だったろうか

ランドセル背負って 走っている自分も
オーバーラップされて
記憶の引き出しに しっかり入っている

学校からの開放
朝 学校へ行かなくてよい
一日 何をするか自分で決める
三角ベース  海水浴 漫画貸本屋…………

海水浴 小学生一、二年 保護者同伴
波際で バシャ バシャやっているのを
祖母 日傘差して じっと 見ていた

こう 暑くちゃ 本日は
Summer Holiday
2024/08/14(水) 晴れ


金メダル


jeux olynpiques de paris 
も終わった
レスリング 金メダル 8個  銀 1  銅2

昭和生まれは知っている 
レスリング なぜ「お家芸」になったのか
八田一郎 よく知っている

八田一郎
「ソ連がレスリング強いのはサンボだ」
日本人 「サンボ」 なんて知らなかった
「ちびくろサンボ」は知っていたが

1963年 ソ連からサンビストを初来日させる
1965年 日本サンボ連盟を設立  ビクトル古賀(古賀正一)をソ連に派遣

−−−−−−★−−−−−−
週プロの1ページコラム
「格闘技通信」
サンボからはじまった

格闘技ファンにサンボ熱 高まる
倉庫に長年 眠っていたスポーツ新書『サンボ』 バカ売れ 重版
新刊 佐山聡 『これがサンボだ!』 バカ売れ 重版

週プロ増刊「格闘技通信」 バカ売れ
「格闘技通信」  単独創刊 
空手 柔道 レスリング ボクシング 中国武術…………

「格闘技通信 サンボツアー」 実現
団長として二十名ほど連れ ハバロスクへ 
応募者多くは 柔道 レスリング経験者

ソ連サンビストから基本技学ぶ  して模擬試合
最終日 ハバロスク大学 体育館で日ソ対抗戦
一人ぐらい勝てた者いたか……  惨敗との記憶

「格闘技通信」  総合格闘技の扉 こじ開ける
それまで
どの辞書には「格闘」 しかなかったが
それ以後 どの辞書にも「格闘技」 出現

拙者 金メダリスト編集者 と云えなくもない
ベースボール・マガジン社  金メダル 1個

金メダリスト編集者とは
時代の精神みたいなものと 格闘し 
つぎの時代を読み解く者
2024/08/12(月) 晴れ


真剣勝負


【『蝉しぐれ』の剣戟
小川 武(神道無念流剣術代十代)】
 
小川」氏 日本武道館刊行『月刊武道』編集部におられた
杉山頴男事務所 立ち上げの前
禄を食んでいた時分 近場なので 編集部には ときどき お邪魔していた
それを思い出し 原稿を依頼した次第
 
藤沢周平 『蝉しぐれ』の主人公 牧文四郎の剣戟を
古武道を修練する者が“創作/フィクション”を分析するとの意図である
 
その真実性はともかく
剣道/剣術には無縁だった藤沢周平
小川氏 → 藤沢周平氏も、どなたかに話を聞くとか、それなりの研究はしていのではないか。そうでなければあそこまで、迫真ある撃剣シーンは描けないではないかと思うのだ。
 
「形」についても語る
小川氏 → 形の修業は二十年近く打ち込んで、どうやら形武道の真髄が薄っすらと理解できるようになるが、人はすぐに形のいろいろな場面をいろいろと理由づけする様になる。
それは向上心の表れであるが、わずか数年で理屈を捏ね回すのは控えた方がよい。なぜなら伝統ある業自体に理屈を越えた内容や力があり、……
 
天然理心流の《違った筋を使いたくなるが 変化した側は必ず負ける その経験から じっと我慢する それが「根」 》に通じるものがありそうだ。
 
この原稿で 圧巻だったのは これだ
小川氏 → 幕末の戊辰戦争で実際の真剣勝負を体験された、明治の元勲渡辺昇、
神道無念流宗家関東派初代根岸信五郎の両先生が、このように話された。
「真剣で対峙するということは、実に怖ろしいことで、普段の道場稽古では考えられない心境に追い込まれるものです。喰うか喰われるかの場面では、二間、三間でも対峙した時から真剣勝負の葛藤が始まり、何回やっても間合いなど頭に来ないものだ、ただ意を決して斬り込んで行き、チャリンと音がして決着がつくもので、ただ捨て身で相手にぶつかる以外、活路はない」

先述した
《ときどき、階上から近藤のすさまじい気合が、落ちてくる。》
《「近藤先生が斬り合っているところは見えなかったが、ときどき物凄い気合が聞こえた。えっおっというかん高い声は、姿が見えないが、我々の腹の底へもびんびん響いて、百万の味方にも勝{すぐ}れた》

えっおっ  というかん高い声とは
恐怖心を追い払うためではなかったか
初代近藤内蔵助  
農民たちに  まずは 恐怖心から逃れる方を教えた

−−−−−−★−−−−−−
鎖帷子剣士との撃劍試合
刃引きといえ 防具は完璧
終わって 防具 道着を脱いだとき
臭かった  油汗 かいていた
2024/08/10(土) 晴れ


床几{しょうぎ}


いまは亡き 平井師範からの聞き書き 天然理心流の秘伝
次 
1ページコラム「床几」

この「床几」とのタイトル 思い浮かんだのは
「武道通信」 まだ企画中のころだった
いまはない 国立駅前の本屋で棚を見てまわっていたとき
突然 降って湧いた  棚にある本とは無関係だった

いま吾らが床几を見るのは 戦国時代映画
野に陣営を張るとき 大将ほか主だった武将が腰かける
折りたたみ式腰掛

この「床几」のカット
いまはない 古本屋の店主に紹介してもらった
初老のアマチャア画家 原稿料受け取らなかった
いまは亡き人になっているだろうか

タイトル 「刀剣商の小学校巡回」
川島貴敏{たかとし} (刀剣商 泰文堂)
小学生三年の娘さんから
「おとうさん 火縄銃 お店にないかな」
歴史の授業でポルトガル船が種子島に漂着したところを来週やる
先生から頼まれたと
店主 大筒一挺 学校まで運び そのまま仕事へ

その夜 帰宅し 娘からの報告に びっくり仰天

校長先生  特別授業とし 全校生徒を講堂に集めた
全校生徒 <実物>を鑑賞
先生たちも驚く 大フィーバーとなった

鎧や刀 鑓も実物を見てみたいとなった
これが  全国刀剣青年会の小学校巡回ボランティアのはじまりとなった
「あーこわい」「わーきれい」
どの会場でも 刀を目にした子供たちの反応

−−−−−−★−−−−−−
いまはない 国立駅南口前 喫茶店 「邪宗門」
店内に火縄銃が飾ってあった
 「邪宗門」 店主 時代考証家・名和弓雄氏の実弟
お二人とも いまは亡き人

−−−−−−★−−−−−−
ふと 思い立ち
天然理心流稽古場まで足を運んだ
テレビ撮影が行われていた
女子剣士が増えていた時期だったからだろか
平井師  気分が悪くなり救急車で搬送された
それが最期となった
拙者と同じ 昭和二十一年 生まれであった
奇縁とも 云えなくもない

2024/08/08(木) 晴れ


寛政の千人同心


jeux olynpiques de paris
TV観てたら 思い出した
弓道/剣道/居合 やる前
フェンシング やった
友人  フェンシング部つくろうと
ふたりして 剣 買った
暇をもてあましていた留年時だろう

フェンシング剣  三種ある
フルーレ/エペ/サーブル
フルーレ 初心者用
ならばフルーレ だったろう
袋に入れた剣もって 学内 歩いていた記憶だけ
三日坊主で終わったのだろう

フルーレ → 背中を含む 胴体のみの<突き>だけが有効
エペ →  足の裏も含む 全身の<突き>だけが有効
サーブル →  頭 腕を含む 上半身に<突き・斬り>が有効
(日本刀と違い両刃)

中世の西洋剣術にも 流派はあったのだろう

−−−−−−★−−−−−−
天然理心流 免許皆伝の懸位にある
「浮き島の位」 こうある
<荒海の水につれそう浮島の沖の嵐に心うこかす>

懸位とは遠く隔てた位との意味であろか
天然理心流の極意中の極意か

旧かな 新かなに直すと  濁点が入る
<嵐に心うごかず>
「時代の荒海がこようとも そこから動くな 根だ」
とでも解釈しただろうか 近藤勇
近藤勇 「浮き島の位」  土方歳三に話しただろうか
話していたはずだ

天然理心流の≪根≫ 
寛政の千人同心
敵は西から来る 倒せ
幕府を守れ
2024/08/06(火) 晴れ


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