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韓非子{かんぴし}


支那の最近のハナシだ
お笑い芸人 トークショーで 吠える野良犬を
支那軍に例えるジョーク披露
ショー運営した上海の芸能会社
罰金約1335万元(約2億6千万円)
お笑い芸人 永久出演停止

《西尾氏→聖徳太子の十七条の憲法にも、礼という言葉は出てきますが、日本では馴染まなかったというふうに考えざるをえない。そこが大きな問題なんです。というのは、礼法を支えるものは、鞭と飴なんですよ。道徳の表向きの儒学思想、孔子の教えですね。そんなことで人間は動きませんから。その背後にものすごい刑罰、報復の思想という、韓非子{かんぴし}などの、ようするに厳しい厳しい刑罰などの、その二つのバランスで、古代国家というものは、中国そのものは、毛沢東になるまで全部、成立している。》
*韓非子→刑罰を以て政治の基礎と説く

付け加えれば 習金平までも

著者サイン本
川添恵子
『中国人とは愛を語れない』並木書房刊
2009.6月吉日 とある
並木書房店主 奈須田さんとの会席の折 川添さんも同席した際のものだろ

カバー 折り返し 文
<中国には、権力者が人民の幸せを考え、信用した歴史がない。
悲しいかな、中国人民はそれを分かっているから、「上有政策、下有対策(上に政策があるなら、下には対策がある)」をモットーに社会の隅々まで無法状態、人々は私利私欲に走る…………。
八〇年代の中国初留学から二十年あまり、日中ビジネスの現場に立会い、アジアの華人、世界のチャイニーズとも深く接してきた著者が、日本人には理解できない中国人気質に鋭く迫る!>

各章 見出し
序章 中国という災危が日本を襲う
一章 こんなに違う中国人の感性
二章 中国人とアメリカ人は似ている
三章 中国人の生活に平穏の文字はない
四章 台湾は中国ではない!
五章 教育現場から見える中国の未来
六章 中国は過ちを何度でも繰り返す
終章 虚像と妄想の“中国四千年”

支那の男と女と 愛を語り合った
日の本の男と女もあろう
人の世 人類学でも地政学でも解けない何かがある
人の世とは 一筋縄ではいかぬものである
2023/12/04(月) 晴れ


カミとゴッド


西尾氏 支那と日ノ本の違い 連綿と語る
科挙制度 皇帝 貴族/豪族の口出しを防ぐため
家柄/階層/家門に関係なく採用
貴族/豪族の干渉を排除
ストレートに民衆を統治するため
一人の皇帝 他は奴隷 

日ノ本 縄文/弥生 一万年くぐり抜け 独自の秩序出来上がっていた
支那から完成された異質文明 入ってきたが ひび割れ
支那にはない貴族社会 出来上がった

平安文化で特筆すべきは女流文学
『源氏物語』 仏教に対して 自分たちの喪っていた日ノ本人の古いお祈りで
一生懸命自分を守ろうとする民間信仰にすがる
そんなもの多分に感じられる作品

<紫式部 一〇〇〇年前 
西尾氏の云わんとすること云っていたのではないか>
西尾氏 紫式部の気持 わかっていたんだ


西尾氏 今度はキリスト教の[神]と日ノ本の「神」違い 語る
[神]と訳すべきではなかった ゴッド→天主
日ノ本の神道の神→「カミ」
「カミ」は天を作るのではなく みずからなっていく
血を流したら そこから雷の神が 刀の火花から稲妻の神が
神は生まれてくる
西洋人の神と同じと誤解するから「人間宣言」のような誤解を生み

前田 ここで博識を披露
大和言葉では「カ」に意味があって 「ミ」に意味があって
「カ」は生命力 「ミ」は生んだり作り出す意味
漢字が入ってきて用法が変わってしまう
かろうじて神道の祝詞みたいなものに残っている

歴史教科書の話へ
どういう人間に次の世代を育てたいのかという理念が根底にないと
歴史の教科書を材料にして どう作っていきたいか
歴史教書の執筆者(新しい歴史教科書をつくる会)たちにぜひ持ってもらいたい
そう 前田 「つくる会」のシンポジュームに出たんだった
西尾氏 それに対して
《今おっしゃたことは大事なテーマです。でも歴史の場合あまり道徳を前面に出すと、今までの教科書が道徳を前面に出しすぎていますから。左翼的な道徳観を。》

後年 西尾氏が「つくる会」から離反したのは これか?
2023/12/03(日) 晴れ


儒教 学問で終わっている


五ノ巻
論客 西尾幹二
表紙撮影 照明 右から当て 両者顔半分 陰影つく
そのせいか 対談後 陰影を残すことになる

前文
◆論客・西尾幹二氏は熱血漢であった。氏の最新作『私の昭和史』の“軍国少年”が目の前に現れた感じがした。
執筆を始めた『国民の歴史』の目次を取り出し、開口一番、「いや、やはり一冊にまとめるのは無理ですね、二部になります。話したら何時間かかるかわからないので、「一番書きたかったところから話します」と、鎌倉時代の発見から火ぶたが切られた。
創刊号から対談は十五頁と決まっていたが、今巻、ついにその掟は破られた。

タイトル
【鎌倉時代に日本独自の精神の秩序が生まれた――『国民の歴史』で書きたいこと】

西尾氏 まず前田に『国民の歴史』目次案を見せる 
前田 かなり膨大な内容になりそうですね
西尾氏 すべてを話すには時間的に不可能 で 
≪西尾→鎌倉時代に関して、非常に面白いことに気が付いたのです。≫

公家社会と武家社会の綱の引き合いでありながら、両立体制で逆に緊張が保たれていた時代だと
乱れていたのは奈良/平安時代の方
奈良は建設期で戦乱が絶えなかった 平安は古代国家が誕生したあと表向き王権が確立 貴族社会が華麗に展開したと理解されているが
大陸から新たな文化 律令 仏教 儒教 貨幣 怒涛のごとく入ってきた
古代中国のようにバランスが取れないうちに 日ノ本 次の時代に移ってしまった

前田 次の鎌倉時代で秩序のバランスが取れたと?
≪西尾→今までの歴史館の欠陥は、日本は全てを中国から学び、それを基礎に国を建設し、やがて西洋からも同様に学んだと、こういう話しに全部なっているわけですが、学んだのは事実だけれど、そこに大きな落差があって本当に学んでないんじゃないか、あるいは学ぶことはなかったんじゃないか。よく考えてみると、律令も仏教も、それから文字も、徹底的に応用利用しているであって、ちゃんと学んでいないといえば学んでいないということに気付くわけですね。≫

文字も外来文化とは思っていない つまり借りてきただけ
律令→律とは刑法 令とは商法も含む行政法
律(刑法) 中国は凄まじいが日ノ本は穏やか きちんと守られていない
中国の均田法 土地をすべて均等に分与するに真似て班田収授法つくるが  
三世一身という法ができ 三代たったら私有地になるとし
墾田私有地法といって開墾した土地は自分のものになる
これが荘園に発展する……と西尾氏 語りつづける

≪西尾→仏教も日本化してしまったと言えるし、儒教も礼法として血肉化してないというか、朝鮮の方が遙にちゃんと儒教は入っているじゃないでしょうか。
日本の場合の儒教は学問で終わっているんじゃないかと。≫
≪前田→えっ、儒教が学問だけで……≫

ここで 前田 陰影 走る

−−−−−−★−−−−−−

紫式部 『源氏物語』で光源氏に
「大和魂があるんじゃないですか」と云わせている
紫式部 一〇〇〇年前 
西尾氏の云わんとすること云っていたのではないか

貴族社会(男社会) 唐風に染まって大和魂(心)を見失った
女だから見抜いた 
来年の大河 『光の君へ』
紫式部に そんなこと云わせるわけないよな
2023/12/01(金) 薄曇り


Webで読むか 紙の本で読むか


うまいソースインディアン
そう書いてあると 祖母が教えてくれた
はじめて 覚えた字だ 
いや 書かれている まだ讀めない文字の意味を知った
三歳ごろか
台所にあった 鍋引きに使われていたのだろう
赤い色の真ん中にインディアンの顔が書かれていた

<88年間ソース作ったブルドック工場が閉鎖へ
埼玉県川口市で88年間ソースを作り続けたブルドックソース(東京)の
鳩ヶ谷工場が今年9月、老朽化などを理由に生産を終了した。>
の記事で 想い出した

そう 「うまいソースインディアン」で検索してみる
出てきた 昭和レトロ 800円  

HP
「Webで読む武道通信」
一巻すべて250円/ご注文はメールにてご注文ください
「武道通信の紙の本 購入案内」

Webで読むか 紙の本で読むか
でなく
二十五年前 創刊された本(雑誌)が
その次号も そのまた次号も
いまでも 棚に並んでいる 
売れなくてもよい これが狙いであった やも知れぬ

明日は もう師走
今日は これまで
2023/11/30(木) 晴れ


懸体一如


松岡正剛氏
儒教と武道 語っていた
四ノ巻 小杉さんの前の頁
【絶対から相対へ
かつての禅は、ゆるやかな老荘思想の色を帯び、
武士の戦闘における絶体絶命の感覚は
「絶対」から「相対」に……。
そして新陰流の懸体一如の「相対」が登場した】

*「懸」 かかり打突していくこと 
 「待」 応じることである
「懸待の一致(一如)」 攻撃と防御が表裏一体をなすもので
攻撃中も相手の反撃に備える

末尾の中見出しの項から
≪日本の武芸観というものはナーガルジュナの中観思想や華厳思想を直接に用いたものではない。≫
*ナーガルジュナ→龍樹菩薩(ナーガールジュナ)西暦150〜250のころの
インドの僧 釈迦の「空」を理論的に解明した
≪最初は禅から入り、やがてその背後にひそむ老荘思想が語る「無為自然」の考え方に共鳴し、そこから「相対」の観点を少しずつ招き入れていったものかと思われる。≫
なぜなら
≪そもそも日本の武道は、中世に武者の世があらわれるとともに禅林思想がほぼ同時に出現したのに由来する。藤末鎌初{とうまつけんしょ}のことである。
*藤末鎌初→平安時代末期から鎌倉時代初期のこと 「藤」とは藤原氏が栄華を誇っていた平安時代のこと 「鎌」は鎌倉時代を指す
むろん、それ以前から戦闘は踵{きびす}を返して続いていたが、それは人生や生活に深くかかわるというものでなく、したがって個々人の死生観ともつながっていなかった。
それが次第に戦場での客死{かくし}が無地感と重なり、『平家物語』や『太平記』の語りが加わって、武闘で死ぬ者たちをめぐる哀切の美学が漂った。
けれども、まだその死生観は一族郎党のものであり、宿世{すくせ}の定めというものだった。それが個人の哲学に向かうには戦国の世をこえて、近世にはいる必要があり、そこに個性の中に発酵する武道の自覚というものが必要であった。≫

武士の道 数行で端的に語っている お見事
≪このとき、かつての禅はゆるやかに老荘思想の色を帯び、戦闘における絶対絶命の感覚は「絶対」から「絶待」に変質していって、ついにそこから懸体一如の「相待」なるものが登場していったのである。
かくて日本の武道は、待つことの重要を確信するにいたる。向かことが待つことであり、待つことが向かうことになった。≫

−−−−−−★−−−−−−
真珠湾攻撃 待てなかったのか
アメリカ艦隊が来たとしても
吾が連合艦隊
硫黄島 北上した沖合あたりで 待って 向かうはずだった
当時の大本営 作戦
山本五十六 ゴリ押しの真珠湾攻撃
2023/11/29(水) 晴れ


身を殺して以て仁を成{な}ること有り


果たして本来の儒教とは
そのようなものであったかのか

『孔子伝』白川静によれば
孔子は巫女の私生児 早く母も亡くし 孤児に
母方の神に仕える巫祝{ふしゅく}者集団の中で成長
子供時代には 俎豆{そとう}と呼ばれるお供えごとの遊びに興じ
成長するにつれ喪礼{むれい}などの葬祭儀礼を身につけた

孔子のバックボーンには その血筋である祭礼文化
すなわち 原儒のシャーマニズム文化があった

白川氏 「儒」という漢字 こう解く
儒はおそらく もと雨請{あまご}いに犠牲にされる巫祝を云う
言葉であったと思われる
儒の起源には 
遠く焚巫{ふんふ}の行われた古代まで遡るものであろう

巫祝{ふしゅく}とは 雨請の儀式で 髪を切り 爪を絶った巫祝者
積み上げた薪の上に座して火で焼かれ 自らを神に捧げる
人身御供であった
この風習 孔子が生きた春秋時代(B.C722〜481)のも残されていた

孔子 こんな人身御供 止めさせたかった
古来のシャーマニズムに帰れ!と
血にまみれた呪術信仰 現世利益追及 権威主義から離脱させ
神的な品格を人に備えさせるため
周の世の政治家 周公{しゅうこう}の礼楽{れいがく}政治の
世を再現することに心血をそそいだ
※礼楽→礼節と音楽 社会秩序を定める礼と 人心を感化する楽

孔子の教え 
精神修養のためとか 道徳論とか 啓蒙的倫理規範と捉えてはダメだ
ましてや後代になって変質した封建イデオロギーとしての
儒教/儒学と混同してはならない

一見 知的に洗練され 制御されているかにみえる
孔子の言葉の髄には 
自らを捧げて悔いない 信に対する狂おしいまでの血が流れている
それらは 次のような『論語』の言葉に明かだ
◆吾が道は一{いつ}以て之を貫く
◆己れを克{せ}めて礼に復{かえ}るを仁と為す
◆身を殺して以て仁を成{な}ること有り

くくられて 火にくべられる巫祝{ふしゅく}の
めくらめくような祈誓{きせい}のリフレーン
その余韻の中に孔子の声を聞き分けるならば
『播磨国風土記』に記された腹を辟{さ}き巫女も
「義経恋し」と腹切る忠信も
肌隠して 主君を冥土に追う武士たちも
神へ連なるか 死者へ連なるかの違いはあれ
死を踏み越えても 己が信じる存在へ自己を捧げる
原儒の人々なのである

−−−−−−★−−−−−−
原儒のころ
日ノ本列島 縄文後期か
日ノ本列島人 祭祀/呪術/信仰 どのようなものであった
遮光器土偶など土偶  
巫祝{ふしゅく}の替わりであったか
2023/11/28(火) 晴れ


主従の情愛


佐藤忠信{ただのぶ}二十五歳 十文字腹の作法
末代の手本となる 『義経記』 (室町初期成立 作者未詳)

忠信 声高に念仏を唱えたあと 立膝になって刀を抜き
左手の脇腹にガバっと刺して 右の脇下へスルリと引き回し
あらためて胸先に突き立てたかと思うと 臍の下まで 一気にかき落とす
十文字の作法である
*十文字の作法 以前からあったのか 忠信“特許”か定かでない
『義経記』 その記述無し

そこで刀を抜き取って 「さすが名刀 腹を切ったのに 少しも物に触った
感じがしない」と云い放った忠信
拳を傷口の中に入れ 腹わたをつかみ出し そこら中にさんざんうち散らかして見せるも死なない
その死なないわけを 忠信云う
「これもあまりに判官(義経)を恋しいと思い参る故に これまで命長きかや」
義経から賜った刀を形見と見立て その切先を口に含むや
膝を押さてスクッと立ち上がり 手を放して ガバァとうつ伏せに倒れた
刀の鍔が口で止まり 切先は髪をかき分けて後ろにズッと抜け出ていた
これにて絶命

誇張はあろうが 当時の者 みな 純 みな 信じた

<恋しいと思い> 義経へのホモセクシュアリティでない
『義経記』 忠信の主従間の情愛だと云うのだ
いまどきの吾らにはわからぬ
主を死して守る「弁慶の立ち往生」も同じく

戦乱 去った江戸の世
落城・討死セット 終焉 
主君が自然死したあとを追って腹を切る 追腹
この追腹に 
何パーセントかはホモセクシュアリティあったことは否めない

家光に殉じた元老中 追腹のとき
「御座をも直したる者にて候 肌を申すまじき理由にて
肌脱ぎ申さず候」
御座をも直したる→若衆として御伽{おとぎ}したことがある
だから殉死するときも他人に肌を見せない という意味
(『殉死の構造』山本博文)

いまの世のヒューマニズムに立てば 命は地球より重たいに立てば
主君に殉じて死ぬなど不条理であり
江戸幕府の殉死禁止令は善政と云えば云えるが
『刺青・性・死』松田修 曰く
「圧殺されたのは<封建体制の不条理>でも<非人間性>でもない。
主従の情愛の体現・体認の手段が圧殺されたのである。
愛の自由と自死することの権利とが、
両者ないまぜのままに奪われたのである。
殉死を男色にからめとられた体制の側の報復は、
愛と死の一身を賭けた表現を抹殺することであらわれる。
かくして心中禁止令と殉死禁止令とは、
その根ざしをまったく同じくしているのである。」

小杉さん 殉死が危険視された遠因に
キリシタンの猛烈な殉教熱があったと云う
迫害されただ死ぬのでなく 自らが死んでみせるキリシタンの殉教が
どれほど伝染力をもった火種となって人々の心を焼くか
江戸幕府は思い知らされていた
たとえそれが何であれ 何ものかに殉じて死んでみせる姿そのものが
幕府は脅威だったと 小杉さん 記す

さて 明日は儒教の いや原始儒教の
◆身を殺して以て仁を成すこと有り

−−−−−−★−−−−−−
武道通信 準備の頃だったか
とある御仁を訪ねた
警備会社の会長だったとか かすかな記憶
誰に紹介されたか 己で探し出したか 記憶にない

記憶に残っているハナシ ただ一つ
痛くない切腹の仕方

一、腹を一杯にへこませる
二、刃先を脇腹 左に立てる
三、腹を一杯に膨らませる
四、刃先が自然に刺さる 右脇腹に引く
腹の脂肪 厚いから痛みは感じない(斬味の良い刀に限る)
五、静かに引き抜き 刃を右首 顎の下あたりの頸動脈に当てる
六、右手で左肘を掴み 引く 
これで終わり

いまの世の切腹 これでよし
のハナシ
2023/11/27(月) 晴れ


記憶の遺伝子


日ノ本 儒教 伝わったの六世紀初め
『日本書紀』
その影響 朝廷の祭祀/儀礼/制度/文物 に関わるものだけ
腹辟沼のよう日ノ本の民族の古層まで及ぶものではなかった

腹辟沼の伝承の背後にあるもの
神に祈りが通じなかった巫女の自己供養が秘められている
『日本人はなぜ切腹するのか』千葉徳爾{とくじ}

巫女は腹を辟{さ}き 生命の宿りである脾臓を引き出し
神々に捧げ 沼に身を投げた

古代の日ノ本人 命は腹の中 内臓に宿っていると考えていた
それは縄文の世からかであろうか

『日本人はなぜ切腹するのか』 図書館で見つけ手にする
図書館へ返却してからアマゾンで注文 手元にある
ひと昔前の この欄にて
縄文土器の縄でつけたような文様 あれは腸を形どったと書いた
蛇 信仰 蛇の生命力 腸と関係あると当てずっぽうした

この古層の風習が 武士の登場をもって 
民族文化における死の型の一つとなったわけであるが 
<腹>は広く メタファーとなる
<腹> 前方一致で辞書引く

⇒腹が癒える⇒腹が痛む⇒腹が居る⇒腹が大きい⇒腹が来た
⇒腹が下る⇒腹が黒い⇒腹が据わる⇒腹が立つ⇒腹ができる
⇒腹が出る⇒腹が無い⇒腹が煮える⇒腹が張る⇒腹が膨れる
⇒腹が太い⇒腹が減っては軍はできぬ⇒腹が捩れる⇒腹に一物
⇒腹に納める⇒腹に落ちる⇒腹に据えかねる⇒腹の筋を縒る
⇒腹は借物⇒腹も身の内⇒腹を合わす⇒腹を痛める⇒腹を癒す
⇒腹をえぐる⇒腹を抱える⇒腹を固める⇒腹を決める⇒腹を切る
⇒腹を括る⇒腹を拵える⇒腹を肥やす⇒腹を探る⇒腹を据える
⇒腹を立てる⇒腹を見抜く⇒腹を見られる⇒腹を召す⇒腹を読む

腹 慣用句 役割果たしているものの
切腹の記憶の遺伝子は消え果てた と思いきや
“三島事件”で立ち現れた
この古層の記憶の遺伝子
再び 立ち上がる日 くるのだろうか
2023/11/26(日) 晴れ


切腹の日


きょうは「切腹の日」
傘張り浪人 名づける
わからぬ御仁は それでよい
わかる御仁は わかる それでよい

四ノ巻
【儒教と殉死
 切腹に見る原儒の風景 
江戸幕府はなぜ殉死という生の表現を封殺したのか
はたして儒教とは本来、そういうものであったのか。
小杉英了】

概要 
日ノ本 最初の切腹 『播磨国風土記』による
(原本 はるか昔に失われ 現存するは三条西家に伝来した古写本)
巫女が怨みと怒りのあまり 腹を辟{さ}き 沼に入水
この沼を腹辟沼{はらさきぬま}と云ふ

武士の登場をもって 切腹 民族文化における死の型の一つとなる
義経の忠臣 佐藤忠信{ただのぶ}二十五歳 十文字腹の作法
末代の手本となる 『義経記』 (室町初期成立 作者未詳)

鎌倉幕府最後の六波羅探題
北條仲時の自刃に 四三二人が集団 切腹/殉死
『太平記』(四十巻 作者 小島法師説が有力
北条高時失政・建武中興から南北朝時代五十余年間の争乱の様)

戦乱 去った江戸の世
落城・討死セット 終焉 
主君が自然死したあとを追って腹を切る 追腹
家康 殉死を禁じるが あとを絶たない
四代家綱 厳罰をもって禁止 反した息子 斬首 一族 所払い
殉死 鳴りをひそめる
五代綱吉 「武家諸法度」 
ここに「弓馬の道」 儒教的 忠孝/礼儀に席を譲る
武士の内面にたぎり立つものを鎮め 新たな秩序に沿わせるて慰撫する
官学イデオロギー

けれども 果たして本来の儒教とは
そのようなものであったかのか

ちょっくら 出掛けてくる
概要 中身はあした
2023/11/25(土) 晴れ


和を以て貴し

きょうは「和食の日」とか
和食のメソッドと云うか エッセンスと云うか
その心 何か おわかりか

聖徳太子が定めたとされる
「十七条憲法」第一条
<和を以て貴しと為す> の「和」なのである

もともとは「論語」の中にある 孔子の弟子の言葉
「礼之用和為貴(礼の用は和を貴しと為す)」

呉氏 云ってます
≪「和」の本体にあたるのは「礼」「礼」の作用が「和」≫
「和」は副次的なものだ

みんな一緒 儒教では「同」
みんな均一 ということ
「同」は いわば水のようなもの どこをすくっても水
「和」は いろんなものがごった煮になって
一つの調和した味をもっている
これが対談 タイトル
【和をもって尊し 和はごった煮スープ】

が 聖徳太子の「和」は ちょっと違う
古から日ノ本人 大陸からやってきたもの
自己流にアレンジするの 得意
「論語」の<和>もしかり
仏教風に味付けした
「和」を副次的なものでなく 主 一次的なものにした

「礼」とは秩序のこと 秩序が一番
秩序を保っていくには ギスギスしないように「和」も大事

聖徳太子の「和」
「忖度する」でも「空気を読む」でもない
十分議論したうえでみんなが納得し 和合しましょう

さて 和食は ごった煮スープか
聖徳太子の和合か

さて 
あしたは何の日?
2023/11/24(金) 晴れ


孔子


《呉→今から十年前だけど、小説家の井上靖って人が「孔子」という本を出してベストセラーになったんですよ。これは内容もかなり問題があるんだけれども、外国にも三十ヵ国ぐあい翻訳されているんですよね。ところが、まともな研究者で評価している人は、誰一人いない。》
 
《呉→孔子の一代記ですよ。伝記なんだけどね、ところがこれがもう、今の学者では誰もこんな説はとらないという七、八〇十年前のイメージのまま、その時代の知識で固定したまま、堅苦しい求道者というイメージを作っちゃったんです。》

《呉→儒教というのはえね、英語ではコンフューシャニズムって言うんですが、これは「孔夫子」を支那読みした「コン・フー・シ」から来てるんですね。
「夫子」というのは「先生」を丁重に言った言い方ですね。だから「コン・フー・シ主義」、つまり孔子主義というのが儒教なんですよ。》

呉氏 孔子が説いたこと以外にも儒教に他の要素がいろいろと混入されているが あくまでも孔子が説いたことが中核
論語の中にも後でつくられたものも入っているが やはり原典になるものは論語と云う

朱子学も陽明学も 時代が過ぎ弊害化してとき唱えられたわけだが
原典はやはり論語なのか

呉氏 論語の中にある「天子」を語る
天命を受けて人民を治めるから天子 大和言葉 「天皇」になる
「天子」いろいろ書かれているだろうと思いきや
たった一箇所 内容はこうだ
天下が治まっている時には 天子から法令が発せられる
ちょっと乱れている時には 諸侯から 日ノ本なら大名
もっと乱れている時には 諸侯の下の下級武士から
つまり 國の法令が発令される順位のところで一箇所だけ
天子は立派だとか 敬えとか出てこない

日ノ本の「天皇」 漢字だけちょっと拝借したが大分 違う
治世の象徴との意味合いが強い
江戸の世 
水戸学 二代徳川光圀 朱子学をベースに国学/史学/神道を結び合させた
後期と称される水戸学 皇室の尊厳を説き尊王攘夷の大きな影響及ぼす
水戸学も時の流れで切り口が変わる

−−−−−−★−−−−−−
最後の征夷大将軍 徳川慶喜
大政奉還 告げる前の夜
「論語」 一節 口ずさんだやも知れぬ
しかし 王政復古の大号令に異を唱え 鳥羽伏見の戦い後
江戸に逃亡する前の夜
「論語」 一節 口ずさんだやも知れぬ
して水戸へ謹慎される前の夜
「論語」 一節 口にしたやも知れぬ

拙者も論語 口ずさんでみようか
朋遠方より来ず またせいせいするや
2023/11/23(木) 晴れ


切り口


論客対談 リード(前文)
≪◆対談日平成十一年三月十三日。三月からご両親介護のため名古屋へ引っ越された呉氏には、この日が移転初の状況となった。
リングス事務所に立ち現れたときのたたずまいが何とも言えず、「カメラマンが外で撮りましょう」と囁いた。リングス事務所の前のベランダで表紙初の室外撮影となった。
前田日明と対談すると言ったら、みんなから「ウォ〜」と言われたと、格闘技オンチを自認する呉氏の軽いジャブから始まった。≫

やはりそうか 記憶まちがいなかった
名古屋からの運賃 杉山頴男事務所で支払った記憶 まったくない
たぶん払ってない 対談謝礼は払った トントンか

リードの後に写真 岩波新書eクラシックス『論語』
「呉氏が解説用に持参した『論語』。大いに役立つ」
対談途中 頁めくり ココにと示す

【和をもって尊し 和はごった煮スープ 論客 呉智英】
はじまりはじまり

前田 『封建主義者かく語りき』讀んで感銘うけた部分
フランス革命以後二〇〇年間の民主主義体制下 かなりの戦争が起こっている
封建制時代には そんなに起こっていなかった
大半の人が事実に反したイメージを信じきってしまっている
儒教もそういう意味ですごく誤解されている
そのあたりをお聞かせください

呉氏 曰く
儒教に限らず 思想体系 切り方によっていろんな見方 切り口が出る
大抵の人 そのうちの一つの切り口しか知らない

−−−−−−★−−−−−−
『人新世の「資本論」』 2020年刊
たちまち重版 重版 50万部
マルクスの晩期を切り口に
マルクスの思想体系に一石を投じた

兵頭二十八さん 
儒教に対等な人間関係はない
儒教圏では地位が上となり得た側はそれ以後
下位者に対してどんな無体な要求もできる
下位者と約束したことなどすべて破っても許される

儒教とはシナ家族の全面肯定に他ならない
君臣関係/朋友関係は例外規定であり
標準は父子関係/夫婦関係/長幼(兄弟)関係である
それは狭い小家族のルールである
それを国家や国際にまで適用しようというのだ
軍学者 軍事からの切り口

−−−−−−★−−−−−−
前田→儒教は究極の理想的な個人主義を説いている
個人の国家に対する役割
友人に対する友人としての役割
家族に対する役割 父親 母親の役割
個人がスタートラインになっている

呉→前田さんが言ったような個人が中心になっていくのは
ずっとあと
孔子が儒教を説いたころ(紀元前479年没)は
共同体が完全に生きている時代 
個人は前面にでてこなかった
孟子(紀元前289年没)のあたりから大きく変化する
特に宋の時代(960年〜1279年)の朱子学 非常に整理された形に

朱子学 西洋哲学におけるヘーゲルみたいだと言われる
朱子学の世界観 個人があって それを基本として社会が外側に広がっていく
そして今度は 社会を内側に向かって関知するという構造

前田さんが言った個人 まさに朱子学の個人で
朱子学 八条目の中の「修身」の<身>に当たる
個人がうまくいって 家族がうまくいって それで国が治まる
さらに世界も治まる

で この個人の内側 さらに何かと云うと
「誠意・誠心」であり さらにその内側にはあたるのが
格物致知{かくぶつちち}→ものの本質を理解して知を致す(成す)
人間の心のあり方を云う
そのことによって 個人の中の「意」が誠になり
心が正しくなる 
その個人が自ずと世界に広がっていく

−−−−−−★−−−−−−
幕府 湯島聖堂{ゆしませいどう}(孔子廟)建て
朱子学 推奨
湯島聖堂が建って十二年後
大石内蔵助ら討ち入り 亡き主の仇討つ

仇討は朱子学に反するのか
幕府お抱え儒者たち 即刻 打ち首
世相 大喝采
で 儒教でなく 政治的判断 尊厳死 切腹

大石内蔵助
個人の中の「意」が誠になりと
討ち入りしたのか
 
2023/11/22(水) 晴れ


物差し


四ノ巻
編集長敬白 前田日明
≪アレキサンダー・カレリンとの引退試合は「強さ」の物差しといったものが、自分の中に持てたことが一番の収穫だった。自分の強さ、いままで戦ってきた選手やリングスの選手の強さが測れる、狂いのない物差しを与えてくれた。≫

前田の<いまを生きる>物差しは儒教
前田が考える儒教とは 
個人のあり方を追及する生活哲学
個人と社会に対してどうあるべきか 
個人は社会に対してどうあるべきかを追及している
天国も地獄もない 生というものを正面から捉えている
宗教にならなかった儒教

前田 たっての推薦
論客 呉 智英{くれ ともふさ/ご ちえい}

呉氏 著 『封建主義者かく語りき』 慌てて讀む
拙者と同じ歳
部活 社研(社会科学研究会)も同じ 大学は違うが

この対談の折り 
親の介護で実家に戻っていたころだったと記憶する
愛知から わざわざ来ていただいたのか

後年 書籍/インタビューで 
「支那」を差別語とする風潮 批判 支那は世界共通語

支那そば屋の看板 共産党系 差別だ 降ろせと脅す
メニューからも外せ
日ノ本 ずっと「支那」  支那事変とか

支那人の自称 「支那」  英国人 チャイナ(China)と聞こえた
これ 兵頭二十八さんから聴いた 「中国」 世界の中心 中華の美称語
で 拙者 「日本」の美称語 「日ノ本」→日づる國

死刑制度 
人民が本来持っていた自然権であるところの「復讐権」を国家が奪う
仇討ち制度の復活を唱える
同じ社研から“転向”した者
仇討ち制度の復活 大いに賛同  

−−−−−−★−−−−−−
拙者の「物差し」とは いかに
十代/二十代/三十代 
年代ごとにあったような気がする
己が「何者」か が見えたとき
物差しは消えた気がする
2023/11/21(火) 晴れ


本日 武道通信かわら版 配信日


きょうも いい天気だ
きょうは 武道通信かわら版配信日だ
きょうは 102回全国高校サッカー選手権大会 
組み合わせ抽選会の日だ

21日は
世界テレビ・デー/世界ハロー・デー/歌舞伎座開業記念日/早慶戦の日インターネット記念日/フライドチキンの日/かきフライの日
22日は
いい夫婦の日/大工さんの日/ボタンの日/回転寿司記念日/ペットたちに感謝する日だそうだ

さて 23日は何の日でしょうか?
 
2023/11/20(月) 晴れ


雑兵{ぞうひょう}


いい天気だ 青天 19℃
気合かけて 木劍 振るうと 汗 びっしょり

高校サッカー選手権大会 各都道府県 代表校 決まる
そして勝者/敗者が決まる
<勝者・敗者>でないところの 
ドラマに <勝者・敗者>もない

参ノ巻(平成十一年)から二十四年たった
讀み返す
【「戦争論」は戦後庶民の戦記  小林よりのり】
【「戦艦大和の最期」を読む――
  今ダ「大和」ノ教訓ヲ学ビ得ズ  原 勝洋】
二十四年たって 検証/反証 後を絶たぬ

【武士の潔さともののあわれ
盛者必衰のことわりをあらわす 笹間良彦】
『将門記』『平家物語』『太平記』『保元物語』『平治物語』
古の戦記 検証/反証はない

【近世の戦記――リアリズムの誕生
庶民の記録『雑兵{ぞうひょう}物語』『戊辰物語』 
江戸期の双璧、言語録『常山記談』と庶民の語り『雑兵物語』 東郷 隆】
東郷氏 末尾
《戦記は「国家」が記録するもの、という認識のもと、「合戦録」のごとき個人的な物語は不用となったのである。そして、戦記にリアルさが欠けた瞬間、日本の軍事機構は非現実的な宗教的集団に変貌していくのである。》

近代 個人的な物語 多様になった
それでいい 真実は一つでない
事実も 多角的に視ることで多様になる
残るには「自分」が見たもの 聴いたもの

英霊はいるか いないか 
「自分」が信じるか 信じないの

−−−−−−★−−−−−−
『雑兵物語』 面白かった
戦国の世 終ってすぐのころ編纂される
リアルさ丸だし 
雑兵 戦略 戦術には無縁
目の前にあるのは敵

坂井三郎さん 目の前の敵に
自分は負けなかった雑兵
2023/11/19(日) 晴れ


生命力と死力


坂井三郎さんの「内戦思想/外戦思想」に 耳を傾けてみよう
すこし長くなるが 外は雨 内はエアコン→暖房

≪戦国時代、豊臣秀吉が勝とうと、毛利が勝とうと、どっちが負けたって内々の話。一つの財布の中で動かしてるみたいなもんです。
そうすると、そこで忠義のサムライというのは、どういうサムライかというと、
勝とうが負けようと、自分の殿様のために、死んだ者が忠義のサムライなんです。
それは内戦思想なんだ。島国の中ならそれで済んだんです。外国と戦う時は外戦思想でなければならないのに、内戦思想を適用したんです、当時の指導者たちは。彼らがよく言った。「死に場所を与える」とは、何たる事か。それが
太平洋戦争の大きな敗因の一つです。≫

≪死ぬために軍人になったのではない。軍人になったのは勝つためです。戦争に死に行くんだったらね、そもそも訓練も何もいらない。
その当時の軍国歌謡の作詞家までもがね、“夢に出てきた父上に、死んで帰れと励まされ、覚めて睨むは敵の空……”。馬鹿もん!と言いたい。
どこの世界に、自分の息子を戦地に送るのに死んで帰れと、励ます親がいますか。一生懸命がんばて、片手を落とされ、両手両足落とされ、ダルマになっても帰ってこいというのが親心じゃないですか≫

≪私はラバウル行ってからね、ある事件がありまして、それで搭乗員を集めて、
やれ体当たりするの、敵地に自爆するとか言い出した者に、とんでもないと。
ラバウルまで何しに来たんだ! 俺たちは! 勝ちに来たんだ! 死にに来たんじゃねぇぞ!  
絶対、自爆は許さんと。捕虜になっても生き残れと。たった一回の命ぞと。戦争だからこそ、命あってはじめて敵を倒すことができる。死に急ぐというのは、無責任極まる。だから上の方から何と言われても、とにかく飛行機がまだ飛べて、少々自分が傷ついても、敵地に不時着して、捕虜になっても生き残れ!
捕虜になれば、相手の監視兵を使い、宿舎を使い、食料を食らい、幾分かでも、敵の戦力を削ぐことができる。
その後、私の部隊では何名かが捕虜になり、戦後に生還してくれましたよ。
私は、上からかなり睨まれましたけど。≫

≪日本人の勝負感と欧米、特にアングロサクソンの連中のね、勝負感というのはね、全然違うんです。そういう研究を海兵陸士、海大、陸大では、なぜやらかったのか。
支那事変や太平洋戦争を戦ってみての経験からですが、多民族と戦ったとき、
日本人の勝利観と彼らの勝利観の違いに気がつきました。
日本人はね、剣道なら面、小手、胴の一本勝負。お互い戦力が同等に残っていても一本で勝ち負けが決まる。相撲だったら、膝が土についただけでも負け。柔道も一本取られたら負け。
外国人の勝負観というのは相手をノックアウトするか、完全にギブアップさせるかで決まる。100%戦力を喪失させたとき勝ったと判断するんです。
スポーツと軍隊の戦いは全く違うです。
日本は精鋭、精鋭って言いながら、太平洋戦争が始まった時、それ以前の体験として近代戦をやってないじゃないですか。近代戦をやらずして、我が日本、陸海軍は世界最強だなんてね。とんでもない。≫

所轄の腕利き刑事の本庁キャリア組 批判だけでない
心魂がこもっている
先の高橋巌氏の「外の関係」「内の関係」を借りれば
坂井さん 「内の関係」触れている

生命力と死力は フィフティーフィフティーの関係
死力を失なわないこと それが生命力
<やれ体当たりする><自爆する>のは死力ではい
体当たりを命じられただけで 死力は生まれない
死力を生み出したから 最期の言葉 「お母さん」

坂井さん 御自分が訓練した若き兵士 見てきた
生きて帰れ! 死力を尽くせ!

−−−−−−★−−−−−−
兵頭二十八 『近代未満の軍人たち』
「外の関係」で近代戦に近づけなかった軍人たち
奇襲開戦計画主義の顛末
近代国家の軍隊はどうあるべきだったのか
またその軍人たちは
いつ どのようにして「自律」を失ったのか
二十三人の軍人に見る日本の興亡
2023/11/17(金) 晴れ


山本五十六


『大東亜戦争肯定論』に喝采した元軍人たち
『大空のサムライ』愛読したが
坂井三郎 不人気だった
大勲位 功一級 正三位と元帥の称号 授与 
国葬に付された山本五十六に辛辣な批判したからだ

≪山本五十六が開戦前 近衛首相から「君の率いる連合艦隊はどうだ?」
と聞かれたとき、「半年や一年は暴れてごらんにいれましょう」と。
子供のケンカじゃないんだ。「一戦ぐらいなら勝てるが、後はどうなるかわからない。国力が百倍も違う国と戦って勝てるはずがありません」と言っていたら名将だったでしょう。≫

≪ミッドウェーなんか、あの珊瑚礁なんか取ったところで、何になるですか。
結局、そういう作戦をやってしまった。≫
実行部隊は時期尚早と反対したが山本ら連合艦隊司令部は黙殺との説

≪山本長官は、二年ぐらい、アメリカの大使館付き武官を経験した。
大使館付き武官というのは公然たるスパイなんですよ。アメリカで何を調べていたんだと言いたい≫
一回表の大量得点で 米國内 厭戦気分にさせるとの計算との説も
真逆になったが 坂井さん この説 聞き及んでいたのか

山本五十六 評/論 余多ある  
映画もしかり 
「聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実」
山本五十六役=役所広司
開戦の火ぶたを切らざるを得なかった男

原作コミック 映画「アルキメデスの大戦」
戦艦大和の建造をめぐる数学者の戦い
山本五十六役=舘ひろし
戦艦無用論を激白 真珠湾攻撃をしたかった男

−−−−−−★−−−−−−
兵頭二十八 『パールハーバーの真実――技術戦争としての日米海戦』
2001年夏 刊行 
この夏 拙者 参議院選挙出馬(新自由連合・比例区)
この選挙出陣式  前田日明 兵頭さん 応援演説 頂戴する

宣伝カーの中で『パールハーバーの真実』 讀んでいた
連合艦隊司令長官山本五十六が指揮する空母艦隊
なぜ真珠湾奇襲作戦では大勝し 
わずか半年後のミッドウェー海戦では惨敗したのか?

坂井さん 精神面で<内戦思想⇔外戦思想>を説く
軍学者 技術戦争の敗北と説く
2023/11/16(木) 晴れ


大空のサムライ


【特集 戦記を読む】
サブタイトル
【生命力と死力の再発見】
こんなタイトル つけたの
『大空のサムライ』(坂井三郎空戦記録)
読後感から

坂井三郎 大ゞファンの前田と坂井さん宅 伺う
以後 取材兼ね 何度もお会いした
つい<坂井さん>になってしまう

特集 一番手
【坂井三郎/英霊たちの死の代償
日本は敗れたが、アジアから多くの独立国が誕生した
霊霊たちよ、あなた方の死は決して無駄ではなかった】

TVドラマ 刑事もの
所轄の刑事 本庁の刑事に云う
「現場を知ってるは俺たちだ」

坂井さん 軍キャリア組 云った
「前線を知っているのは俺たちだ」

≪台湾からマニラに空襲をかけるんですが、ゼロ戦ならマニラ周辺まで430〜450マイル。他の国では絶対にできないけど、ひと飛びの距離です。
司令部、遠距離なので航空母艦を使おうと三隻の母艦をもってきた。そこで無駄な着艦練習をなんと一週間ほどやりました。私たち下士官搭乗員たちには大変な時間ロスをした。
我々は、もう450マイル、500マイルはゼロ戦隊として実験済み。
その時の飛行隊長たちは支那事変で我々を率いて戦ってきた経験者。なぜ「そんな必要ありません」と言えなかったのか。上から言われりゃね、へいへいでね。ともかく、そんなことさえわからない司令部がね、我々の上にいたわけです。≫

いまの世のドラマ 所轄と本庁 ノンキャリアとキャリアの葛藤 
<人>は一瞬にて変わることもあるが 
<群れ>は変わらぬものですなぁ〜

−−−−−−★−−−−−−
ウィキペディア 坂井三郎 一節
<当時の彼の愛車、スカイラインGTを引き合いに出され、「自動車と零戦はどっちがいいですか?」という質問に、「そりゃあ、車の方がよいに決まっています。車はバックができますから」と答えている。>

来日していた坂井さんの次女に聴いた お別れ会の前だった
朝日新聞女性記者 取材
「車はバックできる 戦闘機もバックできれば……」の発言
が 車 平和の象徴のように仕上げられた
女性記者 上に そのようにした方が採用される 
としたか 上が そのようにディライトしたか
読者に「大空のサムライ」
戦争を反省し 平和を願っていると刷り込ませる

回り回り ウィキペディアとなる
2023/11/15(水) 薄曇り


大東亜戦争


論客対談 最終頁
写真 三島由紀夫/林房雄
『対話・日本人論』口絵(番長書房)
たしか 金 払って手に入れた
キャビネ判サイズの写真 しまっておいた
いま 捜したが見つからない
そして いつか ひょんと現われる

末尾
≪高橋 最後にひと言。この『対話』の中で、林「あなたは“喜びの琴”の中で、思想は相対的と言った……」
三島「それは外側にあるものだから……」というやりとりが出てきます。
戦後、諸価値、諸理念が普遍的な形で自立できなかったのは、民族、歴史の理想、それへの志が日常的、人間的な対立し、緊張する機会を失ったからだということです。そして、その緊張を生み出すのは愛情なのだから、「愛情以外に歴史を解釈する方法はない」、と林さんは述べています。≫

林房雄 『西郷隆盛』書かせたのは<愛情>か

−−−−−−★−−−−−−
林房雄といったら『大東亜戦争肯定論』
昭和三十八年(1963)連載開始(中央公論)
東京オリンピック(1964)
<大東亜戦争> 封印されていた名称

坂井三郎さん 曰く
死んでいった戦友 <太平洋戦争>なんて知らない
大東亜戦争を戦い死んでいった
死者に対して慰霊の念がない 

巻頭対談の次
【特集 戦記を読む】
◆坂井三郎/英霊たちの死の代償

坂井さんから直に その言葉を聴いて依頼
<太平洋戦争> 封印した
2023/11/14(火) 晴れ


英霊に殉死した三島由紀夫


きのう 誰かさんの誕生日パーティ
で 休筆
三島由紀夫 命日墓前参拝 来週末
バスが走る 中央参道 枯葉で埋まっているか
温暖化でまだか

−−−−−−★−−−−−−
《前田 激文の文章も、あれは文学的、文章的にもどうしょもないって言われてたけど、でも、そういった観点からみたら、それほど三島由紀夫って一個人がむき出しになっているものはないし、そういうことを、身をもってさらしたと思うんです。》
《高橋 今の話、同じことを僕なりに、一言で言うとね、殉死だと思ってるんです。英霊に対するね。だから彼の文学は絢爛とした衣装をまとっていればまとっているだけ、荒涼としています。だからあの荒涼とした世界をずっとひきずって、それで遅れた形で特攻隊に殉じたんじゃないでしょうか。
殉死っていうのは、死者に自分を捧げるわけです。そういう死生観の根底には、死んだらおしまいだというのではない日本人の確信が、潜在意識の中にあったんじゃあないでしょうか。
林房雄さんが言ってらした、コアのパーソナリティがあって、死んだらおしましじゃなくて、死んだ後の魂も、生きてるんだから、その死んだ後の魂に対して、生き残った人間が、どう向き合うかっていう課題がね、理想としてすごくな生々しくあったと思うんです。》

特攻隊に殉じたと思うと 三島由紀夫の心に近づいたような気がする
高橋氏 そう語った

この話の前に 前田 三島由紀夫の愛読書『葉隠』を出してきた
死に 犬死もなにもない 死は死
良い死 悪い死 評価する事態があさましい
前田 そう解釈した そして特攻隊の死
良いも悪いもない もっと別次元の死だと
そういうこと 彼らも知っていたんだろうな と

前田の直観力には舌を巻く

≪高橋 日本民族のそういう死生観は大変なものです。死ぬことにこれだけ道徳的な高い意味を与えた国は珍しいですね。それは右翼とか左翼とか、そういう問題とは違うような気がします。≫
≪高橋 理想と、人間的な欲望との葛藤の有様の中だけに、道徳があると思います。例えば、その理想が毛沢東主義であろうと、天皇主義であろうと、その
理想そのものは道徳とは関係なくて、私情と、そういう理想との間に、その都度現われるくる何かが道徳だと思うんです。
そういう道徳が一番はっきり現われるのは、死の瞬間じゃないでしょうか?
かつての日本人は、この点がすごく意識的で、それを踏まえて生きていたような気がします。≫

−−−−−−★−−−−−
二代藩主鍋島光茂に御側に仕えた 山本定朝 
光茂 亡き後 殉死できなかったことを理由に出家 死んだフリをした
そこへ田代つらもとが訪ねてきたことから『葉隠』が書かれた
佐賀藩 幕府の殉死禁止令より一年前に出している
佐賀藩 他藩に比べ 殉死 多かった
奥方が死んだあとも 御側用人 殉死 

初代勝茂の四男・鍋島直弘(白石邑主)が死去した際
家来三十六名が殉死を申し出たのを光茂は許さなかった

光茂 なぜ許さなかったか 所説ある
幕府 なぜ殉死禁止令出したか 所説ある
殉死の理由も所説ある
それはいい
死ぬとき いまが死にどき としたことは確かだ
それでいい
来世も 同じ<とき>を共に生きよう
2023/11/13(月) 晴れ


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